010「妻の部屋に爆薬をしかけた男」



細川忠興(1563―1645)


熊千代、与一郎、従五位下、従四位下、侍従、越中守、左少将、従三位、参議。三斎と号す。細川藤孝(幽斎)の嫡男。母は沼田氏(麝香)。室は明智光秀の女(たま、秀林院)。はじめ長岡姓を称し、織田信忠の偏諱をうけて長岡忠興と名乗る。本能寺の変後、舅明智光秀の誘いを断り、羽柴秀吉の傘下に入る。以後、九州、小田原、朝鮮などを転戦するが、豊臣政権下では不遇であった。秀吉の逆鱗にふれ堺へ護送される茶の師千利休を淀の船着場で見送るなど反骨精神も旺盛であった。関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、戦後、豊前小倉三十九万九千石を領す。公卿社会にも顔がきき、朝廷幕府間の周旋などに活躍。工芸に巧みなほか茶人、歌人としても著名で、利休七哲のひとりに数えられる。法名松向寺殿三斎宗立大居士。墓所は熊本県泰勝寺。

◆手紙好きな大名には毛利元就、伊達政宗がいるが、細川忠興も五指には入る手紙魔である。あまりの手紙の多さに息子の忠利のほうが閉口しているくらいだ。いただいた分だけ返事を書かなければならないからである。パソコン通信を楽しんでいる方にはたまにアクセスすると、未読メッセージの山とレスづけに悩まされたおぼえがあるだろう。

◆手紙好きの共通点のひとつに、自筆書状が多いということがあげられる。自筆ということは親しい者にあてた私信が多いということにもつながる。それらには書き手の個性が浮彫りにされており、歴史上の人物をきわめて身近に感じさせてくれる重要な史料であるといえよう。この三大名の書状がわたしは特に好きである。元就、政宗、忠興の三人はかなり「こまかい」男だ。この点も共通している。彼らが現代に生きていれば、さぞやパソコン通信にはまったのではなかろうか。
番外編・パソコン通信が好き(そう)な大名ベスト5

1.毛利元就(くどくどしい長文メールばかりで周囲大迷惑。おまけに返事がないと怒る)
2.伊達政宗(筆まめな上、お茶目な内容で退屈しないが、髪型まで注意される)
3.豊臣秀吉(自分以外の人間にキスさせるなよ、と貰ったら赤面するような内容多し)
4.足利義昭(オフラインミーティング多し。恐怖のメーリングリスト大量送付サーバーもダウン!?)
5.徳川家康(内容は「特典つきダイレクトメール」なのでお友達気分は生まれない)

5人とも返事は確実だ。さあ、あなたならどなたを文通相手に選びますか?

◆わたしがはじめて目にした忠興の書状は、娘万姫に宛てたかな文字のものであった。忠興の娘万姫は京都の烏丸家に嫁いでいた。この万姫はほとんどの本ではガラシャ夫人の腹であるとしているが、これは誤りである。母親がガラシャと同じ明智氏であるため紛らわしいのだ。ついでに述べておくと、細川元首相はガラシャの血はひいていない。ガラシャの血筋は評論家の細川隆元氏のほうである。まあ、どうでもいいことだが。忠興にとって万姫は京都における重要な情報源であった。この娘に対して、忠興は「頭を剃ったところ、鏡に映った姿は幽斎(忠興父、藤孝)そっくりだ。来春、上洛した時に見せてやるよ」などと書き送っている。茶目っ気たっぷりである。

◆NHKのドラマ「巌流島」では忠興(夏八木勲)が手ぬぐいを両眼におしあてているシーンが出てきて、なかなかこまかいな、と感心したおぼえがある。晩年、忠興が目を患っていたのは事実である。当時の眼薬は、Vロートや新スマイルのようなものではもちろんない。忠興が用いていたのは、赤い塗り薬で、ちょうど歌舞伎のくまどりのようだった。そのため、お目見えの際、幼い将軍(家光か)が怖がるのではないか、とも心配するむきもあったという。

◆さて、細川家にはいくつかのタブーがあった。ひとつは忠興の実父幽斎藤孝が足利将軍家の落胤であるという説。そして、忠興の妻で謀反人明智光秀の娘「たま」、すなわちガラシャである。このガラシャは美人系の美濃明智氏の出だけあって、『日本西教史』に「天性の国色、容貌の美麗比倫なく、精神活発、頴敏、果決、心情高尚にして才智卓越せり」といわれるほどで。その美貌はおそらく信長の妹お市の方と双璧、といえるのではないだろうか。

◆細川忠興は小説などにおいて魅力的に書かれることは少ない。山田風太郎「魔界転生」では冥界から甦ったガラシャに惑わされたり、とくにガラシャ夫人が出てくると、狭量で神経質な男、という描かれ方をされるようだ。そんな中で特異なエピソードは、愛妻ガラシャの部屋に火薬を仕込んでいた、という記録だ。当時、豊臣秀吉が諸大名の妻女を狙った「女房狩り」に対抗したもので、秘蔵の妻を汚されるくらいならば、秀吉もろとも爆殺してやろうという気であったに違いない。冷徹な精神構造をしていながら、こういうもの狂いを発するところは、織田信長の好むところでもあった。
靡くなよわがひめ垣の女郎花男山より風は吹くとも
なびくまじわがませ垣のおみなえし男山より風は吹くとも
異説はあるが、この二首の和歌は、朝鮮に出陣中の忠興が、秀吉の誘惑に負けるなよ、と妻に送ったものとガラシャの返歌であるといわれている。

◆忠興は、すでに紹介した蒲生氏郷とともに「ミニ信長」ともいえるが、事実、彼は初陣の働きを信長に激賞されており、この時の感状が数少ない信長直筆書状として残っている。信長の美意識を受け継いだ貴公子忠興にとっては、成り上がり者の秀吉など心から尊敬などできなかったのではないだろうか。しかし、秀吉がガラシャの寝所に忍び込み、爆死していたら、面白いことになったかも・・・?






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