052「目には目を、オスにはメスを」



淡河定範(?―?)


弾正忠。忠之。赤松氏の流れを汲むという。播磨国三木城主別所氏の家臣で、淡河城主。天正六年(1578)、別所長治が織田信長に背くと、これに同調。居城において羽柴秀長を迎え撃ち、これを破った。天正七年、三木城に入り、別所氏に合流して羽柴秀吉の中国征討軍と戦った。天正八年正月、三木城は降服開城した。戦死説および生存説があり、以後の消息は不明。姓については諸書によって「オウゴ」あるいは「アワガ」ともいう。


◆安土桃山時代に入ると、織田・豊臣の圧倒的な強さ、あるいは時代の担い手としてまばゆさばかり目立つようになる。物量作戦でひた押しに押していく地方平定戦。趨勢は見えているのだが、地方の親玉は、後世のわれわれからしてみれば、気の毒なくらい頑迷で、先見性がない。しかしそのことを指摘するのは身の程知らずというもの。予測がつかないのは現代も同じである。

◆しかし、勝ち目がないからこそ、中央の大勢力に敢然と抵抗する頑固なドン・キホーテ的お調子者のおっさんがいると、なぜだか非常にうれしくなってしまう。これが敵に一泡吹かせようものなら拍手喝采モノである。今回の主役はそんな愛すべきひとり「オウゴ」という珍しい姓のおっさん。なんでも奇想天外な謀略をたびたび用いたらしい。

◆『四国軍記』によれば、羽柴秀吉は弟の秀長を大将として、まず播州美濃郡にある淡河氏の居城を攻撃させた。この城は織田方に叛旗を翻した荒木村重に呼応した別所長治の支城でもある。

◆味方よりも軍備が格段に進んだ羽柴軍を迎え撃つ淡河弾正は、「牝馬を五十頭ほど用意せよ。ただし、バーさんはだめだ。若いぴちぴちしたやつばかり集めろ」と家臣に命じたきり。戦端が開かれるや、淡河弾正は牝馬を敵中に追い放った。

◆相手方はどうやらオスが多かったらしい。たちまち騎馬軍団、戦意を性欲に振り替えて、しずめようとする騎乗者をふるい落とし、もう乱交状態。あちらこちらでメークラブ。

◆羽柴秀長が淡河城を攻めて、城方の逆襲に遭い敗退したのは事実である。もちろん軍記ものの記すところだから、牝馬作戦がどこまで本当かはわからない。案外、城方からあばれ馬が飛び出し、寄せ手の馬がこれに反応して混乱したというのがありそうな話かと思えるが、筆者は記述が大らかな軍記ものが大好きである。

◆さて、淡河弾正の奮戦に遭って、羽柴勢はものの見事に敗退した。なかなか田舎臭いといおうか、あけっぴろげでいいではないか。騎馬軍団を破ったといえば、織田信長の鉄砲隊、と考えるのが一般的だろう。だが、もっと奇抜な方法で騎馬軍団に勝った男もいたのである。規模はずっと小さかったであろうけれども。

◆ところで、戦国当時どころか、近世にいたるまで日本では馬に対して去勢を行わなかった。このため、明治期、日本へやって来たお雇い外国人たちは、馬の気性が激しいことにビックリしたと言われている。現在のサラブレッドよりもだいぶ馬体は小さかったが、気性は猛獣のような感じだったのかもしれない。今で言えば、自動車を運転するよりも難しかったのではないか。ましてや馬上から矢をはなったりする「芸」が出来た者こそ、武士と言われたのかもしれない。(そのため槍や鉄砲が誰でもわずかな練習で扱えるようになる武器として脚光を浴びるようになる)

◆「将を射んと欲すれば、馬を射よ」という言葉があるが、馬を弓矢鉄砲で射るよりも、はるかに効果的であるといえよう。

◆この戦いの後、淡河弾正は甥の江見又四郎の意見を容れ、秀吉本隊が来襲する前に城を焼き、一族・郎党を引き連れて別所氏の三木城に籠ったと『別所長治記』は記している。激しい抵抗の末、結局、三木城は開城したのだが、その後の弾正の消息がどうなったのかはよくわからない。『別所長治記』『陰徳太平記』などは淡河弾正が大村合戦において戦死したとしている。しかし、毛利輝元が家臣井原元尚に宛てた書状には「弾正殿御事、今御逗留に候」と記されており、その生死も判然としない。史料価値的には後者のほうが圧倒的に信頼できるし、奇策を用いる弾正のことであるから、案外、ちゃっかり生き延びていたのかもしれない。

◆まるで楠木正成を思わせるような戦いぶりである。



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