090「柿の実は痰の毒!?」



石田三成(1560―1600)

佐吉、従四位下、治部少輔。石田正継の二男。豊臣秀吉が長浜城主時代に見出し、側近に加えた。天正十四年(一五八六)、堺政所を勤め、のち才幹をもって五奉行のひとりとなった。太閤検地に参画するなど行政・外交面での活躍が目だつ。文禄四年(一五九五)、佐和山城主となる。秀吉の没後、武断派大名との確執が表面化し失脚。慶長五年(一六〇〇)、徳川家康の専横を憎み、挙兵したが関ヶ原の合戦に敗れ、捕らえられて刑死した。

◆慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦に敗れた石田三成が敗残の身を刑場へ護送されていく途中でのこと。

三成「喉がかわいた。湯をもらいたい」
兵士「人家はなく湯は求めがたい。ここに柿を持ち合わせておるので、かわりにこれを食されるがよろしかろう」
三成「いや、柿は痰の毒じゃ。ごめん蒙る」
兵士「ハハハ。これから首を刎ねられると申すに、痰の心配をして何になろうか」
三成「小人にはわかるまい。大義に殉じようとする者はたとえ処刑される間際になっても、自らの命を惜しみ、志を遂げようと心がけるものなのだ」

◆有名も有名、敗者・三成の最後っ屁といったところか。『明良洪範』が伝える逸話である。近代のデータだからあてにはならないが、関東・中部・畿内は甘柿、東北や中国では渋柿が原産地となっている。すると三成がすすめられたのは甘柿であったのだろうか。わざわざXファイルで紹介するまでもない話だが、わたしが気になって仕方がないのは三成が柿を忌避した理由である。「本当に柿は痰の毒なのか?」ということである。

◆今でこそ柑橘類・リンゴなどに王者の座を奪われた柿であるが、かつては日本を代表するフルーツであった。不人気の理由のひとつが加工適性に欠けていることである。が、この柿が「痰の毒」であるという話を実際に耳にしたことはない。柿は日本でこそ生産量は減りつつあるが、むしろ海外でその栄養価が注目されている。

◆柿にはペクチン、カロチノイド、ビタミンCが多く含まれ、薬用にも用いられる。その効能は嘔吐・夜尿症・凍傷・鎮咳・去痰に用いられ、滋養もあるという。「去痰」に効果がありというところに注目である。「痰の毒」どころか「痰の薬」ではないか。もの知りの三成が知らなかったのだろうか。それとも書物によって間違った知識を植えつけられてしまったのか。あるいは少年時代にオネショの薬としてさんざん食わされたのが脳裏にあるのだろうか。いかにもオネショしていそうである。

◆「痰」そのものが現代人にはさほど深刻さをもって受け取られないだろう。痰は気管支が異物に反応して発するものだ。特にアルコールと煙草によって痰の量は増大し、その後、細胞が破壊されて減少に転じる。三成は「痰」という持病を抱えていた。ならば、彼の病源はむしろアルコールにあったのではないか?。

◆ここで視点を変えたい。民俗学的に柿というものをとらえて見よう。昔の人々は柿というものをどのようにとらえていたのか、ということである。

◆柿の木は折れやすい、という話はよく耳にする。実際そうである。実は柿の木と死を関連づける伝承は非常に多いのだ。柿の木から落ちると三年以内に死ぬといわれ、実がなったり食べたりする夢を見ても不吉とされている。数珠は柿の木を用いることもあるし、火葬用の薪も同様である。中でも柿の花を指差すと「(ものごとが)実を結ばない」というのはきわめつきである。つまり、大志を抱く者にとっては柿は歓迎すべからざるものなのである。

◆関ヶ原の合戦に敗れ、なお、再起を期して戦場を離脱したものの、武運つたなく捕らえられ縄目の恥をさらすことになった三成にとっては、せめて冒頭の応酬をすることによって自らを世俗的凡愚の衆から超越した存在にまで高めたかったのだろうか。言いかえれば、ええかっこしい、である。

◆昔話などには、柿の木は、天や地獄などの異界とこの世とを結ぶ境に立っているといわれる。まさに柿をすすめられた瞬間、石田三成はこの世とあの世を結ぶ境に身をおいていたことになる。つまり柿を差し出されたのは、イコール引導を渡された、ということである。その引導(柿)を拒絶することによって、三成は従容として死につくことを拒否したのではないか。自分は決して納得して死んでいくのではないぞ、と。柿の木は前述のように火葬用の薪としても用いられるのである。

◆恨みを残したり、非業の最期を遂げた者は怨霊(たたり神)になるという。石田三成が怨霊になったことをうかがわせる当時の史料を以下に示そう。

しばらく来たれば、大きなる塚あり。装い常ならず、いかなる塚ぞと問えば、石田治部少とやらん云う人を、今年の秋のはじめより、都より送り来たり、送らさるところにては物憑きなどになる人多く、悩む事侍るとて、国々に武具を帯して、二三千ばかりにて地蔵送りなどするようにして、送りつけたる所にては、塚を築き侍るという。(『前田慶次道中日記』)

◆以上の論考によって導き出された結論(というよりは推理結果)は3つである。

その1、三成は少年時代、夜尿症に悩まされていた。その薬として与えられた柿を嫌っていた。成人後も本来は痰の薬である柿を「毒だ」といって退けてきた。
その2、ものごとが結実しないなどの負のイメージが強い柿の実を出されて、かっとなり、思わず「毒」と口をついて出てしまった。
その3、柿の逸話は「引導を渡された三成がそれを拒否したこと」で成仏できずにいることを暗示している。

・・・お笑いから文学的解釈まで取り揃えてみました。


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