022「名馬百段の栄光と生涯」



森長可(1558―1584)


長一、勝蔵、武蔵守。森可成の二男。室は池田恒興の女。織田信長に仕え、父の遺領を継いで美濃金山城主となる。天正二年(1574)、伊勢長島一揆の制圧に参加。天正十年、武田攻めに従軍し、高遠城を攻略し、川中島四郡を加増される。勇猛な戦い振りから「鬼武蔵」「夜叉武蔵」と評された。信長から「古の武蔵坊弁慶のようなやつだ」と言われたことで、武蔵と称するようになったという逸話も残っている。信長没後、織田信孝ついで豊臣秀吉に属し、天正十二年、長久手の合戦で舅池田勝入斎とともに戦死。自身が亡父のために建立した美濃金山の可成寺に葬られる。法名鉄圍秀公雄心院。


★この項は、「鬼武蔵」こと森長可、というよりも、彼の愛馬「百段」が主題である。

★「段」というのは単位である。一段は約11m、百段で1100mになる。テレビや映画などでは、合戦などの場で馬がのべつまくなし全力疾走しているシーンが登場する。が、現在の競走馬サラブレッドでも全力疾走できる距離は200m〜300mといわれている。どのタイミングで全力疾走させるかということも騎手の能力の内、ということだろう。

★戦国時代の馬は当然ながら、体高160cm以上の現在のサラブレッドとは違う。ポニー並みである。彼らが全力疾走できる距離もサラブレッドとはおよびもつかないものだったに違いない。実際、NHK(歴史への招待)が行った実験データがある。中世の軍馬に近い体高130cmの馬で速度を計測したところ、分速150mしか出せず、しかも10分後には走っているのがやっと、という状態になったという。

★猛将森長可の愛馬「百段」の名が意味するところは、一回の全力疾走で百段(約1100m)もいくことが可能なほどの脚力のある馬、というところだろう。まさに『三国志演演義』の中に登場する関羽の乗馬「赤兎馬」の和製版といったところか。

★「兼山記」には、「海津黒とて五寸にあまる馬」にまたがっていた、とある。馬の丈は四尺が基準で、これを定尺としている。これ以上は一寸(いつき)、二寸(ふたき)とかぞえ、九寸以上は「丈に余る」と言われた。この「丈に余る」馬が百段かどうかはわからない。名前からして、一時、長可が所領となっていた川中島一帯の海津城を想像させる。黒馬の名前には、産地である地名を冠することが多いからである。たとえば、吉川元春の名馬「近江黒」、武田家から織田信忠に贈られた「会津黒」、といった具合である。

★森長可の馬といえば、天下に聞こえた名馬で、以前、「あれが森武蔵の馬ですよ」という言葉に気をとられたところを斬られたまぬけな武田信廉の話(fileNo.007)を紹介したが、この馬こそが「百段」である。

★長可は武田攻めでは川中島四郡を戦功として得ている。しかし、本能寺の変後、この所領を失い、本領美濃兼山へ戻っていた。天正十二年(1584)、小牧長久手の合戦で徳川家康に敗れ、舅池田恒興とともに戦死するのである。大坂城天守閣所蔵の「小牧長久手合戦図屏風」には、鉄砲玉で眉間を撃ち貫かれて落馬する長可の姿が描かれている。ここでは百段は黒馬として描かれている。

★百段は傷を受けながらも、徳川勢を蹴散らし、無事に秀吉の本隊がいるほうへ戻って来たという。

★「兼山記」の馬は、「海津黒」という黒馬。「小牧長久手合戦図屏風」中の馬も黒い。この二頭は同じ馬なのであろうか・・・。

★百段の引退は小牧長久手合戦の三十年後、というから常識では考えられない。すでに老馬であったはずだが、長可の後嗣・美作守忠政(美作津山城主。実は長可の弟)を乗せて大坂冬・夏の陣の戦場に出ている。あるいは二代目・百段であったかもしれないが、まあ、軍記物が記すところだから、馬齢がどうのこうの、という無粋な話はやめておこう。森忠政はこの合戦で首級206を獲る大活躍をみせた。名馬百段の引退の花道を飾ったわけである。

★戦後、百段は森家の所領がある美作国において老衰で死んだ。忠政は祠を築いて愛馬の死を悼んだと伝えられている。




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