060「シリーズ大谷刑部・首を渡すな」



湯浅隆貞(?―1600)


五助。姓は岩佐であるとも。大谷吉継の家臣。吉継はのちに吉隆と改名しているため、隆貞はその偏諱か。慶長五年(1600)、吉継に従って北陸鎮定、続いて関ケ原の合戦に参加。小早川秀秋の内応により、大谷隊が崩壊した時、吉継の命でその首を敵に奪われることのないよう隠せ、と命じられたという。その後、藤堂家の藤堂仁右衛門に討たれた。関ケ原町の大谷吉継陣跡に吉継のものと並んで墓が建てられている。


◆湯浅五助。いい主君に恵まれたおかげというよりも、見せ場を持った主人の付録といった感じであろうか。ほとんど無名の人物であるのに劇や小説に必ずといっていいほど登場し、強烈な印象を残すという、まことに得な人物である。

◆関ケ原合戦もたけなわ。西軍は日和見を多数出したとはいえ、宇喜多・石田・大谷勢の健闘により、東軍と互角の勝負。ところが、かねてより東軍に意を通じていた小早川秀秋が寝返り、松尾山の陣から眼下の大谷勢めざして攻撃を開始した。このことあるを予測していた吉継は、落ち付いて迎撃を指示。十倍近い小早川勢を一度ならず敗走させたが、この謀反に連鎖反応がおきた。脇坂、朽木、小川、赤座ら大谷勢を援護すべき与力大名があっという間に東軍に寝返り。ここに大谷隊は壊滅したのである。

◆吉継は、五助を呼ぶ。

吉継「よいか。かねて申したごとく、わしの首を敵に渡すでないぞ」
五助「はっ。かしこまりました」

やがて家臣の介錯で、吉継の首級は落ちた。これを白絹に包み、五助は戦場を離れる。このあたりでいいだろう、と主君の首を埋めているところへやって来たのは、藤堂高虎の家臣藤堂仁右衛門。五助の姿を見て、さてはとピーンときた。

五助「わしを討つがよい。手向かいはせぬ。だが、わが主君は病魔に冒された面相を敵に晒したくはない、との仰せ。頼む、どうか主君の御首級だけは見逃してもらいたい」

仁右衛門、感動して五助に承知したと告げる。五助は形ばかり太刀をあわせ、その場で仁右衛門に討たれた。首実検の場に藤堂仁右衛門が湯浅五助の首級を持ってあらわれた。徳川家康は「湯浅五助ならば兎口であろう」と首を確かめさせると、たしかに兎口。兎口の者には武勇の士が多いと当時は信じられていた。

◆さらに仁右衛門は家康から「湯浅五助は、大谷吉継の首の行方を存じておったであろう。吉継の首は手に入れたか?」と問われた。が、彼は五助との約束を守って、「たしかに知っているが、こればかりは湯浅五助との約束であるので、死んでも言えません。強いてとおっしゃるのであれば、恩賞も返上いたします」と言い張り、吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。家康はこのことを聞いて、「討たれた者も、討った者も、あっ晴れなやつだ」と褒め、それきり大谷吉継の首級を探させることはしなかった。

◆しかし、これには異説もある。「関ケ原合戦図屏風」(関ケ原町歴史民俗資料館蔵)を見ると、大谷吉継主従が主戦場とはちょっと離れた山中におり、首を前に考えこんでいるシーンがある。この首が誰の者かはわからないが、吉継(「大谷吉隆」と貼紙)は駕籠から出て座りこんでおり、そばには家臣たちがいる。その中のひとりに「祐玄坊」と貼紙された僧侶がいる。彼は吉継の甥・祐玄である。

◆別の説によると、五助は自刃した主君のそばで戦死。五助が吉継の介錯をつとめたともいう。その後、三浦喜太夫が落ちていた主君の首をひろって、祐玄に渡す。なんだか、ラグビーボールのように転々としている。祐玄が袈裟に包んだ吉継の首級を抱いて戦場を落ち延び、米原という在所にタッチダウン、もとい埋めた、と伝えている。現在では、米原に大谷吉継の首塚が現存する。祐玄はその後、嵯峨奥に蟄居したと伝える。

◆大谷吉継の最期はいつも乱軍とは思えぬ静けさの中で迎えるシーンとして描かれる。味方は崩壊し、敵は猛攻撃を仕掛けているのだから、心静かに切腹する、というわけにはいかなかったのではないか、と考える。そうなると、異説の五助→三浦喜太夫→祐玄という一連のパスが通った形のほうがもっともらしく思えてくるのだが。『名将言行録』はこの時の様子をこう伝えている。「此時湯浅五助、敵の首を提げて馳せ帰り、涙を流して曰く、我軍反撃者の為めに崩壊し、平塚以下の将士戦死する者過半、今此事を報ぜんが為めに、此に来れるなりと。吉隆之を聞き、終に割腹して死す。五助之れを介錯し、三浦喜太夫、其首を羽織に包みひそかに水田の泥中に埋め隠し、後、喜太夫も、亦割腹して死す」

◆また、敦賀では吉継の室をはじめ女どもが淋しさをまぎらわすため、琴を弾じたりしていたが、突然、弦が切れてしまった。また、城中では泣き声が湧き起こった。まさに吉継が自刃して果てた瞬間のことであったという。

◆五助以下がことごとく戦死したのは、日頃、吉継が家臣に慈悲深かったため、この恩に報いたのだという。戦前、東軍諸将は「今度のいくさで上方勢の内、晴なる討死をする者は大谷吉継と戸田重政であろう」と予想していたが、その通りになった。湯浅五助は、今も関ケ原の主君吉継の墓所の脇でいっしょに眠っている。




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