094「道化者、かく戦えり」



道化六郎左衛門(?―1556)

尾張の出身。斎藤道三の家臣。『美濃国諸旧記』にみえる道化助六郎定重にあたるか。道三が子の義龍と対立した際、その陣に参じて軍奉行を勤む。織田信長に仕えた「無双道化」こと清十郎の父ともいうが未詳。弘治二年(一五五六)、長良河畔の戦いで戦死。没年三十六歳あるいは三十七歳という。

◆道化師、あるいは道化者というと、西洋のピエロやクラウンに代表されるトリックスターを連想される方が多いだろう。あるいはトランプのジョーカーや江戸川乱歩などの探偵小説に登場する怪人を郷愁とともに思い浮かべる方もいるだろうか。白を基調とするメランコリックなピエロは十九世紀初頭にフランスのパントマイム役者ジャン・バチスト・ガスパール・デュヴュローの創案になるものだ。映画「天井桟敷の人々」のモデルといったほうがわかりやすい方もいるだろう。善と悪、明と暗、あるいは喜劇と悲劇に引き裂かれた二つの自己をトリックスターは演じる。

◆ひるがえって、本朝の道化師を思い浮かべるに御伽衆などに代表される権力者の文化的ブレーン。江戸時代の吉四六などの頓知話や太鼓持ちにいたってようやく「それらしい」存在が登場する。「むしろ、鎌倉・室町期に台頭する悪党や傾奇者に類するのでは」と思われる方も多いだろう。しかし、今回の主役である道化六郎左衛門の精神的系譜は、彼らともちょっと違う気がする。そのエピソードには西洋的な「二つに引き裂かれた自分」という悲劇性を帯びた姿が浮かび上がってくるのだ。

◆伊達政宗が「伊達者」の語源であるという説があるように、その姓をとって「道化者」の語源となったとする説に従えば、道化六郎左衛門は「日本最初の道化」ということもできる。彼はどんなことをやらかしたのか。

◆美濃の国主斎藤義龍は弟二人を殺害するなど、父道三とことごとく不和になると、家中の者に次のように言い渡した。

義龍「わしは本日ただいま剃髪いたす。父上に従うのであれば勝手にせよ。われに従うのであれば来年のお正月には頭を剃って出仕するべし」

◆やがて弘治二年(一五五六)のお正月となった。義龍は父の隠居城よりも自分のところへ年始の挨拶にやってくる人数が多いことに大いに満足。それも皆が皆、頭を青々と剃りあげている。自分の威令がいきわたっていることの証拠である。

◆ところが、挨拶にまかりでた道化六郎左衛門のヘアスタイルを見た義龍は唖然となった。六郎左衛門の頭は半分だけ剃られていた。いったいどんな具合だったのか。おそらく左右のどちらかを剃り、一方を残したのだろう。前後のどちらかを剃ったのでは単に後退したおじさんか、刈り上げ君になってしまう。ちょんまげはきちんと結えないだろうから総髪にでもしたものか。

義龍「なんとしたことじゃ、六郎左衛門。そちの頭は」
道化「わたくしめはもともと道三さまの家来でござりました。また、義龍さまも今はわが主君に相違ござりません。ふたりの主君のいずれに属していずれを敵とするか、どちらにも決めかねるため、かくの通り、半分だけ頭を剃って出仕いたした次第でござる」

◆まさに一個の武士が「二つに引き裂かれた」瞬間である。六郎左衛門は正月には義龍のもとへ出仕したかわりに、その後は道三に味方した。やがて戦端が開かれると劣勢の道三方に走り、軍奉行として先手をつとめた。敵となった義龍軍をよく分析し、道三に進言した。

道化「敵は血気にはやった若武者が多うござる。ここは相手を勢いづかせてわざと先手が引き退き、懐ふかく引き込みましょう。そこをお屋形様の旗本をもって横合いから衝くと同時に全軍あげて逆襲に転じるがよろしかろうと存ずる」

◆だが、道三はこの一戦におのれの死を決していた。「明日一戦に向い五体不具の成仏、疑いあるべからず」と壮烈な遺書をつづっていた。道三は旗本をいきなり敵の前面へ押し出し、敵意の坩堝に身を投じる。道化六郎左衛門の軍略は何ら寄与することなく自らも道三のあとを追って討死を遂げた。

◆道化者のおこりは、六郎左衛門が頭を半分剃って義龍のもとへ伺候した時の言動に由来するという説がある。「異装の者を称し道化と云うは是なり」と『武家事記』は伝えている。が、笑いをさそう者たちの悲しい内面まで踏み込まないと、本来の道化の意味合いとはかけ離れてしまうものになってしまうのである。




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