049「戦国版・究極のメニュー」



於梶の方(1578―1642)


於八、於勝、於加知の方。太田康資の女(あるいは養女と伝える)。天正十八年(1590)、徳川家康に召出され、側室となる。女ながら関ヶ原の合戦に従軍。娘市姫を早逝させたあと、結城秀康の次男忠昌、家康の十一男頼房、家康の孫振姫などを養育した。大坂冬夏の両陣にも家康に従った。元和二年(1616)、家康の没後、落飾して英勝院と号した。寛永十一年(1634)、先祖太田道灌の居館跡がある鎌倉扇ヶ谷に英勝寺を建立。寛永十九年没。江戸瑞松寺に葬られる。


◆徳川家康の数多い側室中、聡明かつ武勇をもって知られるといえば、この方である。太田康資も金棒ふりまわして戦った豪傑であるから、父親ゆずりというべきか。関ヶ原の合戦に勝利した家康は陣を布いた山を指して「この山を勝山と名づけるぞ」と言った。次に傍らにいた於梶の方に向かって「おまえも於勝と改めよ」と言ったという。

◆家康もたびたび戦場へ連れて行ったというから、非常にお気に入りだったのだろうが、女としての魅力よりも彼女の機知を愛していたふしがある。つまり、家康好みの「自己管理」できている女性なのだ。「おまえなら戦場へ連れて行っても、泣き喚いてわしの足をひっぱることもあるまい」というわけだ。

◆ある時、家康は本多忠勝、大久保忠佐、平岩親吉らを集めて、飲み会を開催した。その席上、家康が諸将に問うた。

家康「およそ食物の中でいちばん美味いものはなんであろうかのう?」

食い物の話題ひとつにも、拳を握り締めて発言する三河武士たち。たちまち立ち上がり、口角泡を飛ばす輩。

忠佐「きしめん、きしめん!きしめんに決まっておるわ!」
忠勝「いやあ、みそカツが一番じゃ!」
親吉「わしはういろうが好きじゃ!」
忠佐「たわけ。ういろうなんざ、おんなこどもの食い物じゃ!」
親吉「きしめんなんか。讃岐うどんのほうがずっとましじゃ」
忠勝「そんなもの馬子にでも食わせろ。手打ちの蕎麦にワサビとつゆをちょびっとつけて、噛まずに一息にすすりこむ。これじゃわい」
忠佐「江戸っ子か、貴様!?」

ツナマヨおにぎり、寄せ鍋、サンマ、たらこスパゲッティ、出るわ出るわ。『徳川実記』によれば、「おのが親しむものの事いひ出て、一決せず」とある。要するに自分の好物のことばかり主張していたわけだが、現代でも「何がいちばん美味しいか」と問われたら、同じ状況に陥るのではないだろうか。

◆もっとも、いつも意見がまとまらないのは、徳川家の常のこと。家康は苦虫をつぶしたような表情になり、何が美味しいかで喧嘩しかかっている家臣たちを見つめている。はやくものごとをきちんと決める機構をつくらねばのう・・・と思いながら。

◆とはいえ、家康自身もよくない。ツメなど噛んでないで、

「きしめんもいいのう。みそカツは大好物じゃ。ういろうは毎日食べないと気がすまん」

とでも言えばいいのだが、どれかにきちんと決めたい気持ちがある。忠勝たちのそれぞれの好物を聞いているわけではない。「いちばん」を決めたいのだ。だったら家康自身が好物を口に出せばいいのだが、優柔不断で気の多い彼はひとつに決めることができないでいた。

◆何気なく傍らを見ると、猛将たちが口論というよりはつかみあいになりかかっている光景をニコニコ眺めながら、側室の於梶の方がお茶を煎れている。

家康「於梶。何がおかしいのじゃ。そなたがこの世の中で、いちばん美味いと思うものを知っているとでも申すのか?」

家康の問いかけに、ポークジンジャーだ八宝菜だウニイクラ丼だ松茸ごはんだと喚いていた武将たちも、於梶のほうを注目する。

於梶「およそ食べ物のうまいという基準は、塩加減にございます。どんなによい料理でも塩がなければ味がととのわないものでございます」


◆一同、ふうむと納得。ここでやめておけばよかったのに、

家康「いちばん美味いものは塩か。では、いちばん不味いものはなんじゃ?」

忠勝「それはあれじゃ、○○町の角の定食屋!あそこはひどい」
忠佐「どこぞで馳走になった汁はまずくて、愛想を言う気も失せたわ」
親吉「あー、貴様ンとこの女房の飯はもっとひどいわ」
忠佐「ぬかしたな、こいつ!」

家康「(こいつら、地方へ飛ばしてやろうかと思いつつ)於梶、そなたならば知っておるか、いちばん不味い食べ物が何かを」
於梶「いちばん不味いものは、塩でございましょう」
家康「なに?さっきいちばん美味いものは塩と申したではないか」
於梶「どんなにりっぱな料理でも、塩を入れ過ぎると食べることはできませんわ」

家康は「これ男子ならば一方の大将に奉りて、大軍をも駆使すべきに、惜しきことかな」と言ったと『故老諸談』は伝えている。



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