053「それは駿府からはじまった」



今川氏親(1473―1526)


竜王丸、彦五郎、治部大輔、修理大夫、上総介。紹僖、喬山と号す。父は義忠。母は伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿。文明八年(1476)、父が戦死した時、幼少だったため一族間の内訌に巻き込まれる。今川一族の実力者範光を討った叔父伊勢盛時によって擁立され、文明十一年、幕府から家督相続を認められる。文亀元年(1501)、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を破り、勢力を伸張。さらに三河併呑を狙ったが失敗した。永正十四年(1517)、斯波氏を駆逐して遠江を平定。大永六年(1526)、分国法『今川仮名目録』(のちに子の義元が追加)を制定したが、同年六月二十三日に病没し、増善寺に葬られた。室は京都の公卿中御門宣胤の女(寿桂尼)。


◆グローバル・スタンダードあるいは、デファクト・スタンダードという言葉が新聞や雑誌などに溢れている。情報分野はひとり勝ちの時代である。数えきれない規格が乱立する中で、いかに自社製品をひろく普及させるかがカギで、そのためにはハードウェア、ソフトウェアなどをなりふりかまわずタダ同然でばらまく、なんてことも行われている。以前はビデオのベータ・VHS戦争というものがあった。詳しくは知らないが、人に聞くとたいてい「ベータのほうが画質がいい」という。また、パソコンのOSの分野でも、圧倒的に普及しているWindowsよりもMacOSの熱烈な信奉者はいる。いずれも製品の善し悪しではなく、普及度(マーケティングの勝利か?)が勝敗を分けた。

◆戦国大名の間でも「大名領国制」実現のカギが全国的に普及し、標準化されていく例はある。

◆その代表的なものは、印判状だ。戦国大名が朱印・黒印などを押して、自・他領に流通させた文書の総称である。用途は知行宛行、感状、伝馬、制札など多彩。北条氏の「虎印判状」などは有名だ。

◆この印判状を戦国大名として最初に使用したのが、今川氏親であった。それがそんなにエライことなのだろうか?と聞かれても困るのだが。では、こう言い換えよう。最初に共通の文書フォーマットを決めて、流通させたのが、今川氏親である、と。

◆じゃあ、今川氏親ってそんなに独創力に富んだ人だったのか、というと、これはわからない。むしろ、京都文化の体現者であった伊勢氏の出身である北条早雲を叔父にもったことのほうが大きかったろうと思う。しかし、それをいいものと思って採用し、実行させたのは間違いなく氏親だ。

◆ともかく、それまで一枚一枚書いていた花押をスタンプ(印判)に変更したため、同じ内容の文書を大量に制作可能なメリットが生じた。つまり、領内の隅々にまで統一した命令をスピーディに行き渡らせることができるわけだ。命令系統が確立すると、領内統治や家臣団の掌握にも大きな力を発揮する。これはうまい方法だ、と武田や織田が取り入れる。

◆今川氏は東国大名だ。関東から関西へ何かが普及していく例は珍しいのである。現在でもわりと京阪神ではじまったものが東京圏へ「輸出」され、ブームになる傾向があるではないか。鉄砲、灰吹法、キリスト教、ノーパン喫茶(ピー)、これらはいずれも西国から来た。しかし、印判状は東国からはじまった。現時点で確認されるのは今川氏が最も早い。やがて今川の子会社ともいうべき北条氏が採用した。もっとも全国的展開をみせたのは、東海筋で織田信長が使用してからであろう。豊臣氏の時代には一気に西国まで普及している。

◆もっとも印判状には別の効用を見出した人もいる。上杉謙信である。中風を患って手がふるえていた彼は、花押を書くことができなくなると、印判というスタンプを愛用しはじめた。

◆現在、今川氏・北条氏の研究が盛んなのは、「原型」であり、「典型」であるからだ。今川・北条で解決した問題は、他大名にも適用できることが多いからだ。このあたりを論じたのが山室恭子の『中世の中に生まれた近世』(吉川弘文館)である。

◆この戦国大名先進地帯・駿河に北条早雲が身を寄せていた。現在の史学界が「戦国大名の典型」と評価する後北条氏(学界ってこの言い方、好きだなあ)の施策は、この今川氏の流れを汲むものと言えるだろうし、隣国の武田信玄が制定した『甲州法度之次第』も氏親がつくった『今川仮名目録』の影響を強く受けている。世間では信玄ばかりほめそやしているけれども、別に彼に独創性があったわけではない。まあ、新しいものを積極的に取り入れる進取の態度は評価されるけれども、それも今川氏あってこそ、なのである。

◆インターネットの世界にたとえると、今川氏は「Mosaic」(最近はこれ知ってる人、少ないかもね)で、血縁関係にある北条氏は「Netscape navigator」。影響を受けて採用・普及させた武田氏は「Internet Explorer」ってとこかな(笑)。


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