098「シリーズ明智遺臣団・わが人生の橋」



四王天政実(?―1623)

又兵衛。但馬守政孝の子という。名字は四方田とも。武蔵児玉党の流れをくむ。丹波に生まれ、同国を経略した明智光秀に父とともに仕える。天正十年(一五八二)、山崎の合戦で敗れた後、潜伏先の紀州で青木秀以に召抱えられ、慶長四年(一五九九)、主家の越前移封に従う。九頭竜川の架橋に尽力し、その奉行をつとめる。翌年、青木氏が断絶し、関ヶ原戦後、越前へ入封した結城秀康に三百石で仕え、従前どおり舟橋奉行を命じられた。

◆橋には魔力があるかもしれない。現在でも橋を架ける工事に従事した人々は、何度も見に訪れることがあるらしい。橋は人々の用に寄与することもっとも大なる建造物である。その工事に従事したことが、人々に矜持を抱かさずにはおかないのであろう。

◆越前一のあばれ川・九頭竜川に架かる舟橋の南岸に屋敷を持つ男があった。屋敷跡は『太平記』にも登場する足羽七城の一、勝虎の古城址であるという。彼は朝夕、橋を眺めて暮らしていた。その期間はすでに関ヶ原の翌年、結城秀康が入封する以前、青木秀以の代からはじまっている。

◆舟橋を守るように川べりに起居しているこの男こそ、過ぐる天正十年(一五八二)、六月二日、京都本能寺に織田信長を襲った明智光秀の家臣四王天又兵衛政実である。この戦闘で、彼は信長の小姓森蘭丸を討ち取ったという。ついでながら父とされる但馬守政孝は浄瑠璃「絵本太功記」のスターである。

◆越前の舟橋といえば、柴田勝家が百姓たちの持っている武器をかりあつめて、これを鋳潰し、巨大な鉄鎖を造らせて、舟を繋いだものが知られている。現在でも福井市にいくと勝家の九頭竜川架橋に使われたとされる鉄鎖やその功績を顕彰するレリーフを見ることができる。勝家はこの時、余った鉄を農具に仕立ててたという。これを秀吉の刀狩りの先駆とみる学者もいる。が、近年、越前朝倉氏の一乗谷文化、松平家の藩政に加えて、柴田勝家の功績も次第に評価されつつある。しかし、青木秀以の治世は歴史の狭間に埋もれたままである。

◆勝家の滅亡後、この橋がどうなったか。知る者は少ない。実は勝家の時代の架橋に関する遺物はほとんど残っていない。九頭竜川の舟橋は、北陸道と交わる交通の要衝に建造された。その構造は「いろは」表記の四十八艘の舟を鉄鎖で繋いだものである。この構造は柴田勝家の代と同じであるため、ひょっとしたら舟橋の歴史はもっと古くにさかのぼるのかもしれない。

◆奇妙、と言ってもいいかもしれない。豊臣政権下では明智光秀の遺臣たちは肩身が狭いはずである。が、実際の例をみるとそうでもないらしい、という気がしてくる。四王天政実は秀吉の縁者(母が秀吉の叔母とする説あり)である青木秀以に潜伏先の紀伊でスカウトされた。

◆四王天政実は、青木氏に従って越前へ移ると、この舟橋の付近に屋敷地を与えられた。そして舟橋の奉行職についたのだが、ひょっとしたら彼はその方面の技術者であったのかもしれない。石高は千石であった。しかし、青木氏は当主秀以が関ヶ原直前に病に伏し、決戦兵力ともなる旗下六千を美濃戦線に投入できなかった。四王天政実は山崎の合戦での明智軍がおかれた状況を思い出していたかもしれない。畿内・近江・美濃に守備軍を裂き、秀吉との対決に総兵力を投入できなかった光秀軍。関ヶ原の一ヶ月後、秀以は病没する。翌年、結城秀康が入封してくると、まだ四王天政実は橋のたもとに住んでいたらしい。ひきつづき、結城秀康から橋を守るように言われ、石高は三百石に減ったものの、正式に舟橋奉行に任ぜられた。秀康の没後も二代忠直に仕えた。

◆舟橋を守る男が明智光秀の遺臣であると気づいた者も少なかったであろう。

◆元和六年、政実は子の孝信に家督を譲り、同時に舟橋を託す。越前四王天氏は初代政実以後、九代にわたって舟橋奉行をつとめた。




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