016「シリーズ家康影武者説・築山殿始末」



築山殿(1542?―1579)


瀬名姫、駿河御前。関口親永の女。徳川家康の正室。弘治三年(1557)、人質として今川氏のもとにあった家康と婚姻。嫡男信康と亀姫をもうける。永禄三年(1560)、桶狭間の戦後、岡崎に拠って自立した家康とは別居状態となる。永禄五年、岡崎の家康にひきとられ駿府より移る。元亀元年(1570)、家康が浜松に移転した後も信康とともに岡崎城に居留。織田信長より武田方内通の嫌疑を受け、信康は謹慎。天正七年(1579)八月二十九日、自ら弁明のため岡崎から浜松へ向かう途中、遠江富塚で殺害された。墓所は浜松西来院。法号清地院殿潭月秋天大禅定法尼。

◆戦国きっての「悪女」の登場だ。おそらく、淀殿と並ぶ双璧であろう。ところが、わたしはふたりともに「本当に悪女だったんかいな」と懐疑的である。NHK大河ドラマ「徳川家康」では池上季美子が高ビーな築山御前を演じていた(いやじゃあ、と叫びながら殺されるシーンが好きだ)が、家臣と寝ちゃったりするところが何となく嘘っぽいのだ。もちろん、ストーリーとしては面白いのだけれども「悪女イコール淫奔」という図式がどうしてもちらついてくる。

◆築山殿は今川義元の姪である。父関口親永(氏広・義広とも)の室が義元の妹なのだ。血筋は申し分ない。少なくとも奥三河の土豪松平氏とはくらべものにならない。血筋を誇る彼女が軽蔑している夫の家来なんかと寝るだろうか・・・。どうせ寝るなら、信康の命乞いのため、恥をしのんで信長に抱かれるとか、甲斐へ出奔して若い武田勝頼を誑す(両人とも家康よりは毛並みがいい)とかしてもらいたいものだ。

◆築山殿が寝た相手は、減敬というあやしげな医者ということになっている。相手のテクニックに落ちた、というのか。医者というのは婦人の寝所にまで入っていけるしねえ。診察と称して怪しげな挙措に及ぼうとしたり。減敬というのは唐人だったそうだから、中国四千年の技巧に溺れてしまったってことかな。

◆もちろん、浜松の家康とは離れ離れに暮らしている築山殿の好色を標榜した資料はある。息子(信康)を武田へ同心させるかわりに、「わたしには男をひとり世話して欲しい」というもので、減敬なる医者に仲介させたという。これに対して、武田勝頼が「小山田兵衛がやもめでおりますので、彼をお世話しましょう」ときたもんだ。

◆小山田兵衛なる侍が実際いたかどうかは、別として、勝頼は築山御前に甲斐へ来るようにすすめている。それで、大喜びした築山殿がいそいそと甲斐へ行く仕度をはじめたというんだから、フツウに考えれば、「作り話」っぽい。

◆結局、日頃孤閨に絶えかねてヒステリーをおこしている築山殿が珍しくルンルン気分でいるのを、怪しいと見た侍女の琴が文箱の中にあった武田勝頼の密書を見つけてびっくり仰天。この琴の妹が信康夫人・徳姫に仕えていたので、妹に知らせた。これで、内通が徳姫の耳に入ってしまった。

◆この徳姫の父信長に宛てた築山殿・信康母子の行状を知らせる書状も考えてみればおかしなものばかりだ。特に信康は侍女の口を裂いただの、狩りの獲物がないのを行き会った僧侶のせいにしてこれを射ただの、ひどい言われようだ。たしかに信康はちょっと乱暴者だったかもしれないが、筆の走り過ぎ、というものだ。

◆織田家の命令で築山殿は殺されることになった。討手は野中三五郎重政であったという。もし、家康が巷説のとおり、世良田二郎三郎元信であったのならば、築山殿は松平家の惣領を殺して成り代わった男を当然、許せなかっただろう。世良田二郎三郎が浜松に居城を移したのも、築山殿を戴く松平譜代(あるいは今川派)の刺客を避けるためとも思える。しかし、それに関する反証もある。

◆好色なイメージのある築山殿の別の面を示す資料だ。

「郭公の一声に明け易き夏の短夜だに、秋の八千代のあかし、わび片敷袖のうたたねに夢見る程もまどろまねば、床は涙の海となり唐船もよせつべし」

築山殿が夫の死後、とってかわった世良田二郎三郎にこのような書状を送りつけるだろうか。もっとも、「これは二郎三郎に媚を売っているんだ」という意見もあるかもしれない。わたしはそうは思わない。それだったら、自分に尽してくれる家臣を寝所へ誘い込むほうがまだ自然だ。
もっとも、この資料だって築山殿が書いたという確証はない。家康に宛てたものらしいが、一緒に暮らしたい、という恨みも少しこもった内容だ。なにしろ、流す涙が海となってしまい、そこに唐船が浮かんじゃうほどだ、というのだから凄まじい。これを見た家康(あるいは二郎三郎?)は・・・思わずひいちゃったんじゃないだろうか・・・?
おっと、築山殿の弁護をしようと思ったのだが、これではフォローになっておらぬな(笑)。



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