046「武士道とは拭くこととみつけたり」



鍋島直茂(1538―1618)


彦法師、信安、信真、信昌、飛騨守、加賀守。肥前佐嘉城主。鍋島清房の子。母は龍造寺家純の女。幼少の頃、一時、千葉氏の養子となる。のち実家に戻り、龍造寺隆信に仕える。永禄十二年(1569)、大友宗麟を今山の合戦で破り、大友貞親を討取る。天正十二年、沖田畷で隆信が戦死すると、その子政家を補佐した。豊臣政権下では秀吉の信任厚く、長崎の代官を命じられた。さらに天正十八年の政家隠居により、肥前三十五万七千石の実質的な領主となった。その後、加藤清正に属して朝鮮出兵。秀吉没後、関ヶ原の合戦では本領を保ち、慶長十二年(1607)、龍造寺父子が死去すると、これにかわって鍋島藩が成立した。法名日峯宗智。



◆カリスマ性をもった創業者は、一線を退いても何かと頼りにされることも多いし、周囲も放ってはおかないものである。

◆鍋島直茂は老齢になると、家督を息子の勝茂に譲って、隠居城で悠々自適の日々を過ごしていた。しかし、家中の信望も篤く、折にふれては古株の家臣たちが訪れ、「ご隠居」の知恵を借りにやってくる。なんといっても戦国生き残りの猛者であるし、関ヶ原の合戦では当初、西軍についていたはずなのに、小早川秀秋のようなあからさまな裏切り行為をすることもなく、いくさが終ってみたら、東軍に紛れ込んでいた、という笑っちゃうような身の処し方で肥前一国を保った人物だ。家臣たちの畏敬の念も深く、事あるごとにその「生き神様」の謦咳に触れたいと思うのも無理はない。古典『葉隠』は、こうした直茂の言行がいつしか逸話として流布し、まとめられたものとも言われている。

◆鍋島直茂がアルバイトを募集したことがあった。

家臣A「大殿にも困ったものよ」
家臣B「いかがいたした?」
家臣A「また、新参者を雇われたようなのだが、これが軽薄なやつでの。どうしてあんな者がお気に召したのやら」
家臣B「わかった。いつも殿の側にくっついておるやつであろう。満足に槍働きなどとてもできそうもない無能なやつだ」
家臣A「わしは我慢ならんぞ。身の回りのお世話ならば、もっと心ききたる者がおるはず。それをあのような者を雇うとは。われらへのあてつけが過ぎるというものじゃ」
家臣B「しかし、いったい大殿はあの者のどこがお気に入られたのだか」

◆そこで代表者が直茂のもとへ伺候し、意見を言上することになった。

家臣「大殿。近頃、これこれの者を懇ろにお召し使っておいでのようでございますが、あの者、果たしてものの役に立つかどうか知れたものではありません。家中の者たちも、なぜ自分たちをさしおいて、あのような者を側近く置かれているのか理解に苦しんでおります。これでは示しもつかないでしょう」
直茂「ふうむ。まあ、そちの申すようにあの者はいざという時には、役にも立たぬであろうなあ・・・」
家臣「わかっておいでならば、なにゆえでござる!?」
直茂「いやあ。あの者は気安く使えるので、毎朝、を拭かせているのだ」
家臣「は?」
直茂「お・し・り!」

作者注:デタラメ書くなと思われる方もいるかもしれないので、原文のとおりにもう一度鍋島主従に喋ってもらおう。

家臣「今程何某を別けて御懇ろに召し使はるゝと相見え申し候。我々槍突き申し候時分、終に相見え申さず、先途の御用に相立ち候儀、心得申さず候が、如何様の思召し入にて御懇ろに召し使はれ候や」
直茂「いかにも尤もの存じ分にて候。彼の者先途の御用に立ち申したる者にてもなく候へども、我等気に入り、心安く候故、尻をも拭はせ申し候」


直茂「合戦の時にはそなたたちを頼りにしてはおるが、まさかわしの尻など拭きたいと思う者はおるまい?」
家臣「は・・・はあ」
直茂「わが家の宝であるそのほうたちに、いくら何でもわしの尻を拭かせるわけにはまいるまい、と思い、あの者を雇ったのだ。だが、それをおまえたちは気に入らない、と申すわけだな?」
家臣「いえ、はい、あの・・・」
直茂「まあ、言われてみれば、事前にみなの気持ちを確かめなかったのは、わしが悪かった。よし、雇用の機会は平等に与えられなければならぬ(いつの時代じゃ?)。明日、広間にみなを集めて、わしの尻を拭きたいという希望者を募ろう!」
家臣「あ――大殿、しばらく、しばらく!」

◆『葉隠』が伝えるエピソードである。(もちろんオチを抜いた部分のみ)

「武士道とは尻を拭くこととみつけたり」




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