042「猛将か、能吏か」



柿崎景家(?―1577)


弥次郎、和泉守。越後猿毛城ならびに木崎(柿崎)城主。上杉二十五将の一人。黒田秀忠の乱に加わるが、のちに長尾景虎(上杉謙信)方に寝返る。以後、謙信の膝下で奉行職を勤め、関東出兵、川中島の合戦などに参加。奉行職を兼ねたまま七手組の一人となる。川中島合戦では先鋒として武田勢を撃ち破り、緒戦を飾ったと伝えられている。永禄十二年の上杉・北条和睦に際して、息子晴家を人質として小田原へ差し出した。越中攻略で戦功を認められ、越中松任城を預けられるが、間もなく織田信長へ内通した疑いにより、水島で一族もろとも殺害された。没年を天正三年などとするなどの異説もある。柿崎家は断絶となったが、御館の乱後、能登守憲家に家名再興が許された。柿崎町楞巌寺に墓がある。


◆今回はわりと有名なエピソード。野球と同じで緩急とりまぜるようにしないと、こっちもやってられないので、ごめんしてね。

◆柿崎町のホームページを見ると、昭和四十四年に放映された大河ドラマ『天と地と』に登場した柿崎景家が、「好色で裏切り者」に描かれていたので、地元をがっかりさせたというような記述がある。いまいちメジャーにはなれないけれど、地元ではいまだに慕われている武将はけっこう多いのだ。地元の寺には柿崎夫妻肖像画が残っている。惜しくも顔が判然としないけど・・・。

◆事実かどうかはさておき、主君上杉謙信をして「分別さえあれば、越後七郡に右に出るものはいない」とまで言わしめたのだから、やはり只者ではない。しかし、謙信の言う通りの評価であるとすると、「じゃあ、単細胞のイノシシ武者なのか」と思われるだろう。実に柿崎景家の猛将イメージは謙信の言葉と、「好色残忍裏切りもの」と断じた海音寺潮五郎の作品『天と地と』に原因があるといっても過言ではない。景家の性格づけは作者自身があとがきで語っているように、のちに織田信長に名馬を売って、その返礼を受け取っていたのを、謙信に通牒と疑われて自害させられた一件の伏線であるという。もっとも、これでもかこれでもかとはりめぐらされた伏線は、この作者特有の「中絶」(本人は枚数勘定ができないため、分量オンチといっている)によって生きることはなかったが。

◆裏切り者かどうか、ということについては、景家もあっちに着いたりこっちに着いたり、と腰がすわらなかったのは事実。謙信の最初の敵ともいうべき黒田秀忠とも縁組をしていたようだ。もっとも、後年の織田信長にまで通じていたかどうかは、明らかではないが、敵の大将と文通しておいて、バレるまでそれを黙っているというのは、軽率な行為だったと言わざるを得ない。だが、その最期は信頼できる文書には記されていないのである。

◆当の景家は成仏できなかったらしい。翌年、謙信が厠で倒れ、数日後に死んだのは、厠で景家の亡霊(べんじょ虫かい、君は?)を見たからだ、などと書いている書物もある。これはあんまりだ。柿崎町民の悔しさ、さもあらん。

◆戦国ファンが抱く、柿崎景家のイメージは「猛将」ということだろう。これは軍記ものにも書かれていることだけれども、謙信は「斎藤朝信ほどには評価していなかった」という。ただ、それだけ。強い強い、と言ってもその具体性に欠けている。せめて前述の「柿崎景家夫妻画像」がもう少し鮮明であればねえ。というのも、どうも輪郭だけ見ていると、江戸後期に書かれた錦絵などに登場する景家像とは異なるようなのだ。わたしの気のせいかもしれないが。それにどんな奥さんもらってたかも知りたいしなあ。

◆さらに、柿崎景家のもうひとつの有名なエピソードは、まったく違った姿を伝えている。

◆ある時のこと。景家は、謙信に呼ばれて、本拠地柿崎を発ち、春日山へ向かっていた。善光寺(越後のか?)の門前までやって来た時、突然、乗馬が暴れ出した。一体何に驚いたのかと思えば、門前で一人の説経者が長柄の傘を持っている。馬はどうやらその傘をみて興奮しているらしい。

景家「ううむ。あやしいやつ」

◆そこで、景家が説経者を捕えたところ、持っていた傘の中に書状のようなものが仕込んである。取り出して開いてみると、果たして謙信家中の者が宿敵・武田信玄に宛てた密書であった。この書状の持主が長尾政景である、とするのが軍記モノ。村山美作守とするのが『上杉家御年譜』の記述。おそらく後者が本当だろう。景家の注進によって、謙信は村山美作守をただちに誅殺している。

◆しかし、この出来過ぎたエピソードをみるかぎり、柿崎の、どこが「無分別」なのだろうかと首をかしげたくなる。「やればできるじゃない、柿崎クン」と誉めてやりたくなるくらいだ。実際、景家は直江大和守などとともに、謙信の奉行として行政・外交にも手腕を発揮している。これは現在残っている発給文書を見ればわかることだ。「単細胞のイノシシ武者」のイメージからは異なる姿である。しかも、景家は手判奉行の職にありながら、戦闘時の七手組隊頭をも兼務しているのである。しかも、北条氏や北陸の武士とも外交交渉を担っていた。

◆こうして見ると、内政・外交をやらそうとしても、てんで役に立たないゲームのキャラクターなど、薄っぺらだとは思わないか?

謙信「戻ったか、和泉守」
景家「申し訳ござりません。途中で密書を敵に奪われました」
謙信「六回目だぞ〜(怒)」



*補足調査
越後の善光寺とは現在の十念寺のことで今でも「浜善光寺」として地元の人々に愛されて(?)います。いわれは謙信公が信濃の善光寺を移したものだとか・・・
(X-file特別調査官:天翔)


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