082「うれしはずかし素肌攻め」



武田勝頼(1546―1582)

諏訪神四郎・伊奈四郎。武田信玄の四男。母は諏訪頼重の女。はじめ諏訪氏を称したが、永禄八年(一五六五)、兄義信の失脚によって武田家嗣子とさだめられる。以後、小田原攻め、三増峠合戦、西上作戦に参加。信玄没後、天正三年(一五七五)、遠江・三河に侵攻するが、織田・徳川連合軍と設楽ヶ原に戦って敗れる。翌四年、正式に家督。上杉氏の内乱に介入して小田原北条氏とも対立。天正九年に本拠を躑躅ヶ崎から新府城へ移し、態勢の立て直しを図ろうとしたが、重臣穴山、木曽の諸氏が相次いで離反。織田・徳川・北条によって甲斐国田野の天目山へ追い詰められ、先妻遠山氏との間にもうけた後嗣信勝、後室北条氏ら一族とともに自刃した。

◆武田勝頼というと、長篠の合戦で織田・徳川連合軍に敗れた後は何だか歴史の表舞台から追い出され、「割愛」の対象となってしまっている。もはや出番はないということなのだろうが、どうして勝頼は長篠敗戦後、その滅亡までの七年間を意気消沈して過ごしていたわけではない。今回は「こんなに元気!長篠敗戦後の四郎クン」というお話だ。

◆越後の上杉謙信が急死すると、その跡目をめぐってふたりの養子上杉景虎(北条氏政弟)と上杉景勝が争いをはじめた。勝頼ははじめ同盟者である北条氏政に呼応して、景虎を応援した。もし、この時、西方に織田・徳川という不安材料がなかったら、勝頼は越後府中を制圧していたかもしれない。父信玄が果たし得なかった越後上杉領の併呑、である。

◆しかし、積極的に越後国境へ攻め込んだ勝頼は、同盟者たるべき北条氏政が形勢を観望するのに疑念を持った。氏政は勝頼と上杉を戦わせた挙句に漁夫の利をさらおうとしているのではないのか。ちょうどこの時、上杉景勝から東上野を割譲するという和議の申し出があった。勝頼はこれを受け入れて、越後への介入をやめた。この時、上杉氏から送られた東上野への進駐した際、勝頼の生涯でもっとも輝かしい武勲「膳城の素肌攻め」が行われたのである。

◆「素肌攻め」といっても、別に孫子の旗をはためかせながら武田軍全員フリチンで立ち向かっていったわけではない。「素肌」とは甲冑をつけない軽装という意味である。なぜ軽装でいたかというと、前日の物見で城方の備えが堅かったのであろうか、にわかに城攻めを中止していたからである。城への強襲が中止されれば、重たい甲冑など着込んでいたくはない。すぐさま身軽になってくつろぎのひととき。

◆ところが、にわかに城方が武田の陣へ攻めかけてきた。すかさず武田勢は逆襲して城方を追撃。そのまま城門にまでとりついた。形勢を見た武田信豊が「このまま城を攻めましょう」と強気の進言。もっとも勝頼は「父信玄の代から素肌で城を攻めたことはない。あまりに無謀だ」と言ったのだが、土屋惣三ら家中の元気者は走り出したらとまらない。あれよあれよという間に膳城を攻略してしまった。

◆このような城攻めは信玄の時代はおろか、古今未曾有の出来事である、と史書は記している。勇猛な武田勢なればこそできたことだが、後々、「誰でも手軽にできる素肌攻め」というキャッチフレーズがあったかどうかは知らないが、人間の胴体そっくりに細工した甲冑があらわれた。「おれは裸だ」と敵に誇示するためである。現存するものを見ると、おっぱいや腹のシワまで表現されていて、まるで理科室にある標本のようなシロモノだ。

◆この城攻め自体も別に勝頼の采配によるものではないのだが、この時代、家臣のしでかしたことは殿様のしたことである。たまたま重い甲冑を脱いでいた一部の者たちが軽装のまま敵を蹴散らした。お調子者の武功は「素肌で城を落した」勝頼の武功として関東一円に喧伝された。たかが知れた小城ひとつではあったが、長篠以後のニュー武田軍団に箔がついた瞬間、とでも言おうか。『武田三代軍記』に云う、「其頃、日本国中にて、此城攻のことを取沙汰して、勝頼の芳声、遠邦に轟きけり。されば、甲州の旧士と聞けば、諸方の豪家にて、先づ此素膚攻の事を、美談しけると申伝へたり」と。

◆もっとも、この時の武勲が勝頼の脳裏を占めていて、後々の長篠合戦で「馬防柵のひとつやふたつ、何ほどのことやある」と強気に出た節がうかがわれなくもない。

◆そんな勝頼も、逆に「素肌攻め」を受けたことがある。天正九年三月、志摩の湯(現・山梨湯村温泉)へ湯治に出かけた勝頼のもとへ、アポイントもとらずに信州小池村の百姓一行が押しかけてきたのである。実は小池村の住人は以前から隣りあわせの内田山へ草を刈りに入っていたが、今回、内田山を領する桃井将監が立入禁止を打ち出した。桃井は近頃、勝頼からの恩賞の沙汰がなく手元不如意のために既成事実として認めていた小池村住人に対する「領内草刈り無料開放」を禁止したのである。「入山料」をとろうとしたのだろうか。小池村では事態を重く見、訴訟を起こし、府中で決裁を依頼した。が、双方の主張は平行線のまま。決死の思いで村を出てきた百姓たちは思い余って、休暇中の勝頼を追いかけてきたのである。武田家の奉行も頼りにならず、勝頼に直訴しようというわけだ。江戸時代であれば非合法として悪くいけば厳罰ものであるが、戦国の頃は領主とて百姓の大親分みたいなもの。遠慮というものがない。

武田勝頼「な、なんだ。なんだ。おまえたちはー!」(タオルで前をおさえて後ずさり)
JA・小池「殿さま、内田山で草を刈らせてくださいませ」
武田勝頼「わっ、わっ。あっち行けってば」
JA・小池「内田山のご領主に申し上げてくれろ」
武田勝頼「あ。タオルひっぱっちゃダメ」

◆これが武田家が滅亡する、ちょうど一年前のことあった。百姓の言い分を聞いてやった心優しい勝頼に「そんなことしてるから滅ぶんだー」と非難するのは酷というものであろう。




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