093「錦をまとった君の名は」



増田盛次(?―1615)

盛直、宗重、兵部大輔。増田長盛の子。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため、父長盛が改易流罪となった後、徳川家康の直臣となる。慶長十九年、大坂冬の陣では徳川義直に従って従軍し、戦功をあげるが、間もなく豊臣秀頼に味方し、大坂城へ入城。翌年の夏の陣では長宗我部盛親に属し、五月七日、八尾・若江方面へ進出。藤堂家の磯野行尚に討たれた。

◆藤堂家の磯野平三郎は、織田信長に仕えた佐和山城主磯野丹波の末葉という。慶長二十年(一六一五)、大坂夏の陣に従軍し、長宗我部盛親の軍勢と戦い、敵将増田盛次の首級をあげた。ところが、討った相手がかつての五奉行増田長盛の子であるとは長い間、判らなかった。

◆大坂落城の二年後のこと。磯野屋敷の門前へひとりの老女がやって来て、主人に会わせてほしいと懇願した。

老女「聞くところによりますれば、先年、大坂表にて錦の陣羽織を着た大将を討ち取られたとか。差料の三腰とともにお取りになった由。誠にございましょうか」
磯野「うむ。そのほうの申すとおりじゃが、一腰はその時、介添えしてくれた澤田但馬の家来外山三蔵に礼として与えた。そのほかの二腰と陣羽織はわしが所有しておる」
老女「お見せいただけませぬか?」
磯野「そのほうは何者じゃ?」
老女「殿さまがお討ちになられたのは増田兵部さまにござります。わたくしめは兵部さまの乳母にござります」
磯野「なんと・・・・・・」

◆増田兵部盛次は冬の陣では徳川方であった。が、城方が勝つと喜び、負けると悲しむ彼の様子を見た家康が「城へ参りたければゆくがよい」と言った。盛次は勇躍、大坂城へ入城した。その錦の陣羽織と二腰の太刀は、その折、豊臣秀頼が与えたもので、盛次は組下三千人を預かる大将となった。いっしょに城へ入った老女は「元の大名に戻られた」と大喜びであったが、五月六日の夜に出陣した後、増田盛次の消息は途絶えた。

老女「城へ逃げ戻って来た兵に聞くと、平野あたりで討死されたとか。せめて亡骸でもと思い、戦場へかけつけましたが、それもかなわず。最後にお姿を見た五月六日を命日として手向けをしてまいりましたが、思いがけず藤堂さま御家中磯野平三郎と申す人が錦の陣羽織を着た名の知れぬ大将を討ったという話を耳にいたしました。もしやと思い、こうして参上した次第でござります」

◆磯野平三郎がさらに老女に陣羽織の色や太刀の銘などを問う。

老女「錦の陣羽織はこれこれの色、三腰のうち、太刀は備前金光、差添は石船切の銘がございます。この二腰はさきの陣羽織とともに豊臣秀頼さまから拝領したものでございます。残る馬手差は九寸五分の吉光にござります」

なんと、すべてが符合したばかりか、平三郎が外山三蔵に与えた太刀にまで言及している。疑問が氷解した平三郎は、老女に増田盛次の遺品を見せた。

磯野「そのほうの心中を思えば、慰める言葉もない。このうち、望む一品をつかわすゆえ、兵部どのの菩提を弔うがよい」
老女「ありがたきお言葉。この短刀は兵部さまがお生まれになった時、父右衛門さまが遣わされたもの。これをいただければ、仏壇に供えて朝夕、供養いたしたく思います」

そこで磯野平三郎は、短刀(銘吉光、九寸五分)を老女に与えた。

◆この話はたちまち藤堂家中はおろか巷でも話題になった。

武士A「増田ほどの勇士であるから、あの合戦にのぞむ前、討死は覚悟していたことであろう。それなのに、武器、甲冑、羽織の裏にも姓名を記していない。やはり、若いから興奮してこまかいところに気がつかなかったのかもしれないなあ」
武士B「盛次の心を察するに、この時、父の右衛門尉長盛は武州岩槻に幽閉されていた。自分が大坂に一味して討死したと知れたら、徳川家はただちに父長盛の一命を奪うであろう。それを気遣い、大坂へ忠節を尽くしながらも名を出すことを憚ったのであろう」
武士A「そうか。うむ、親孝行者じゃのう。しかし、長盛はその年の五月十五日(筆者註:五月二十七日)に高力摂津の検使によって自殺させられておるぞ。結局、ばれちゃったのか」
武士B「実際、大坂の陣が起きる以前には真田父子や長宗我部さえ助命されている。その点、豊臣家が滅亡してしまえば、もうジャマになるものはいない。大坂夏の陣は関ヶ原以後の総決算というべきもので、全国の大名が自分についたものだから家康も仇敵長盛を殺しても誰も文句は言うまいと思ったのだろう。息子が大坂へ入城しようがしまいが殺されたと思うよ。そのあたりが若い盛次には気づかなかった点かもしれないが、父を思う心はまことにあわれなる志と感じ入るばかりだ」

◆この話が紹介されている『元和先鋒録・附録』の本文では甲、乙とされている二人の武士の名前は明らかにされていない。おそらくは藤堂家の記録者が私見を盛り込んだものであろうか。

◆磯野平三郎が増田盛次を討ったことは、やがて天下に知られるようになり、戦後二年目にしてその戦功も評価されるようになったが、それ以上に平三郎が老女に短刀を与えた話のほうが人々の共感を誘ったことは言うまでもない。




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