015「シリーズ家康影武者説・竹千代誘拐」



松平信康(1559―1579)


竹千代、岡崎三郎。徳川家康の嫡男。母は関口氏(築山殿)。桶狭間戦後、人質交換により駿府から岡崎に入る。永禄十年(1567)、織田信長の長女五徳(徳姫)と結婚。この時、「信」の一字を与えられる。家康が浜松に居城を移した後、岡崎城主となる。天正七年(1579)九月十七日、武田氏への内応を疑われ、信長の指図によって遠江国二俣城で自害。墓所は、三河国大樹寺。

◆唐突だが、竹千代の値段はいくらか。村岡素一郎の『史疑徳川家康事蹟』のネタ本となった林羅山の『駿府政事録』には「銭五百貫」「銭五貫」の二種類の記述があるという。

◆この元ネタが林羅山の『駿府政事録』だ。晩年の家康が「昔、又右衛門というやつに売られて、駿府にいた。その時はえらい苦労をしたものじゃ」と口走ってしまい、林羅山たちは驚いて、「それはいつのことでございますか?」と聞き返している。これは、正史でも知られているように、岡崎城から今川氏のもとへ人質に送られていく竹千代が、戸田某によって織田方に「銭五百貫」で売り渡されたことに照応している。ついでにつけ加えておくと、家康を「銭五百貫」で売り飛ばした戸田のほうは、その後、報復されることもなく、譜代として遇されている。しかし、家康の言によれば、「売り飛ばされて」行った先は尾張ではなく駿府だった、ということになる。

◆『駿府政事録』では「銭五百貫」となっているのだが、いずれも江戸後期の写本。『史疑』のほうは「銭五貫」となっている。村岡素一郎の誤記か、あるいは幻の『駿府政事録』別系統の写本(あるいは原本)が存在するのか?。もし、「銭五貫」と記された『駿府政事録』がどこかから出て来でもすれば、家康影武者説は俄然、信憑性を帯びることになるのだ。もちろん、家康が「売られて行った先が尾張ではなく、駿府だった」という事実は動かない。

◆その幻の『駿府政事録』が見つからない以上、現時点では無理矢理、結論づけてしまう以外にない。次郎三郎が又右衛門によって願人坊主酒井常光坊に売られた値段が「銭五貫」、松平家の御曹司竹千代(のちの岡崎信康)が次郎三郎によって誘拐され、織田家に渡りをつけた代金が「銭五百貫」というのはどうだろうか。「銭五百貫」と明記せざるを得なかったのは、相手方(織田方)に明細書(証文のようなもの)が残っていたからではなかろうか。まあ、真相はどうであれ、一城の殿様の世継ぎが「銭五貫」というのは安過ぎはしないだろうか?

◆家康が影武者だったという伝法でいくと、大樹寺というのは、正統松平氏の菩提寺ということになる。すなわち、守山崩れで殺された松平清康(『史疑』では一応、松平元康に相当するか)、そして武田内通の嫌疑で自害させられた岡崎三郎信康もここに眠っているからだ。同寺には「大樹寺文書」という松平氏研究の基礎史料ともなる文書が伝わっていて、もちろん、世良田次郎三郎は「おのれの血統」を証拠立てる重要な文書だから、のちの江戸幕府も大切に保護した。

◆のちに幕府が新田系図を手に入れるため上野世良田郷の調査をしたのも同断だ。

◆『史疑』の説くストーリーを参考にこれまでの経過を大まかに辿ってみよう。→をふった事項は、正史や史書に記されたなかでこれに相当すると思われる事件だ。

◆家康影武者説が俄然、信憑性をもってわれわれに迫ってくるのは、その後の親子関係・・・すなわち、謎とされた正室築山殿、嫡男信康の成敗、という血なまぐさい事件によってである。

◆当主がいなくなった松平家に「女に手をつけて入り婿した」徳阿弥がやがて世良田次郎三郎元信と名乗る。つまり、守山で殺された清康(実は松平元康)の未亡人築山御前と、次郎三郎の手に落ちた竹千代(のちの岡崎三郎信康)は、次郎三郎元信にとっては血縁関係のないアカの他人だということになる。

◆よく言われるのが、信長が自分の息子信忠よりも、信康のほうが出来がいいので、将来を危惧して、(忠誠心を試させる意味でも)家康に殺させた、というもの。このきっかけは、信長の娘で信康の妻・徳姫が父に宛てた書状だとか。もっとも徳姫は信康のことが別に嫌いではなくて、姑の築山殿が煙たかったらしい・・・というのは、よくドラマで描かれるところだ。案外、わが夫信康の素晴らしさを父に伝えていたところ、信長のほうがこれを曲解してしまったというのが真相ではなかろうか。

◆家康にしてみれば、織田家につけ入られた息子を斬らねばならなくなり、断腸の思いであったろうが、もし、『史疑』に書かれたようにこの頃の家康が願人坊主・世良田次郎三郎元信であったとしたら、血もつながっていない子を斬るのに何のためらいもなかったろう。

◆これに先立ち、酒井忠次が安土城へ伺候しているのであるが、この時、信長に対して信康の弁明を行った形跡もない。逆に信長に難詰された、とあるが、この酒井も世良田次郎三郎の息がかかった者であった。すなわち、大久保彦左衛門の『三河物語』の冒頭には、三河へ流れて来た徳阿弥が最初に酒井郷で女を孕ませ、ついで、松平郷で入り婿したことが記されている。ちなみに酒井氏は大老職を約束された「特権」を持つようになる。

◆最後に『史疑』の松平信康生存伝説について述べておこう。引き合いに出されているのは、江戸期の随筆『塩尻』に収録されている記事だ。寛永十年の頃、西国筋の大名飛脚が遠州を通った折、七十余歳の人品卑しからぬ人物が声をかけた。

老人「これ、今は誰の天下かの?」
飛脚「おまえさん、今は三代将軍家光さまの御治世だよ」
老人「ふうむ。土井甚三郎は元気かのう?」

飛脚は「土井甚三郎」なる人物を知らなかったので、そのまま走り去ったが、実はこれ、当時の執政土井大炊頭利勝のことであった。
この老人は天野三郎康景であろう、という噂がやがてひろまった。しかし、『史疑』は、土井利勝を呼び捨てにできるこの人物こそ、岡崎三郎信康であろう、と説いている・・・・。


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