075「シリーズ武蔵の好敵手C戦わざる強敵」



柳生利巌(1579―1650)


忠次郎、兵助、兵庫助。如雲斎と号す。父は柳生石舟斎宗巌の長男巌勝の二男。戦傷を負った父に代わって祖父石舟斎の薫陶を受ける。はじめ加藤清正に仕え、人を斬ったため致仕し、回国修行をする。この間、小笠原流軍学、穴澤流棒術などを学んだといわれる。のち尾張徳川家の剣術師範となる。この道統は将軍家指南役である叔父柳生宗矩の江戸柳生に対して、尾張柳生と呼ばれた。石田三成の部将島左近の娘との間に末子巌包(のちの連也斎)をもうけ、尾張柳生の道統を継承した。


◆かつて、文壇では白熱した論議が数多く戦わされていた。ホメ殺しのような対談ばかりが多くなった今では信じられないことだが。有名な菊地寛・直木三十五の宮本武蔵をめぐる論争もその代表だ。事のはじまりは、直木三十五が「武蔵非名人」説を唱えたことに端を発する。要するに武蔵の剣術は田舎剣法。強いといわれたって当時の名人と言われた柳生や疋田文五郎など陰流門下、あるいは伊藤一刀斎やその弟子である小野忠明。彼らになぜ挑戦しなかったのか。武蔵が選んだ試合相手はどれも三流以下の剣士であって、そんな者たちを相手に六十余度勝っても何の自慢にもならない、といったものである。

◆これに反駁したのが菊地寛で、武蔵の芸術的天分などにも触れ、精神的にも一流の人物だったと説く。さらに菊地説に与する形で、吉川英治が新聞紙上に『宮本武蔵』でそれまでの講談のヒーローとは違ったまったく新しい武蔵像を発表した。

◆さて、こういった論争の決着というものは、きっちりとはつけられないものだが、武蔵がなぜ柳生一族と試合しなかったのか、という点は気になるところだ。

◆だが、柳生に挑戦しなかったから「武蔵は弱い」とする直木三十五の論法は誤っている。当の柳生は強いという確かな試合記録などがあるのだろうか。後世のわれわれが見たところ、試合歴ははるかに武蔵のほうが豊富だ。数多い試合経験が即最強とは言えないが、実戦経験豊富な塚原卜伝のような人物は別格として、伊藤一刀斎、小野忠明、柳生石舟斎、柳生宗矩、柳生兵庫、柳生十兵衛・・・いずれも剣術家としての実績は意外なほどに乏しいのである。わかっているのは、彼らの多くが相応の地位(剣術師範役など)を得ていたということだけだ。そしてそれらの多くは剣の力量を買われて得たものではないのである。

◆しかしながら、柳生と武蔵は同時代の人間。しかも尾張藩には柳生兵庫助利巌とならんで武蔵の円明流も伝わっているのである。互いに意識はしていたであろう。後年、武蔵が禅にのめり込んでいくところなどは、ひょっとしたら剣禅一如を奉じる柳生に影響されたのかもしれない。ちなみに沢庵和尚は柳生宗矩の禅の師であって、武蔵と沢庵との交渉は文書では確認できない。

◆武蔵と柳生、どちらが強いかを示すエピソードは残っている。渡辺幸庵という一三〇歳も生きたという爺さんは「竹村武蔵という者あり。(柳生と比較してみたところ)碁にたとえれば、井目も武蔵強し」という。井目とは碁盤の目にしるした九つの黒い点のことである。囲碁で、ハンディーをつけるために、腕前の低い者が最初に井目の上に一つずつ碁石をおくことで、「一目置く」の九倍ということになる。

◆幸庵のいう柳生とは将軍家師範役柳生但馬守のことであろう。幸庵自身も柳生の弟子だから、なかなか信憑性はある。竹村は武蔵が用いた別姓で、尾張藩に仕えた養子分の手裏剣術の名手竹村与右衛門にはこの姓を継がせたようだ。

◆もうひとつは尾張城下を歩いていた武蔵が、ひとりの武士とすれちがった時のはなし。けっこう有名だが、パターンがいろいろある。

(その1)
武蔵が弟子に言う。
「この城下ではじめて生きた御仁をみた。きっと柳生兵庫であろう」
ふたりはすれ違ってそれっきり。

(その2)
武蔵がすれちがった武士に声をかける。
「この城下ではじめて生きた御仁をみた。さては柳生兵庫どのですな」
武士はこたえる。
「いかにも。そこもとは宮本武蔵どのですな」
一発で相手を確認し、互いの力量をみとめあう。意気投合してそのまま柳生宅へおじゃまし、剣法談義に熱中するバージョンもあるが、試合はしていない。

(その3)
武蔵は向こう側から歩いてくる武士を見ると、横道へ入ってしまう。相手の武士(柳生兵庫)も別の道に入り、お互いが行き会うことを避けた。

◆わたしは、その1が一番ありえそうな話と思われるのだが、狷介そうな武蔵の性格も考慮するとその3も考えられる。しかし、尾張藩には柳生流と武蔵の円明流も伝わっているところから考えると、いささか小説的ではあるけれども、その2のパターンもありかな、という気もする。実際はその3だったが、あとで同行していた弟子たちに道を変えた説明をしたので、その1やその2のパターンが派生した、というのが筆者の結論。いずれにしても、あとからやって来た武蔵にもチャンスを与えてやる(尾張藩への仕官)ところなど、柳生兵庫は心のひろい人物であったのだろう。そんな彼も若い頃は、祖父石舟斎が彼の仕官先である加藤清正に「短慮者だが、死罪三度まではお許し願いたい」と頼みこんでいたという。




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