085「秘すれば花!?」



加藤嘉明(1563―1631)

茂勝、孫六、左馬助、従四位下侍従。岸教明、あるいは加藤三之丞の子といわれる。はじめ羽柴秀勝に仕える。播州攻めの頃、羽柴秀吉に仕え、天正十一年(一五八三)、賤ヶ岳合戦で七本槍に列して三千石を与えられる。以後、水軍を指揮して四国征伐、九州征伐、小田原陣に従軍。文禄の役では舟奉行をつとめ、安骨浦で李舜臣と交戦。続く慶長の役では元均の艦隊と戦った。秀吉没後、徳川家康に接近し、関ヶ原の合戦では東軍に加わる。戦後、伊予松山二十万石を領す。さらに寛永元年(一六二七)、会津若松四十万石に封ぜらる。

◆豊臣秀吉に仕えた「三加藤」という呼称があるが、加藤というとどうしても清正。嘉明だとか光泰だとかはどうも印象がうすい。下手をすると「飛び加藤」のほうが有名だ。嘉明などは少年時代、長浜で馬喰に使われていたなどという逸話もある。

◆戦功も「三加藤」の中では清正が一頭飛びぬけており、嘉明も賤ヶ岳の七本槍に列しているとはいうものの、にわかにその功績を指折ることは困難である。彼が豊臣政権の水将を統轄したため、陸戦での活躍が少なかったことにも原因があるだろう。嘉明の水戦は「吉野の花」にも比せられた。

◆しかし、水軍が活躍した文禄・慶長の役においても嘉明最大の功名は「抜け駆け」ともいえるものだった。慶長二年(一五九七)、朝鮮水軍の番船を奪取する計画をたてている席上、嘉明は悲観的な意見を述べる一方で、ひそかに家臣塙団右衛門に言い含めて出撃を命じた。そして「すわ、抜け駆けじゃ」と自らも団右衛門を追いかけると見せかけて、諸将に先んじて敵の旗艦を乗っ取ってしまった。この戦闘で加藤嘉明は一手にて敵の番船百二十艘を沈めてしまったという。いわゆる巨済島の海戦である。一説によれば嘉明は家臣塙団右衛門の抜け駆けを押し止めようとしてやむなく戦闘に入ってしまったのだという。団右衛門はこの時の罪により加藤家を逐われて浪人となっている。

◆この戦功も不思議と嘉明の子孫たちは口を噤んでしまっている。ただ、「あの時、敵船に乗り移った十五歳の小姓が海へ落ちて死んだそうで、まことに不憫なことです」と言うのみであったという。この小姓は河合庄二郎という者で嘉明の後を追って敵船に乗り込もうとしたところ、あやまって海へ落ちたのだという。部下の暴走を押し止めようとした上での不可抗力か、それとも主従グルになってのヤラセか。真相は藪の中だ。

◆また、慶長の役がおわった頃のこと。軍の引き上げに前後して朝鮮から虎と象がひかれてきた。珍しいものを見たがる秀吉へ献上するつもりであったのだろう。特に虎は薬になるとして秀吉が催促したため、諸将は争って虎の肉を塩漬けにして送ったので貰った当人がウンザリしてしまったらしい。もっとも象といっしょに生きた虎が連れて来られたこの頃、もはや秀吉は死亡していたのだが。

◆折しも朝鮮から引き上げてきた諸将は名護屋の陣中に参集していた。象はおとなしい動物なので細い綱で引き、一方、獰猛な虎は鉄の鎖でもって繋ぎ、左右を七八人が固めていた。ところが、パオーッという象の鳴き声に反応したのか、突然興奮した虎は鎖を握った大力の男数人をひきずったまま、駆け出した。

◆走り出した虎が自分のほうへ向かって来ると知るや、加藤清正は立て膝になって握りこぶしに臂を張って威嚇した。すると虎は清正の前で立ち止まって、しばし睨んでいたが、やがて大人しく通り過ぎて行った。清正の威風に、見物していた他の諸大名は拍手喝采。その時、横にいた加藤嘉明が「ん?どうした、何を騒いでおるのだ?」と聞いた。ねぼけまなこの同僚を顧みた清正が「今、虎がそこを通ったのだ。睨んだら尻尾をまるめて行ってしまったわい」と言うと、嘉明は「フーン」とこたえたきり、再び壁によりかかって、居眠りをはじめてしまった。嘉明の態度は虎が通過する以前とまったく異ならない様子であったという。

◆同じ加藤でもその対し方が好対照であったので、人々はおかしく思った。嘉明は本当に眠っていたのか、それとも寝たふりをして醜態をさらけ出さないようにしていたのか。

◆嘉明の小姓たちが集まって火箸を焼き、灰に突き立てておいたことがある。「おまえたち、何を喋っているのだ?」と思いがけず嘉明が入ってきて、それをつかんでしまった。ところが、嘉明は灰に「一の字」を描いて悠然と話を続けたという。当然、火傷を負ったが小姓たちに咎めはなかった。灰に書かれた「一の字」は嘉明の豪胆さを示しているのか、それとも嘉明のやせ我慢か。

◆嘉明はボーッとしているようで抜け目のない人物だったのだろうか。それともひたすら自分の弱い部分や醜い部分をひた隠しにしていたのか。「武士は常に不器用でよしと思っておればよいのだ。巧者ぶった振る舞いは思いがけない失敗をよぶ」と嘉明は言った。後年、会津へ移封された嘉明は愛用の十字槍にビロードの袋で包んで言ったという、「天下にふたたび用いざるを示したのだ」と。




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