026「お気楽、極楽、無楽流」



上泉義胤(1592―1672)


孫次郎、民部、権右衛門、秀信、義郷、宗重。隠居の後は是入と号す。父は上泉秀胤。剣聖・上泉伊勢守信綱の孫にあたる。陰流はおさめず、父の師匠・長野無楽斎(林崎甚助門流)について居合抜刀術を習得。無楽流上泉派居合および民禰流を流名とする。諸国遍歴の後に柳生利巌の推挙によって尾張徳川家に仕える。没年には正保四年(1647)説もある。


◆男は額にあぶらあせを浮かべていた。腰も浮いており、視線も定まらない。

◆これは当てが外れたかな、と内心思ったのは、審判役の柳生兵庫助利巌。江戸の柳生に対して、実力では勝るといわれた尾張柳生の総帥。藩の剣術指南役である。彼は剣術好きな主君・徳川義直に次々と諸国の達人を推挙した。いわばライバルを増やしているわけだが、かえってそれが柳生利巌の度量のひろさである、として衆の尊敬を集めていた。
しかし、こたびばかりは・・・と柳生利巌は落胆の気持ちを隠せなかった。

◆あぶらあせを浮かべて相手と対峙している男は、上泉義胤。名前から想像できるとおり、「剣聖」と謳われた上泉伊勢守の孫である。道統を継ぐべき父秀胤は後北条氏に仕え、関東において若くして戦死したため、上泉氏の剣技は柳生・宝蔵院・疋田などの弟子筋のほうに隆盛が移った。柳生利巌にしてみれば、師匠筋の上泉氏の凋落は放ってはおけないのであろう。

◆勝負は三番であった。一番は柳生利巌の高弟・高田三之丞がとった。この三之丞は相手との間合いを詰め、「おいたわしや!」という奇声とともに相手を倒す奇癖を持っていた。義胤も「おいたわしや!」と打たれてしまったのである。そのショックのせいか、二度目の立ち会いにおいて、義胤の様子がおかしくなった。

◆ついに上泉義胤は自ら木刀をひいた。立ち会いの相手である高田三之丞も審判役・柳生利巌も訝しい表情で彼を見た。どうやら敵わぬとみて降参するのか・・・?

柳生「いかがいたされたかな?」
義胤「は・・・おそれながら、暫時お待ちいただきたい」

◆柳生利巌が相手の了解を求めるように顔を向け、やがて義胤に中座の許可を与えた。義胤は腰を前につきだすような奇妙な格好でスタコラ道場を後にした。

◆おそらく怖じ気づいて逃げ出すのではなかろうか、という気持ちもなくはなかった。逃げ出すのであれば、それでもよし。剣聖の孫とはいえど、その才能が受け継がれているとはかぎらないのである。もともと義胤の父秀胤が「こいつには陰流を授けるような器量ではない」と断じられ、その道統を継ぐことができなかった不肖の息子なのだ。

◆やがて、上泉義胤が戻ってきた。案に相違してスッキリした表情である。

義胤「失礼つかまつりました。いざ、参ろう」

◆最前とは様子がまるで違うので、柳生利巌も瞠目した。恐ろしいやつだ、と思った。

◆結果はみごと義胤の勝ち。三番も義胤が取り、結果は義胤の二勝一敗。柳生利巌も満足気であったが、それにしても腑に落ちないのは、立ち会い中、一時姿を消す前と後とで、義胤に明らかな変化が見えたことである。利胤はそこで思い出した。義胤は父から陰流を受け継ぐことはできなかったが、上泉流兵法を教わったということを。上泉流兵法に照らして、相手を倒すための工夫をしてきたのに違いない。利巌は義胤を呼んで尋ねた。

柳生「見事であった。貴公、いずこでいかなる工夫をしてまいったかな?」
義胤「工夫? ああ、さきほどトイレにいって参りました。格別太いやつが出ました」

◆大変失礼いたしました(筆者)



*補足調査
「道統を継ぐべき父秀胤は後北条氏に仕え、関東において若くして戦死したため、」というのは間違いだと思います。北条家に仕え、討死した秀胤は、第2次国府台合戦の際の傷がもとで死去しているはずです。これは、1564年のことです。義胤誕生年1592年以前のことです。義胤父の秀胤は信綱養子で長男の秀胤とは別人ということだと思います。(X-file特別調査官:ごえもん)


*補足調査
上記、調査レポートをもとに再調査を試みました。
信綱―┬─伊勢守秀綱(A)――主水泰綱(米沢藩)
   │
   ├─主水憲元(会津一刀流)
   │
   └─常陸介秀胤(B)――権右衛門義胤(尾張藩)
以上が『国史大事典』(吉川弘文館)に拠った系図です。秀胤(A)は実子で秀胤(B)は養子です。当ファイルの主人公義胤は秀胤(B)の子であり、ごえもん調査官の指摘どおり「北条氏に仕え云々」の義胤(A)の子ではないことをおことわりしておきます。(X-file書記:三楽堂)

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