081「流転の小倉山色紙」


宗祇(1421―1502)

種玉庵、自然斎、見外斎。生国は近江、あるいは紀伊といわれる。三善、飯尾を姓としたと伝わるが、乞食僧と呼ばれるほど低い出自と思われる。宗砌に連歌を習う一方、和歌を東常縁に学び「古今伝授」を受ける。文正元年(1466)畿内の戦乱を避けて関東へ流寓。太田道灌ら関東の武将たちと交わった。その後、京都へ戻り三条西実隆らと親交を結ぶ。箱根湯本で客死した。『新撰菟玖波集』を編纂、多くの著書をのこし、中世連歌の最高峰とされた。

◆情報化時代の金言というものを集めたとしたら、その中にはきっと「バックアップをとれ」という語句が含まれていることだろう。あるいはマーフィーの法則まがいに「データ破壊は必ずといっていいほどバックアップをとる直前に予期せぬ形で訪れる」というのはどうだろう。もっとも簡単にバックアップをというが、もはやソフトもデータも大容量時代。バックアップをとるのも一苦労。軽々しい「バックアップを」というかけ声ではなく、バックアップメディアを買えとはっきり言ったらどうなのか。

◆アメリカ大統領と副大統領はけっして同じ飛行機には乗らない。企業の社長や幹部などもおそらく意識的にせよ無意識にせよ、そうしているところが多いのではないだろうか。そう考えたりすると、野球やサッカーの選手が試合後、一台のバスに乗り込んで宿舎へ帰ったりしているが、あれはすこぶる危険なのではないだろうかと思ったりもする。

◆リスクを分散するというのは、何も情報社会に限ったことではない。

◆戦国時代においてもそうだった。いくさに参加するにあたって一族を敵味方にわけたり、子をたくさん生ませたり。だが、連歌師飯尾宗祇のとった危機回避は一生涯や一時代などというスパンではなく、さらに半永久的な展望にたったものだ。

◆小倉山色紙とは、藤原定家の筆によるもので、いわゆる「小倉百人一首」の面々。嵯峨小倉山山荘の障子に貼られたものだった。

◆その色紙100枚セットのうち半分の50枚を、宗祇は古今伝授を受けた東下野守から授かった。しかし、宗祇は京都へ戻る道すがら、船頭に船賃のかわりとして、ババぬきのように扇状にひろげた色紙のうちから「好きなものを1枚ひけ」と言ったかどうかはわからないが、惜しげもなく与えてしまった。

宗祇「これは天下の宝物じゃ。これを売れば、船頭などやめて一生楽に食ってゆけるぞ」

いきなり無造作に与えられた色紙を天下の名宝と言われたって、はたして船頭にその価値がわかったかどうか。きれいな色紙だ、と娘にでもくれてやってしまったかもしれない。

◆こんな具合で、東下野守から貰った残りの49枚もまたたく間に知人たちに配ってしまい、とうとう宗祇の手元には1枚も残らなかった。そのことを宗祇に意見するものもあったろう。名宝は天下の財産だから一個人の勝手にしてはならないものなのだ、と。

宗祇「天下の重宝は私蔵するべきではないのだ。わしがあちこちに色紙を配ったのは、何十年何百年たっても、戦火や災害を乗り越え、どれか1枚ぐらいは後の世にまで残るであろうと思ったからだ。わしの手元に後生大事に保管しておったら、わしの死んだあとはどうなるかわからぬではないか」

◆案の定、小倉山色紙のうち東下野守の所有する50枚は居城が焼け落ちた際に焼失してしまい、1枚も残らなかった。現存するのは、宗祇が諸方に散らしたものばかりであるという。もっとも百人一首にちなんだ色紙や注釈書はさまざまなバージョンがあるため、たしかなことは言えない。ただ『兵家茶話』が宗祇のそうした行いをエピソードとして紹介しているのみである。

◆現在、百人一首の最古の注釈書といえば、宗祇が遺した『百人一首宗祇抄』。いまだ定説をみないが、小倉色紙の伝承に宗祇が深く関わっているであろうと言われている。

◆美術品なども散逸することを恐れて一ヶ所のハコモノに納めようという考えもあるが、あるいはあちらこちらに散らばっていたほうが、予期せぬ危機をも免れるものなのかもしれない。

◆宗祇の心映えとは異なるかもしれないが、しばしば名宝の所有者はひそかにこれを手放したがっているという話を聞く。それだけ維持管理していくことが所有者の負担になるということだろう。





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