044「歌を詠んで城を取り戻した男」



東常縁(1401―1494?)


左近将監、下野守、法号素伝、昼錦居士。千葉常胤の末裔。東益之の男。和歌を二条尭孝らに学ぶ(二条流)。関東で下総の千葉氏が騒乱を起こすと、幕命によって下向、馬加康胤を攻めた。そのまま下総に留まり、文明元年(1469)帰京。その後、出家。連歌師飯尾宗祇に和歌の講釈を行い、文明三年、『古今集』の奥義を宗祇に伝授した。これによって「古今伝授」がはじまったと伝えられている。家集『常縁集』ほか歌学書、注釈書を多く残している。


◆昔(それほどでもないか)、ヒロインが「♪おぼえていますか〜」などと歌を歌って敵を倒す、というか、萎縮させる(やる気をなくさせる?)アニメがあった。そんなアホな、と思うが、生理学的に分析すると、ある音声によって、聞く者の大脳が刺激され、性的快感が生じる(その結果は想像にお任せする)のではないか、などと考えてしまったりする。

◆うう。文系なのでこのへん、よくわからん。ともかくも、今回は和歌を効果的(?)に使った人の話だ。ちょっと昔過ぎるかな、とも思ったが、北条早雲と同時代(ちと先輩)を生きた人だから、まあ許してもらおう。

◆東(とう)氏は鎌倉幕府草創期から、歴代、歌の名手を輩出した。この一族がはじめて美濃郡上郡篠脇の地を支配したのは、足利義満に仕えた東師氏。和歌に秀でて、最後の勅撰集ともなった『新続古今和歌集』にも師氏の歌が選ばれている。その子が益之。父同様に和歌をよくして、当時の名手といわれた飛鳥井雅世、今川了俊らと交わった。さらにその子が東野州と称された常縁である。

◆東常縁の先祖は、源頼朝に仕えた千葉介常胤である。千葉氏は室町時代にも下総国に勢力を張っていたが、やがて御家騒動がおこった。幕府は京にいた常縁に鎮圧を命じる。常縁はよく転戦して、そのまま関東に遠征、何年も過ごすことになってしまった。

◆常縁が関東に在国中に、応仁の乱が勃発した。美濃の守護土岐氏は西軍(山名宗全方)についた。これを受けて守護代斎藤妙珍は、郡上郡の東氏の所領を横領してしまった。常縁にしてみれば、海外出張中に家や土地の権利が他人に渡ってしまっていたようなもの。そんなあ、とボヤいても幕府はこういう肝心な時に何もしてくれない。帰るところがなくなり、仕方なく、常縁は和歌を詠んだ。

あるがうちにかかる世をしも見たりけん人の昔のなほも恋しき

これは、常縁が亡父益之の冥福を祈って詠んだものである。

◆この和歌をみた人々は、みな常縁に同情した。そして、なんと常縁の所領を奪った張本人である斎藤明椿が「返してやるよ」と城と領地を返却(当然、妙珍の主人土岐氏の了解もあったことだろう)してきたのである。冒頭のアニメじゃないが、妙珍は常縁の歌に「イッっちゃった」わけだ。じゃなかった、「まいっちゃった」わけだ(笑)。

◆血はつながっていないとはいえ、明椿の守護代家斎藤氏には、後年、かの斎藤道三が登場し、守護の土岐氏から美濃一国を奪ってしまうことになる。その時の守護土岐頼芸は当然、この妙珍と常縁の逸話を知っていたと想像されるから、和歌のひとつでも詠んで、道三が国を返してくれるかな〜などと思ったであろうか。あるいは一首詠んだところが、道三はちっとも「イッて」くれなくて、かわりに国を追い出されてしまった、と。ちと話が脱線した。

◆芸は身をたすく、とはよく言ったものだ。どれだけ信頼できるかはさておき、とっさの機転や和歌による応酬が一命を救った話は結構伝わっているのである。

◆ところで、「古今伝授」というと、戦国ファンならば真っ先に思い浮かべるのは、細川幽斎ではないだろうか。関ケ原の合戦前夜、丹後宮津城を西軍石田三成方に包囲され、籠城の挙句、「幽斎は唯一の古今相伝者だから、死なせてはならぬ〜」という勅命が下ったエピソードでも有名だ。この「古今伝授」を最初にやった男こそ、この東常縁である、といわれている。まあ、以前にもそういうことはあったけれども、はっきりした形式ができたわけね。今でも郡上八幡(岐阜県)へ行けば、あちこちに「古今伝授の里」などという表示を目にする。もっとも、実際に常縁が宗祇に「古今集」を教授した場所は京と伊豆三島であった。

◆「古今伝授」とは何をするのか、簡単に言うと、貴族の基本的な教養であった『古今和歌集』に関する講釈のうち、重要な部分(エッセンスというやつね)を切紙として示して継承者に伝えるというもの。これに昔の人が言ったこと(古注)や相承系図などが付いた。別に一子相伝というわけではなく、一人が何人もの弟子に伝授する例もあった。

◆ちなみに、常縁から「古今伝授」を受けた宗祇のあとは、近衛尚通・三条西実隆・牡丹花肖柏らに大盤振る舞いで伝えられ、以後、三条西実枝→細川幽斎→八条宮智仁親王→後水尾上皇と続く。前述の宮津開城の話があるから、関ヶ原合戦当時は細川幽斎以外の相伝者は存命していなかったと思われる。幽斎は松永貞徳にも伝授しているから、別の系統もあったはずである。




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