043「サルでもわかる作文教室」



本多重次(1529―1596)


八蔵、作十郎、作左衛門、号高分。室は鳥居忠吉の女。松平清康、広忠、徳川家康の三代に仕えた、永禄八年(1565)、三河三奉行の一人として活躍。その検断ぶりは「鬼作左」と称された。主君家康に対しても歯に衣着せぬ物言いをしたという。天正十年(1582)、江尻・久能の城主となる。天正十四年、豊臣秀吉の生母大政所が三河に下向し、警備を命じられる。この時、上洛した家康に万一のことがあった場合は、即座に大政所を焼き殺すべく、その居所の周囲に薪を積み上げていたという。のち秀吉の怒りを買い、上総国に蟄居させられた。慶長元年、下総相馬郡井野で没。同所の青柳村本願寺に葬られた。


◆やはりうまい文章というのは、簡潔で相手に伝わりやすい、ということが第一なのだろう。伝えたい内容が難しいことや高尚なことであっても、専門用語など使わずに、わかりやすい言葉で書いてあると、かえって恐れ入ってしまう。一時期、難解なことがエライことのように思われていたが、法律の条文やマニュアル類はどうにもならないらしい。最近は図版を多用して矢印でボタンを押したりする手順を解説した「できる○○」とか「超図解○○」とか「サルでもわかる」なんてパソコン関連の本も出てきたが、あれはお父さんたちに人気なんだそうだ。そういうお父さんたちがパソコンに向かいつつ打ち出す文章が「わかりにくい」んだから、まったく(笑)。

◆それにしても、おのれが書いたものが、ずっと後まで残り、さらには平成の世に名文の好例としてもてはやされるとは、当人には思いもしなかったことだろう。

「一筆啓上火の用心、お千泣かすな、馬肥やせ」

◆この文章を見ただけで、ある程度、書き手の本多作左衛門重次という人物の性格まで思いをいたすことができる。とにかくまわりくどいことが嫌い。単刀直入で、粗野で、怒りっぽい性格だったろう。それでいて、肉親の情も人一倍あつい。酒を過ごすと、若い者に説教したり、泣き上戸になったりする男だったかもしれない。この交通標語のような短い手紙も、あまり推敲することなく、一気に書き上げたものだったろう。戦国時代の人間が書いたものとして、少なくとも十指には入る名文であろうと思う。

◆文中の「お千」というのは侍女か娘であろう、などと書いている作家がいまだにいるが、これは息子のこと。息子は幼名を「仙千代」、長じて飛騨守成重となった人物で、越前丸岡城の城主となった。城内には父親作左衛門重次の「一筆啓上」の碑が建っている。地元の自治体がこれに目をつけ、短い手紙コンテストだかをやったのは記憶に新しいところだ。全国から集まった作品が単行本にまでまとめられたから、書店等でご覧になった方も多いかもしれない。一種の文学賞にまでなった戦国武将はほかにはないのではないか。

◆一方、作左衛門の主君徳川家康はあまり文章がうまくない。字も下手だし、秀吉ほどのあけっぴろげなところもない。信長にしてからが、秀吉の妻おねに対してユーモラスな書状を送っている。そういう滑稽味が、家康にはない。それ以上に相手にわからせる文章を書くという姿勢に欠けている。人間がマジメなのであろう。彼が高札を領国内に掲げたことがあった。だが、百姓の誰も読むことはできない。最初のほうをちょろちょろッと読んで、理解不能なので、そのうち読むのをやめてしまった。

◆話を聞いた作左衛門。さっそく主君が立てさせた高札を見に行った。

作左「あ。だーめだ、こりゃ。こんな文章では、百姓たちが読もうとしないのもあたりまえだ。堅苦しいし、古臭くて、カッコつけてんだか何だか知らないが、百姓たちはイロハだってまともに知らないのだ。よしッ、おれにまかせろ」

そこで、筆をとった作左、漢字を少なくして、家康の高札に書かれてある禁止事項をわかりやすく箇条書きにまとめ、末尾に、
「右に背くと、作左が叱る」
と記した。

◆三河岡崎のあたりでは、女房が鍋でものを煮るのがノロいとき、「作左がくるぞう」と冷やかしたという。だから、百姓たちは新しい高札を見てびっくり。作左に叱られる、作左に叱られる、と大騒ぎ。オロオロする大人たち。泣く子も黙ると思いきや、アーンこわいよーとますます大泣きする子供。高札に書かれた通達も領国中によくゆきわたったとさ。


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