030「星をつかみそこねた男」



西尾宗次(?―1635)


久作、仁左衛門。遠江牢人西尾氏の養子となり、関東において結城秀康に仕え、その鉄砲足軽となった。関ヶ原合戦後、結城家(越前松平家)が北庄に移封されると、これに従った。元和元年(1615)、二代目・松平忠直に従って大坂夏の陣に従軍し、十三の首級をあげた。中でも城方の真田幸村の首級をあげたことで家康の謁見を許されたという。戦後、千八百石を拝領した。


◆最近、どうも勝ち目のない裁判ばかり引き受けさせられる弁護士のような心境である。あるいは、どう見てもイマイチの男を知り合いの女性にすすめる仲人のような、と言い換えてもいい。救いようのない男の、いいところを一生懸命探してやらねばならない。

◆NHKの『真田太平記』では西尾宗次(久左)を粟津號が演じていた。ずんぐりむっくりの三枚目にどうして幸村がやられるんだよお、と思ったものだが(笑)。原作者の池波正太郎はそのへんを心得ていて、幸村はもう瀕死なのね。西尾を主役にした同じ池波氏の短編では、やはり幸村はすでに死んでいた。

◆大坂夏の陣で真田幸村の首級をあげた男。これは、相撲でいえば金星をあげたようなものなのだ。それも戦国が終ろうとしている土壇場、まさに千秋楽でのことだ。だが、西尾宗次は決して「すごい!」とは思われないのである。判官贔屓というのも多分にあるのだが、名軍師・幸村を討った男として、あまり好意的に扱われていない。

◆彼は越前を発つ前、飯椀の中から歯がころがり出る、という奇怪な出来事に遭っていた。さっそく占わせたところ、「歯は頭につく。だから、図に当る」というめでたいことだという。こうして、西尾は勇躍、越前を出発するのである。

◆歴史小説に登場する幸村戦死のシーンは、たいてい拾い首同様に西尾宗次が首を手に入れるものになっている。中には、あとで獲た首が真田幸村のものであることを知って「五万石だあ!」と見苦しくはしゃぎたてる場面などもある。

◆恩賞を約束したはずの徳川家康の反応も悪い。

◆幸村の首級を持参して面前に出た西尾宗次に、家康は幸村を討ち取った時の戦いぶりについてねちねちと諮問する。西尾宗次は話に少々、「色」をつけて喋りだす。あたかも酒盛りしながら仲間に手柄話でもする調子の西尾の話を、家康が爪を噛みながら聞いている。

西尾「激しく抵抗して、十数合も槍をあわせましたが、ようやくにして突き伏せましてございます」
家康「いつわりを申すなッ。幸村は朝から激しく戦っておった。そのほうが槍をつけた時には、すでに疲労困憊、手向かいもできぬ状態であったに決まっておるわ」

そう言うと、家康はさっさと奥へ引っ込んでしまい、その後、西尾には声がかかることはなかったという。家康に、景気のいい話するのは逆効果なんだよな(笑)。

◆多少なりとも、ましな話になっているものもある。

◆やはり家康の面前で幸村を討ち取った時のことを話せ、と言われて、西尾宗次は平伏したまま何も答えられなかった。そこで家康は「幸村が西尾ごときに易々と討たれるはずがない。おそらく、拾い首同様に手に入れたのであろう」と言ったというのだ。これは『武功雑記』が伝えた話である。細川忠興も国許の家臣に送った書状に「拾い首だったため手柄にもならなかった」と伝えている。「拾い首」は論功行賞の場合でも評価は低いのだ。ともかく英雄真田幸村を討った男をこれでもか、これでもか、と貶さなければ我慢ならないらしい。誰がだ(笑)?

◆褒美がもらえなかったのは、幸村の首がニセものではないか、という疑いがあったからだとする話もある。西尾が討ったのは、幸村の影武者望月宇右衛門であるというのだ。叔父の真田隠岐守も幸村の首だとはっきり断言しない。しかし、当の家康は「幸村の武功にあやかれ」と言って、将士はその首の髪を切り取ったというから、討死は公式に認められたのだろうという。

◆まあ、幸村を討って、その功によって一万石くらいの大名にでもなり、そこそこ安穏に暮らした・・・なんて筋書きだったら許せないけどね(笑)。

◆恩賞は沙汰やみ(T_T)ついでに「うそつき」の汚名まで頂戴してしまった西尾。世間ばかりか後世からも冷たい視線を浴びる羽目に・・・。あげくの果ては、『三国志』の関羽を討った呂蒙のように祟りにあって頓死しちゃったりする。もちろんフィクションだ。しかし、家康の反応も、単に西尾に加増してやるのが惜しくなったとしか思えない。こういう点が非常にケチ!関ケ原の時に伊達政宗に百万石のお墨付きを与えて反古にしたり、というのが常套手段だからね。

◆西尾の主君松平忠直(結城秀康の子)も大坂夏の陣の勲功第一とされながらも、貰った者は「初花」という茶器いっこ。ただでさえ父秀康の不遇を知っている忠直は、今度の奮戦には加増の期待もあったから、もう完全にキレちゃって、ご乱行にふける。このあたりは菊地寛の『忠直卿行状記』を読もう。忠直はのちに流罪、越前六十七万石は半分に減らされてしまうのだ。越前の主従はともに冷たい仕打ちを受けている。

◆だが、福井県に行けば、西尾宗次とその一族がどのような人柄であったかがおぼろげながら、判る。

◆現在、足羽山の中腹にある福井市立郷土歴史博物館には「真田地蔵」というものが展示されている。真田幸村の供養のため、西尾宗次が自家の菩提寺である孝顕寺に建立したもので、北陸特産の笏谷石でつくられている。俗に真田幸村首塚といわれ、西尾家では、この地蔵の下に幸村の鎧袖を埋めたものと伝えられているそうで、代々、供養をおこたらなかった。

◆博物館に展示されている「真田地蔵」の背面には、次のように刻印されている。

元和元寅年
大機院真覚英性大禅定門
三月初七日西尾氏立之

◆不世出の英雄・真田幸村を討った男、西尾仁左衛門宗次もまた、「実」のある武士だったのである。それでこそ、討たれた幸村も浮かばれる、というものではないか。




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