037「殉死してくれる人、大募集」



宇喜多直家(1529―1581)


八郎、三郎右衛門、和泉守。宇喜多興家の嫡男。本姓は三宅氏。備前浦上氏の被官であったが、祖父能家が殺害された後、愚鈍を装って政敵島村盛実の目を誤魔化した。権謀を用いて次第に主家をしのぐ勢いを示し、永禄年間にはほぼ自立し、天正元年(1573)、岡山に居城を構えた。天正三年、毛利元就と結んで三村元親を討った。さらに織田信長と結んだ主君浦上宗景を追放し、備前・美作を支配下におさめる。しかし、羽柴秀吉の中国進攻が本格化すると、これに降った。天正九年、岡山城内で病死。法名涼雲星友。室は中山信正の女。後室は三浦能登守の女ふく(法鮮尼)。


◆備前岡山城の一室で仰臥している人物がいる。この城の主・宇喜多直家である。彼は何か考え事にふけっている。家臣たちは、主人のこういう姿を見るのがコワイ。何を考えているのかわからない、同時に何を考えているか、わかってしまうからだ。直家は血を欲していた。ただ、それが誰なのかが周囲にはわからない。

◆一代の梟雄・宇喜多直家の生涯は血にまみれていた。しかし、戦場において尋常な命のやりとりをしたことはさほどでもない。むしろ、対話している相手を笑って殺す「仕物」に長けていた。弟の宇喜多春家、忠家でさえ、兄に呼ばれる時は半分殺されるものと覚悟していたという。そんな危険人物が病床でブツブツわけのわからないことをつぶやいているのだから、家臣一同気が気ではない。

◆秀家時代の「浮田家分限帳」には家臣たちの名前の上に○がついているが、これは慶長四年(1599)の宇喜多騒動で主家を退転してしまった者に印をつけてあるらしい。

◆ひょっとして、直家も枕の下に隠してあった書き付けをちょくちょく取り出しては、

直家「わしが死んだら、何人殉死してくれるかなあ・・・」

そこに連ねた家臣たちの名前に○とか△とか×をつけていたかもしれない。脇で看病する家臣にしたって、こんなチェックは気持ちがいいものではない。

直家「明石のせがれはどうかな。待てよ。あやつはキリシタンだから、自殺はしない。ひょっとしたら十字架にくくりつけて、こっちが火あぶりにでもする手助けが必要かもしれぬな。それも骨が折れることよのう。こっちは死にそうなのに」

◆主君が寝床でブツブツ言っていると、家臣のほうもだんだん不安になってくる。

家臣A「殿はまたぞろフサギの虫に取りつかれたようじゃ」
家臣B「なにか、こう、パァーッと明るく華やかにお慰めするわけにはいかぬものか」
家臣C「美女でもすすめまいらせようか」
家臣A「アホか。殿はすでに、ほれ、あれが・・・役に立たぬのだわ」
家臣B「そうそう。かえって美女を見たら、嫉妬にかられて紹介した者を殺害におよぶやも知れぬ」

◆戦国時代の武将といえども、ひとりで死ぬには未練があったらしい。宇喜多直家から多少毒気を抜いて上品にした感じの伊達政宗も死の床にあって、「殉死者」には拘った。とはいえ、直家みたいに指折り数えたわけではなく、家中に殉死を希望する者たちがいることを聞いて「仕方があるまい。各々の希望通りにせよ」としながらも満更でもなかったらしい。しかし、当の政宗は父輝宗に殉死する者を阻止した。それはそうだろう、跡継ぎにしてみれば、有能な家臣に死んで欲しくはない。自分を見限って先代の後を追うようなものだからだ。

◆まあ、各家には硬骨漢の一人や二人はいるもので。まかり出たのは、花房というガンコじいさん。

花房「殿。当家の家臣たちはみな有能な者ばかりでござる。殿に万一のことがあっても、八郎様(宇喜多秀家)を盛り立てて、立派に宇喜多の家を守っていくことでありましょう」
直家「・・・・・・」
花房「聞くところによれば、人は死ねば極楽浄土とやらへ行くそうにござりますが」
直家「そうじゃ。だが、わしは浄土への行き方を知らぬぞ。道案内が必要じゃ。」
花房「家中にも浄土への道順を知る者はおりませぬ。したがって、家臣が何人殉死したところで、迷子が増えるだけ」
直家「では、いかがすればよい」
花房「坊主は浄土への道順を知っておりましょうから、殿が死んだ後、坊主を何人か斬って道連れにいたさせましょう」

これを聞いた直家は坊主に囲まれて三途の川を渡る光景を思い描いて、げんなりとした表情になった。それきり、家臣の殉死予想もやめてしまったということである。

◆こういうどぎつくて腹黒い父親に、なぜ、宇喜多秀家という純真で一本気な息子が出来たのか、不思議でもあり、歴史の面白さでもある。




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