080「イーハトーヴから来た男」



南部信直(1546―1599)


亀九郎、田子九郎、大膳大夫。石川高信の子。北信愛の支持を得て三戸城主南部晴政の養子となり、宗家を継ぎ、領国の統一を推進。天正十八年(1590)、豊臣秀吉に臣従し、津軽をのぞく南部七郡を安堵された。翌年、九戸政実の乱を豊臣政権の力を借りて鎮圧し、二戸へ居城を移した。戦後、失った津軽の替地として和賀・稗貫・志和の三郡を与えられる。文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵に従い肥前名護屋へ出陣。慶長四年(1599)に盛岡に居城を移す。盛岡藩十万石の藩祖。


◆青森県と岩手県は仲が悪い・・・というよりも、南部と津軽が仲が悪いのだと言いかえたほうがいいだろう。南部と津軽とは大名家のことではない。それぞれ陸奥の一地方をさしている。いずれも正式な郡ではないところも似ている。南部と津軽は陸奥国の中でも独特の風土や文化を育んだ地で、ちょっと挙げただけでも南部牛追唄と津軽じょんから、南部塗りに津軽塗り、竿灯祭りにねぶた祭り、宮沢賢治と太宰治とことごとに対峙している観がある。おまけに同地方を領した南部家と津軽(大浦)家の出自ときたら、南部は甲斐源氏武田、津軽は関白近衛氏に連なる藤原氏・・・を主張する。南部の甲斐源氏はともかく、津軽氏の藤原はいかがなものか。

◆一般に東北の大名については、陸奥(のぞく会津)よりも出羽の大名のほうが上方の事情に通じていた。これは日本海航路の発達が要因のひとつとしてあげられよう。津軽為信は出羽の最上義光と密接にむすびついて、いち早く秀吉に使者をたて、謁見に成功したのである。このほか一般に出羽の諸大名は秀吉の小田原陣に従軍し、陸奥の諸大名は遅参して取り潰された例が多い。信直は秀吉の軍門に自ら降り、その本領の安堵を受けたが、日本海航路の港をもつ津軽為信には一歩立ち遅れ、津軽地方を失陥したのである。

◆小田原参陣がちょっと遅れただけで、南部信直は津軽地方を失ってしまった。すばやく立ち回った津軽為信に四万七千石をかっさらわれた格好である。おまけに近衛前久にどのように取り入ったのかはわからないが、近衛氏の猶子という肩書きも手に入れたらしい。出自の粉飾といい、機動性は津軽が一歩も二歩もリードといったところである。

◆小田原参陣の折に南部氏と津軽氏との間で火花が散ったであろうことは、想像に難くない。が、その対立の頂点をきわめた事件は江戸後期の文政年間におこる。相馬大作(下斗米秀之進)による津軽藩主襲撃計画である。津軽藩主の殺害を企てた相馬大作は南部氏の根拠地であった二戸(福岡)の出身だ。その動機は南部藩主の官位を津軽藩主が上回ったから、ということに拠る。これは津軽氏がもともとは南部氏の家臣筋だったからだ。

◆ちなみに南部信直は豊臣政権と遭遇し、これに屈してからもなかなか心穏やかではなかったらしい。要するに秀吉好みの「桃山風」「上方風」が肌に合わなかったということであろう。小回りがきいて、上方大名ともよろしくやっている津軽為信に対する鬱屈した感情もあっただろう。伊達政宗や最上義光らが豊臣政権に急接近する中、ひとり信直は都の色に染まらないでいた。伊達家と最上家はのちに関白秀次事件に関係して危機に瀕することになる。

◆文禄二年五月二十七日、信直は秀吉の朝鮮出兵に従軍して九州名護屋の陣から国許の留守を預かっている女婿・八戸直栄に宛ててこんな書状を出している。

「上方大名には、田舎出身の者をばかにしている態度が見受けられる。わしも月に一度、前田利家どののもとへ挨拶に出向くほかは、つとめて外出しないようにしておる。下手に仲間に加わって交際をすれば、とんだ恥をかかぬともかぎらぬ。そうなっては南部家の名折れとなるからだ。そんなわけで朝から晩まで気の休まる時がない。津軽為信めはばかなやつだから前田利家どののところへ出かけていった時に、頑なな物言いをしたので田舎者と陪臣(利家の家臣)にやりこめられたそうだ。そんなわけで為信めも近頃は前田や浅野のところへも顔を出せずにいる」

◆前述のとおり、津軽為信と南部信直は仇敵同士である。その為信の境遇を書状にしたためて国許の家臣に知らせる信直の心情は、ザマァミロといった嘲笑めいたものは感じられず、同じ田舎者としての境遇について「気が休まらぬ」と嘆いているばかりだ。為信が恥をかいたという訪問先の前田利家と浅野長政は、ともに秀吉の奥州仕置で津軽領安堵の裁定に尽力があった大名たちである。為信にしてみれば、相手を自分の親派とみてタメ口のひとつでも叩いたものであろうか。

◆南部に常に一歩先んじていた観のある津軽氏も上方大名との交際には失敗してしまったようで、そこは(あくまで上方文化というものに対する)不器用なり無知なりを卑下せずに接した南部信直の処世術が懸命であったということであろうか。

信直「わしの前名がタゴクロウであることはバレずにすんだらしい・・・ホッ」

補足調査:南部と津軽の祭り比較に「竿灯祭りにねぶた祭り」とありましたが正しくは「さんさ踊りにねぶた祭り」です。但し、さんさ踊りはそれほどメジャーじゃないと思いますが・・・。ちなみに、竿灯祭りは羽後=秋田の祭りです。(みちのくの人) ありがとうございます。そうですよね、竿灯=秋田は認識していたのですが、推敲が不足していました。訂正しておわびいたします。(三楽堂)
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