045「血天井は何を語るか」



新開実綱(?―1582?)


忠之、遠江守、入道道善。阿波那賀郡牛岐城主として阿波国守護細川氏に仕え、三百貫を知行するという。天正三年(1575)頃、阿波南部に勢力を張った。細川氏滅亡後、阿波の実力者である三好義賢の婿となり、その麾下として活躍。北上する長宗我部元親と戦う。のちに長宗我部氏に降ったが、天正十年(天正九年という説もあり)、丈六寺で元親に謀殺される。


◆一見した時、最初の印象は「なんだか胡散くさいなあ」というものだった。場所は徳島県丈六町の古刹。清々しい朝に見るには陰惨すぎる「血天井」。

◆実は「血天井」なるものを見るのはこれで二度目である。最初は京都宇治の興聖寺で見た。たしか、伏見城の遺構だったもので、関ヶ原の前哨戦であった伏見城攻防戦の時のものだったと思う。人間の手や足のような黒い染みが付着しているのを見ながら、「どうしてこういう板を(それが本物だったらなおさらのこと)天井なんかに使うかなあ」と漠然と思った。殺された人の痕跡が頭上にあるなんて、現代人には考えられない感覚だろう。

◆丈六寺(瑞麟山慈雲院)は阿波最古の名刹といわれる。「阿波の法隆寺」と呼ばれるにもかかわらず、四国霊場の札所には入っていない。弘法大師が修行したといわれる時代よりもずっと古くに創建されたからだ。国重文の三門は室町時代末期の建造といわれ、徳島県内最古の木造建築物。ほかにも本堂、観音堂とそこに安置されている行基作といわれる木造聖観音坐像などが国の重用文化財に指定されている。この観音は身長が一丈六尺(約4.85m)。仏は一般人の身長八尺の二倍あるとされたため、古くから仏像を量る基準とされてきたのである。寺の名前は観音様の身長からつけられた。

◆しかし、「丈六寺イコール血天井」のほうが案外有名なのかもしれない。寺内に入ると、血天井についての説明版があり、「血天井はこの上です」というご丁寧な案内まである。そこでおもむろに見上げた途端、ギョッとすると同時に、思わず吹き出してしまいそうになった。

◆丈六寺、正確には徳雲院の「伝・血天井」の血痕は、興聖寺のものよりも笑っちゃうほどに多い。まるで子供が絵の具を塗った手でイタズラしたみたいにペタペタと付着している。それが吹き出してしまいそうになった理由である。その血痕の主は、寺の伝説によれば「天正九年に長宗我部元親によって謀殺された三好家の部将・新開道善とその家臣たちのもの」なのだという。

◆徳雲院の案内板には、この間の事情をだいたい次のように書いてある。

◆四国平定をめざす土佐の太守長宗我部元親は、阿波へ侵攻したものの、新開道善が拠る富岡(牛岐)城を攻めあぐんでいた。知勇兼備の新開道善を降すには謀略しかない、と考えた元親は、丈六寺において和談を開きたいと持ちかけた。これに応じた新開道善は「四国平定のあかつきには阿波のうち勝浦郡を与え、富岡城を安堵する」という土佐側の条件を容れて両軍の和睦が成立した。新開主従は土佐側のもてなしを受けてすっかり油断。気持ちよく酔って城へ戻ろうとしたところを、床下に隠れていた元親の刺客が主従を襲った。謀られた、と新開道善たちは覚り、数にまさる敵兵相手に勇戦したが、たちまち全員斬り殺されてしまった。この時、縁の板に血痕が飛び散り、あとで拭っても拭っても落ちない。そこで、縁からはずして、天井板にしたのだ、という。新開忠之(道善)墓碑には「天正九年十月十六日」のことと刻まれている。

◆地元の案内板には「知勇兼備」と書かれようが、まったくぶざまとしか言いようがない。お酒の強い土佐者と飲みくらべをしたのも間違いである(笑)。だが、それでも阿波の人々はあわれな新開道善主従の最期を絵馬にまで描かせ、その勇戦ぶりをたたえているのである。これはやはり、土佐・長宗我部に蹂躪された阿波人の「無念の思い」というほかはない。「血天井」は土佐兵に抵抗した男たちの、顕彰碑なのである。

◆もっとも地元では、たとえば高知県のように脱藩した坂本龍馬への「熱を帯びた傾斜ぶり」といったようなこともなさそうである。このあたり、土佐と阿波のお国柄が出ているようで面白い。土佐の侵攻を受けたことについても、わずかな客観性を保って、この遺物を「伝・血天井」と名づけているところが奥床しく、もの悲しい。

◆この血天井の伝説もさることながら、寺内に葬られている人々は、三好一族によって滅ぼされた守護家細川一族、切腹させられた旗本奴水野十郎左衛門の母、といった人々ばかり。何となく凶々しい印象を持ってしまうが、均整のとれた気品ある寺である。

◆寺内を貫くように走る県道(堤防道路)の道沿いに新開道善の廟所がある。現在では「禁酒の神さん」として親しまれ、御神酒徳利を供えて願かけをする人もいるそうである。


XFILE・MENU