040「辞世をアレンジいたしましょ」



織田信孝(1558―1583)


三七。織田信長の三男。母は坂氏。永禄十一年(1568)、信長の北伊勢平定により同国の神戸氏を継ぐ。長島攻め、越前一向一揆討伐、畿内平定に参加し、連枝衆の第四番目の地位を得る。洗礼は受けていないが、キリスト教にも理解を示した。天正十年(1582)、四国遠征直前に本能寺の変報に接し、光秀の女婿津田信澄を大坂城に討ち、羽柴秀吉に合流して山崎で明智光秀を破った。清洲会議の結果、岐阜城主となったが、羽柴秀吉と対立し、柴田勝家に接近。翌年、秀吉打倒の兵を挙げたが、勝家の敗死によって孤立し、降伏。尾張国内海の大御堂寺で自害させられた。室は神戸具盛の女。


◆第二シリーズの最後に登場するのは、織田信孝。通常、信長の三男といわれている。が、実は次男の信雄よりも二十日ほどはやく生れたらしいのだが、生母の身分差から認知が前後してしまったという。本来なら次男だったため、すぐ上の「兄」信雄には激しい対抗意識を燃やしていた。長兄・織田信忠が二条城で自刃したあとは、当然、自分こそが真の後継者、と信雄と争うこととなった。

◆このふたりはほぼ同時期にこの世に生を受けたわけだが、非常に仲が悪かった。ふたりとも父の信長にくらべれば、とても大器とは言えないのだが、信孝については高く評価している記録類もある。キリスト教を信奉していたらしく、宣教師たちの「うけ」もよかった。一方の信雄については「痴愚」などと評されるなど非常に手きびしい。「おバカさんランキング」などをやったら、上位にくいこむことはほぼ予想がつく。

◆しかし、ふたりは自身の実力ではなく、後押しした者の力量で勝者・敗者が決してしまった。信孝を後援したのは宿老柴田勝家。信雄は家督継承に推戴されなかったけれども、羽柴秀吉の推す三法師(信忠の子。のちの織田秀信)に接近した。結果はご存知のように羽柴派が勝利し、柴田勝家は北庄で自刃。岐阜城にいた信孝はまさかに猿と卑下していた家臣筋の秀吉に降るわけにもいかず、一応、対面を保てるということで異母兄の信雄に降った。信孝の頭のすみには「もしかしたら助かるかもしれない」というあまい考えがこびりついていたと思われる。が、信雄は信孝を尾張国野間に幽閉した後、自害させている。おそらく秀吉の示唆があったのだろう。

◆野間という土地は、武士にとっては忌まわしい地である。平安の昔、平治の乱に敗れた源義朝は、郎党鎌田正清らとともに東国へ逃げた。途中、鎌田正清の舅である尾張国知多郡野間内海荘の領主長田忠致に頼ったところ、長田は一行を歓待するふりをしつつ、隙を見て義朝主従を謀殺して、恩賞にありついたという逸話が残っている。義朝の墓所は信孝が幽閉自害させられた大御堂寺にある。そのような場所に連れて来られては、もう「ここで死ぬがよい」と言われたようなものだ。

◆予備知識を仕入れたところで、では、信孝の辞世アレンジ。いってみようか、ゴー♪

◆『川角太閤記』版。

「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」

一番オーソドックスなやつ。出典史料も江戸初期の頃で、史実にほぼ忠実といわれるので信孝の辞世も原型に近いかもしれない。「内海」を「討つ身」にかけている。「昔より主人を討つ」とは先に掲げた源義朝が長田忠致に殺害された故事。ただし、この和歌が確実に信孝の作かどうかはわからない。なお、読みやすく意味がとりやすいようにかな漢字混じりにあらためてある。以下も同様。

◆『氏郷記』および『勢州軍記』版。

「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」

『川角太閤記』とほぼ同じだが、下の句がちょっと変わっている。「尾張」と「終り」をひっかけているわけだ。内海の野間での義朝謀殺にくわえて、「報い」よりも「尾張」と「終り」でも遊べるじゃないか、と考えた作者によって改作されたのかもしれない。

◆『坂役叢話』版

「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」

大坂の陣を題材にした軍記物。信孝自刃と豊臣氏滅亡が同じ5月だったので、徳川家康がこの辞世を引き合いに出して大坂征討をおこしたとある。この作者は豊臣家滅亡を、信孝の呪いによって秀吉が受けた報い、と喧伝したかったのか?野間という源義朝最期の地となった地名がはっきり出たのは、古典への回帰か(笑)。あるいは義朝の非業を、同じ源氏の家康が仇を討つということにかけているのかもしれない。

◆信孝の辞世、募集!上記に掲げた以外で字句が異なった信孝の辞世を見つけた方は連絡をください。ただし、出典史料を明記すること。

◆また、使用されているパソコンで「織田信孝」をきちんと変換できない方はいるだろうか?もしも「織田の豚か」と変換されてしまうようならば、この機会に辞書登録してあげよう。供養になるかもよ!?




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