020「召しませ、ジャイアント・ピーチ!」



毛利輝元(1553―1625)


隆元の嫡男。幸鶴丸、少輔太郎、右衛門督、右馬頭、従三位権中納言、参議、幻庵宗瑞。永禄六年(1563)、父の急死により家督を相続。祖父元就に後見され、のちには叔父吉川元春・小早川隆景の補翼を受けた。本能寺の変後、豊臣政権が成立するとこれに臣従。四国攻め・九州攻め・朝鮮出兵に活躍した。慶長二年(1597)、五大老に列す。慶長五年、関が原の合戦で西軍の盟主となったため、防長二州に減封された。


★毛利輝元。作家・海音寺潮五郎をして「あほう」と言わしめた戦国大名。肖像画をご存知の方も多いだろう。わたしは赤坂のサントリー美術館に出品されたものを見たことがある。下絵なども展示されて、何枚か描いたあげく、「これが似ている」というコメントがつけられた構図が、有名な「毛利輝元肖像画」になったようだ。

★これを見るかぎり、押し出しの良さならば戦国大名肖像画中、五指のうちには入るのではなかろうか。とにかく、いかにも「殿様」という感じである。それでいて、「覇気」も感じられる。まるで清濁あわせ呑む度量をもった中国の皇帝を連想させる、とまで言ったら褒め過ぎだろうか。少なくとも豊臣五大老の肖像をならべてみたかぎりでは、一番だ。

★しかし、実情は五大老中、もっともなさけないやつだ。叔父の小早川隆景からスパルタ教育をほどこされて臆病者になってしまったのか!?(ホンジャマカ恵では、逆に森田剛にのされてしまう気がするが・・・ひとりごと)

★豊臣秀吉は、珍しいものやおおきいものが大好きだった。土佐の長宗我部元親がクジラをまるごと一頭プレゼントした時には大喜び。輝元も大きなものを贈りたい、と考えた。おりしも冬だというのに領内ででっかい桃が見つかった。どれくらい大きかったかについては、史書にも記されていないのでわからないが、まあ、クジラにはかなわなかっただろう。しかし、現代人の我々からしても、桃にかぎらず「おばけかぼちゃ」とか「おばけスイカ」とか、いかにも大味でまずそう、と思うではないか。おまけに真冬に桃なんて!

★ところが、輝元はわれわれ庶民の感覚とは相当ズレがある。「でかくてうまそうだ、今の季節に珍しいし、太閤殿下もさぞお喜びになるだろう」と、この巨大な桃を太閤秀吉への献上品にと考え、大坂城に送った。

★貰う側とて、ただ指をくわえてみているわけではない。五奉行のひとり石田三成は秀吉への献上品にも目を光らせており、送り主の名や献上するにはふさわしくないものなどのチェックは怠りない。こういうことは、三成、いかにも得意そうである。彼は輝元から贈られてきた巨大な桃を前にして、考え込んだ。(桃太郎でも出てくるかと思ったのであろうか・・・)

★『論語』にはこうある。

「時ならざるは、食らわず」

すなわち、「季節はずれのものは食べるな」ということである。(『論語』はぜひ読みたまえ。ペルージャの中田も愛読していたというぞ。)つまり、輝元は決してこの巨大な桃を鑑賞用のつもりで贈ったわけではないのである。

★結局、三成は巨大な桃を輝元に返すよう命じた。この桃がどうなったかについては、記録がない。輝元が食べたのであろうか。

★北条氏政の回(汁を二度かけてどこが悪い!?)もそうだったが、大体、食べ物関連のエピソードの主役になるのは、「ばか殿」が多い(わたし自身は氏政をばかとは思っていない)のだ。食事は人間にとってはあたりまえのことだから、それがきちんとできない人物は凡下だということだろうと思う。

★贈り物を先方が受け取ってくれない、ということは「恥辱」でもある。遠慮とかそういうことではない。「ふさわしくない」ということで返却されてきたのだ。現代人ならば「何をッ」と思うだろう。しかし、鷹揚な輝元のことだから「ああ、そうか」と言ったきりだったのではないだろうか。

★でも、まあ、近頃はこの輝元ぼっちゃんのことは少し見直してもいる。たしかに関ヶ原前後の煮え切らない態度はいただけないが、その後の長州藩再生は見事。しかも毛利家を見限って去った武士たちへのアフターケアも欠かさない。結局、出てった人たちは、輝元に呼び返されて、萩に戻ったのが多いのです。この人は所詮、乱世には不向きな人だったのかもしれないね。

★みんな、関ヶ原前後のことばかりをあげつらって、あんまり輝元クンをいぢめないように。

★それにしても、輝元の隠居後の道号は「幻庵宗瑞」。偶然かもしれないけど、北条早雲とその末子幻庵の号をあわせている。なぜなんだろう?(モルツ・モード)



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