070「捨てられちゃった氏康柱」



北条氏康(1515―1571)


新九郎、相模守、左京大夫。小田原北条氏の三代目。天文十年(1541)、父氏綱の後をうけて家督継承。天文十五年、河越城を包囲した上杉氏を破り、武蔵の支配権を強化。古河公方を抱きこみ実質的な関東管領の地位を確立する一方、今川氏、武田氏と三国同盟を締結し、北関東進出の基盤をつくった。『小田原衆所領役帳』を作成し、内政面でも租税・貨幣・伝馬の諸制度を整備。また、支城体制を固めてそれぞれ一族を城主として配置した。永禄四年(1561)に上杉謙信、永禄十二年に武田信玄と二度にわたって小田原城を囲まれたが、いずれも持久戦で退けた。この間、信玄の駿河進攻により三国同盟が崩壊し、越後の謙信と結んだ。が、病床で後継者の氏政に信玄と和睦するよう命じ、元亀二年(1571)に死去した。


◆最近、江戸学があつい。小田原征伐の折、いわゆる「関東の連れ小便」で秀吉から関東への移封を言い渡された徳川家康。彼の入部によって、それまで寒村に過ぎなかった江戸が世界的な都市に生まれ変わることになった・・・とするのが従来の説である。それまでの江戸は本当に「寒村」だったのか?

◆勝海舟は語っている、

「北条氏が滅んだのちに、徳川氏が駿・遠・参の故土から、この関八州へ転封させられたのだが、もともと租税の安い所であったから徳川氏の方では、その実、非常の迷惑であったのだ」(『氷川清話』)

これを海舟は「早雲の遺徳」と呼んでいる。北条氏の根拠地となった武州・相州・伊豆は当時、日本一租税の安い土地だったという。こうなるとあとからやってきた江戸幕府は非常にやりにくい。租税をそこそこ安くしても庶民からは大してありがたがられない。かといって三河から大所帯で移って来て、屋敷をたてるにも物入りの時期だ。ちょっとの税率アップでも苛斂誅求ととられてしまう。

◆北条氏(ちなみに筆者は「後北条氏」という呼称が好きではない)は一族十把ひとからげで語られることが多い。単品では商品になりにくいのである。早雲はさほどでもないが時代がややずれている。北条氏康は武田信玄・上杉謙信という両雄とともに三強と数えられるのに、どうも他の二者に対して旗色が悪い。筆者が思うに氏康を語る上で欠かせない「河越の夜戦」が信玄・謙信の台頭よりちょっと昔であり、あとは両雄の活発な動きにおされて小田原城内でくすぶっていることが多いからではないか。つまり信玄・謙信が最盛期を迎える頃には「旬」が過ぎていたのではないか。が、氏康は、顔だけで七つだったか、全身で七つだったかは諸書によって異なるが「向こう傷」がウリの武将である。この機会にもうひとつの「傷」も紹介してしまおう。

◆小田原城内に「氏康柱」というものがあった。氏康が逆心を企てたという家臣荒川某を衆目の前で手討ちにした際、その太刀が勢いあまって鉾書院(ほこしょいん)の柱を傷つけた。この傷を人々はなぜか大切にしてフタまでつくって保存した。ときどきフタを開けては違背者の懲戒のために公開したという。

◆北条氏が滅んで、徳川家康が関東へ入部し、小田原城は大久保氏の居城となった。やがて徳川家康がこの「氏康柱」のことを聞きつけて、上洛の途中に立ち寄って、実際に見たいと言い出した。この城を預かる大久保忠隣は「鉾書院がぼろっちくなって、立てなおしましたのでその柱も取り捨ててしまいました。その昔、鈴木大学が使っていた弓ならば今も玄関にかけてございますが、かわりにそちらをご覧あれ」と言上。家康はたちまち不快気になった。

◆家康は大久保忠隣にむかって北条氏康一代記をとうとうと述べたてた。

「北条家は早雲・氏綱の代には伊豆・相模のみ領するだけだったが、氏康に至り次第に版図をひろげて遂に関東八ヶ国に覇を唱えた。そのうえ、氏康は若年の頃、武州河越の夜軍でわずか八千の軍勢をもって上杉八万三千余の大敵を切り崩し、天下に武名を輝かした英傑である。その氏康の名を負った柱なれば、朽ちても根を継ぐなどして大切に保存しておけば、後々の者も武道の励みになろうものを。なぜことわりもなく取り捨てたのだ、不心得者め。鈴木大学の弓だと?。そんなものは叩き折って捨ててしまえ」

叱責された忠隣は総身に汗といった状態で退席した。

◆徳川家康は武田信玄を人生の師と仰ぎ、これを畏敬したが、北条氏の初期の治世にも目を向けていた。案外、家康が「昔の北条の政治は素晴らしかった」とあんまり賞揚するので、幕府の官僚たちが自分たちの成果を際立たせるために、前代の痕跡を消し去ったのではないか。前述の大久保忠隣が捨てた「氏康柱」もそうしたもののひとつであったろう。

◆冒頭の問いかけに戻ろう。江戸は幕府が置かれる以前には「寒村」だった。それを大都市に変貌させたのは家康であるという。だが、こうも言える。江戸はすでに大都会だった。そこに目をつけた家康が三河武士団を率いてやってきた。こういう輩(厳密に言えばその後継者たち)がとる方策はいつも同じだ。自分たちをまつりあげる伝説の捏造である。すなわち、「大都会江戸は家康以前には寒村だった」というものである。

◆このあたりの論考については最新の江戸学の成果がある。参考文献を2冊あげておく。

『江戸はこうして造られた』(鈴木理生/著、ちくま学芸文庫)
『家康はなぜ江戸を選んだか』(岡野友彦/著、教育出版)

である。北条五代の江戸を知りたい方にはおすすめである。家康以前の江戸の本当の姿が明らかになった時、北条五代の再評価もなされるに違いない。



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