089「イワシ焼く姿に首ったけ」



彦鶴(?―1618)

鍋島直茂室。石井兵部大輔忠常の女。はじめ龍造寺隆信の部将納富治部大輔に嫁いだが、永禄九年(一五六六)、夫が戦死したため実家に戻る。永禄十二年、鍋島直茂にのぞまれその後室となる。夫をよく補佐して賢夫人ぶりを示した逸話も多い。法号陽泰院。

◆龍造寺家の家老鍋島直茂はいくさから戻ってからというもの、悶々とした日々を送っていた。家来たちが公用で伺候してもうわのそら。「ハア〜」とため息をついてはぼんやりと庭のほうを見ているばかり。きっと先頃、妻を離縁したのがあとをひいているのだろうと家中ではもっぱらの噂になっていた。

家臣「殿。お身体の具合でも悪いのでござりまするか」
直茂「さにあらず。女のことよ」
家臣「やはり、離縁されたことを後悔いたしておるのですか」
直茂「ン? いや、そうではない。新しく妻にしたい女がおるのよ」
家臣「それが離縁の理由だったのですか」
直茂「違うわい。その女を見たのはつい数日前、先だっての出陣の時のことじゃ」
家臣「ほう。しかし、殿がそこまでご執心とは。さぞかしお美しいのでしょうな」
直茂「う〜ん、美しいかどうかは・・・・・・わからぬ。まだ、うしろ姿しか見てはおらんからの」
家臣「は?」

◆直茂がその女、彦鶴を知ったのは石井家でのランチの時間である。龍造寺隆信の軍勢が予約もせずに押しかけてきたものだから、石井家は大騒ぎ。当主の石井忠常も「はやくイワシを焼け」と下女たちの後ろでオロオロするばかり。大量のイワシ定食注文に厨房は大パニック。百人分ばかりのイワシを焼くのも覚束ない様子。それを奥で見ていた石井忠常の娘で若後家・彦鶴が出てきて叱咤する。

彦鶴「それでは間に合いません。あたしに任せなさい!」

◆彦鶴は大釜の下から火をかき出し、その上に籠の中のイワシをドバーッとぶちまけた。それを額に汗しながら大団扇であおぎたてる。

下女「あれあれ。お嬢さま、そんな乱暴な」
彦鶴「箕(竹や藤で編んだ籠)をよこしなさい! もっと炭を足して!」

◆ともかく、結果オーライ。龍造寺隆信以下、全将兵が「昼食難民」になることは避けられた。この一部始終をそっと見ていた鍋島直茂は彦鶴の勇姿、というよりは背中と尻とどなり声が目と耳にこびりついてしまった。

直茂「ああいう機転のきく女性を妻にしたいものよ・・・・・・」

◆以来、毎晩のように石井家のまわりをウロウロ。ほとんどストーカーに近いのだが、直茂の脳裏は、愛欲というよりも「ああ、彦鶴さんに命令されたい!」という憧れに近いものだった。

◆家臣に意中の人がいることを打ち明けた直茂は、やがて、勇気をふるいおこして石井家の屋敷へ忍び込み、こっそり彦鶴の部屋へ夜這いをかけるようになった。ともにバツイチ同士、孤閨の寂しさもさることながら、ご面相よりも心映えを重視する二人は毎晩のように逢瀬を重ねていた。が、ある夜、直茂がしのび足で廊下を渡っていくところを下女に見咎めれた。

下女「キャー、ドロボー!」
直茂「うわあ!」

◆下女の絶叫に驚いた直茂は、事情を説明する間もないまま、あわてて逃げる。騒ぎに気づいた彦鶴が「その人は違う」と制止しようとしたが、直茂はすでに屏際へ追い詰められていた。追いかけて来た石井家の家士の槍に突っつかれつつ、直茂は土屏を乗り越えて窮地を脱した。

彦鶴「足の裏とは、またおかしなところを刺されましたな」
直茂「えい。笑うな」
彦鶴「正直に夜這いに来たのだと申し開きをなさればよろしゅうございましたのに」
直茂「言えるか、バカ」

◆間もなく彦鶴は直茂の後室となり、鍋島屋敷へうつった。戦国大名には珍しく「恋愛結婚」である。しばらくは直茂の先妻からのいやがらせ(うわなり討ち)が続いたが、彦鶴は賢明な対応でこれを退けた。直茂に進言して牢に繋がれた者たちに熱い粥を差し入れさせたこともあったらしい。

◆直茂はやがて主家龍造寺氏にかわって政権を手中にし、佐賀藩の基礎を築いた。奥向きがしっかりした家は、やはり江戸時代まで生き残っている例が多い。




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