077「SAGAWARS/episodeU大内帝国の逆襲」



龍造寺家兼(1454―1546)


孫九郎、左衛門佐。龍造寺康家の五男として水ヶ江龍造寺氏を興す。当主が早世した龍造寺宗家を後見。少弐冬尚を保護して大内氏と対立した。亨禄三年(1530)、大内義隆の軍を田手畷の合戦で破る。少弐氏をめぐる大内氏との和議が原因で一時、馬場頼周によって柳川に追放されたが、後に復帰した。法名剛忠浄金居士と号す。


◆亨禄三年(1530)、当時日本で最大級の大名であった大内氏の守護代杉興運を破った龍造寺家兼の名声は九州一円にひろまった。現代風にいえば「七十七歳現役快挙!隠居はまだタイ」といったところだろうか。長年の大内氏の影響下からの離脱を夢見る龍造寺一族のフィーバーぶりは佐賀県の無形文化財「面浮立」の伝来によってもうかがい知ることができる。

◆しかし、佐賀が田手畷の戦勝以後、勢いづいている頃、海を隔てた西の京都・山口では大内義隆がお歯黒をきしませつつ、抱いているテディベアにグサグサと小柄をつきたて、家臣たちに当り散らしていた。一同、狂気一歩手前の主君を前に口をつぐんでいるばかり。ようやく重臣陶興房が言上した。

陶興房「この上は少弐・龍造寺と和議を結ぶよりほかはありません」
大内義隆「なんじゃと。まろに龍造寺と仲直りさせようと申すのか」

座敷に突如、湧いて出た宣教師・ザビエル。オーバーゼスチャーで義隆に詰め寄る。

ザビエル「オー!男ト男、愛シアウ、イケマセ〜ン」
大内義隆「愛し合っているのではない、和睦するかどうか話し合っているのじゃ!鉄砲も伝来しておらんのに勝手に出てくるなッ」

義隆、立ちあがってザビエルを蹴飛ばす。小姓たちとともに交互に蹴り上げつつ、最後は池越えロングシュート。ザビエルはきれいな放物線を描いて邸外へ。

大内義隆「ったく、まろが当コーナーに出るたびになぜあの南蛮坊主が背後霊のようについてくるのじゃ?」

ブツブツ言ながら座に戻った義隆に、あらためて陶興房が進言した。

陶興房「和議を結んで少弐と龍造寺の仲を裂きまする」
大内義隆「ほう。戦わずして相手を弱体化させると申すか」
陶興房「御意」
大内義隆「グッドアイディアじゃ。ホホホ、見てらっしゃい。いまいましい肥前の熊など、こうだわ!」

義隆、密貿易で入手したテディベアの首をもぎ取る。

◆天文三年(1534)、ついに大内が膝を屈して和議を申し入れてきたことを知った龍造寺家兼と少弐資元の二人。もう笑いがとまらない。お互いに土砂崩れをおこす顔の始末に困り果てるありさま。和議はトントン拍子に進んだが、龍造寺領は田手畷の合戦で掠め取った分も含めてぜんぶ安堵されている。家兼は目をショボショボさせながら自分のところの版図のみ確認して全条項を見ないままハンコをついた。実は陶興房の巧妙な罠で少弐氏の処遇問題は条項からはずされていたのだ。

◆その結果、本拠地勢福寺城へ戻った盟友の少弐資元が、天文五年になって突如、陶興房の軍勢に攻めこまれ、自害するはめになってしまった。これは龍造寺が少弐を大内に売ったのではないか、と勘繰った男がいる。資元の家臣馬場頼周。彼は龍造寺一族への復讐の機会をうかがっているうちに・・・ダークサイド(もとい、大内方の罠)へはまり込んでしまった。

◆天文十四年(1545)、少弐資元の遺児冬尚のもとへ謝罪に遣わした家兼の孫・三郎家泰たちが馬場頼周によって途中で殺害された。

◆主君の仇を報じるべく挙兵した馬場は、他の国人衆を抱き込み、家兼に逆襲の機会を与えぬ素早さでこれを撃破。家兼は「水ヶ江龍造寺一族の肥前退去」という和議というより降服文書にひとしい条文にハンコを押すはめに。これによって水ヶ江龍造寺一族の男子の多くが退去途中で殺害され、家兼はからくも逃れたが、身一つで筑前柳川へ追放されてしまったのである。

◆馬場頼周によって殺害された水ヶ江龍造寺一族は、家純(家兼嫡男)、家門(家兼二男)、周家(家純の子、家兼の孫)、家泰(家門の子、家兼の孫)などがいる。水ヶ江龍造寺氏は壊滅的な打撃を被ったのである。

◆山口の大内義隆は、先年の尼子攻めに失敗し、政治にも倦んでもっぱら和歌や蹴鞠を楽しむ毎日。肥前騒乱の報告を受けた時にも側妾と真ッ昼間から乳繰り合っていた。

大内義隆「発案者の興房はくたばってしもうたが、まずは祝着よの」

義隆は障子の向こうにかしこまっている近習に気のない返事をしたきりで、手はすでに床に押し倒した愛妾おさいの着物の前をひろげていた。養嗣子を出雲遠征で亡くした義隆には別の「いくさ」のほうが重要なのである。

おさいの方「あ。そのようなご無体!」
大内義隆「肥前が、わが手に入るのも、時間の・・・問題じゃ、それッ、前祝じゃッ」
おさいの方「ひいー」
大内義隆「これならばッ、ザビエルめもッ、文句ッ、あるまーい!・・・あ痛」
おさいの方「・・・いかがなされました?」
大内義隆「ひら・・・かんら・・・(舌・・・噛んだ・・・)」

◆先の田手畷合戦の功労者、鍋島一族は馬場頼周による大粛清の間、ずっと雌伏していた。が、家兼が追放されてほどないある夜、食後のお茶をプハーと喫し終わった鍋島家の当主平右衛門尉清久は、息子の清房を呼んだ。

清久「いよいよわれらが出番がまいったぞ。ぬかりはないか?」
清房「父上。またアレを使うのでございますね。ワクワク」

◆赤熊(シャグマ)の面をつけた鍋島清久・清房の号令の下、集まった水ヶ江武士団は一気に水ヶ江城へ迫った。他方、柳川へ逃れていた家兼も肥前へ潜行、龍造寺再興の先頭にたった。馬場頼周は鍋島勢の急襲によって討たれ、城も奪回された。

◆龍造寺家兼は水ヶ江城へ復帰したものの、翌年死去する。心労がたたったのであろうといいたいところだが、すでに九十三歳、寿命じゃ。馬場頼周によってズタズタにされた家門の復興を遺言した。殺された二男家門の遺児鑑兼が惣領として宗家に入ることになった。

家兼「そうじゃ。家純(家兼の長男)の孫で寺に入っておったのがいたな。思い出した、円月じゃ。気の毒に。あれを還俗させよ。あいつは大器だったから龍造寺を復興させる力となろう。この水ヶ江城を与えてやれ。鍋島に命じて、彼の者が武士になる訓練をほどこせ」

すでに老いた家兼は「この子は必ず名僧になる」と言って寺へ入れたことも忘れていた。家兼の死の間際の一言でシャバに戻って来た男こそ、「カエサルに比肩する」といわれた肥前の熊・龍造寺隆信である。




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