034「ザ・御落胤?」



小笠原権之丞(1588?―1615?)


小笠原越中守広朝の子。実名は不詳。洗礼名ディエゴ。父の死後、徳川家康に仕えるが、慶長十七年(1612)三月、キリスト教に帰依していたという理由で改易となる。慶長十九年、大坂の陣がおこると大坂城に入城し、豊臣方として奮戦。戦死したと伝えられるが、詳細は不明。家康と京都の三条氏との間に生れた子であるともいわれる。室は近藤石見守秀用の女。


◆元和元年、正確に言うと慶長二十年、豊臣秀頼が籠る大坂城にひとりの男の姿があった。男の名は、小笠原権之丞。天下人にして寄せ手の総大将・徳川家康の子といわれている。

◆普通の状況ならば、親兄弟のいる寄せ手にあって一手の大将ともなるべき男が、なぜ敵方の、しかも絶望的な状況の城方に加わったのか。

◆徳川家康の正室に仕えていた女房に大さい、小さい(別にふざけているわけではない)、という二人の女房がいた。この女房の名前を伝えている史料は「御降誕考」というものである。ここではメンドウなので、大きいサイちゃん、小さいサイちゃんと呼ぶことにする。家康の正室といえば、いうまでもなく関口氏広の女(築山殿)であるが、ここでいわれる正室が彼女を指すのかどうかはわからない。

◆やがて、二人の女房のうち大きいサイちゃんのほうに家康の手がついた。大きいサイちゃんはやがて懐妊しちゃった。褌をしめてもらうふり(家康は肥っていたので褌をひとりでしめられなかったともいわれる。)して相手をものにしてしまうような度胸があるかと思えば、いざ身ごもったと知ると、家康は本妻の嫉妬を極度に恐れた。

◆これと似たような話がある。家康が侍女だか下女だかに孕ませたお義伊すなわち結城秀康の母(お万の方)のことである。この時、嫉妬に燃える築山殿は身重のお万の方を吊し上げ、折檻したと伝えられている。これを見かねた本多重次が救って、お万は無事に出産した。

◆グズグズしていると大きいサイちゃんもお万の方と同じような目に遭うだろう。

家康「ううむ。お万はちょうど作左(本多重次)が助けたからよかったが。はて、いかがしたものか」

爪を噛みつつ悩む家康・・・。

◆ちょうど妻を亡くした小笠原広朝という譜代の家臣がいた。家康は、苦しまぎれに大きいサイちゃんを小笠原広朝に押しつけることにした。主君の手がついた女を臣下にさげわたす、はやく言えば厄介払いした例は日本史上、いくらでもある。

◆大きいサイちゃんは、小笠原家で男子を産む。赤子は小笠原権之丞と名づけられ、広朝の子として育てられることになった。譜代の家を継ぐことになり、父の死後、家康に近侍して新たな人生をきりひらく、かに見えた。ところが、慶長十七年(1612)三月、家康は家中のうちキリスト教の信奉者たちを弾圧。この中に、小笠原権之丞も含まれていた。

◆小笠原権之丞がいつ、どこでキリスト教に傾倒したのか、それははっきりとはわからない。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』は、「公方が近時断乎として追放した十四人の武家の中の筆頭は、ディエゴ小笠原で、彼は齢二十四歳、僅々六年前に洗礼を受けたものであった。彼は六千石の禄を食んでゐた。(中略)彼は夫人と二歳になる女の子を連れて出発、亡命した」と記している。

◆『徳川実記』によれば、小笠原家は改易。権之丞は棄教したために死一等を減じられて追放となったという。しかし、そう簡単にキリスト教をすてられたものだろうか。前述のパジェスの記録には棄教したとは書かれていない。のちに大坂城に籠るあたりも反抗心旺盛である。おそらく権之丞は棄教したふりをしたのだろう。

◆家康は下賎の女が好みだった。家格を鼻にかける正妻・築山殿で懲りたのかもしれない。しかしながら、それらの女に産ませた結城秀康、松平忠輝などは政権の中枢からは遠ざけていたものの、相応の領地を与えている。しかし、小笠原権之丞は一介の家臣扱いで万石の大名にもなっていない。これは妙だ。考えられる理由としては、やはり権之丞のキリスト教信奉問題だ。

◆大坂城にはキリシタン部隊が存在し、確かとは言えないが、豊臣秀頼が勝利したあかつきには布教が認める考えであったといわれる。大坂方としてはその結束力をあてこんでの餌に過ぎなかったのかもしれないが、信者たちは続々と大坂城へ入った。貿易とキリスト教を切り離したい徳川氏の天下では布教が許されないというのがはっきりしていたからだ。さらに言えば、徳川に協力的だったイギリス・オランダと対立しているポルトガル、イスパニアなどのカトリック系の人々である。家康は大坂攻め直前に、高山右近をはじめとするキリシタンの中心人物たちをルソンへ放逐していた。彼等の大坂入城を阻止するためであろう。

◆権之丞は同じく改易された西郷惣右衛門という者とともに豊臣方につき、三十騎を与えられた。おそらく戦闘においても相応の働きをしたと思われるが、詳細は伝えられていない。夏の陣において天王寺表で戦死した。敵方からは権之丞を知る者が諌めて逃げるように伝えたが、彼は「わしは大御所の子と噂のある男だ。そのわしが手柄もたてず、逃げ出したとあっては、たとえ徳川家に帰参かなっても笑い者になるばかりだ。この上は潔く討死するまで」と呼ばわり、敵陣に駈け入ったのが最期の姿とされている。

◆彼は果たして抹殺された貴公子だったのか、それとも後世の好事家たちの作り話だったのか。



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