005「鬼の小十郎はイイ男!?」



片倉重綱(1585―1659)


小十郎、左門、重長。伊達政宗の懐刀・片倉小十郎景綱の嫡男。室は真田幸村の女。慶長五年(1600)、白石の合戦に出陣。両度の大坂の陣で功をあげる。特に元和元年(1615)、夏の陣においては、道明寺口の戦いで後藤基次、薄田兼相を討ち、「鬼の小十郎」と世評される。慶安四年(1651)、一家に列した。片倉氏の居城白石は一国一城令ののちも残る。万治二年(1659)、三月二十五日没。法名一法元理真性院。墓所は白石傑山寺。

◆代々、同じ名前を受け継ぐ、ってのは何かいいねえ。今はわけのわからない名前を親のエゴでつけてる例が多いから。なんせ幕末まで「かたくらこじゅうろう」だからね。一字でもいいな。「通字」ってやつね。織田家や武田家の「信」、毛利家の「元」、北条家の「氏」、長宗我部家の「親」などなど。しかし、男はけっこう名付けやすいけど、女性は困るな。三郎の子だったら、三子か。あとが続かんわな。

◆この小十郎は、あやうく「間引かれる」ところだった。当時、伊達政宗は正室愛姫を迎えていたのだが、あいにくとまだ子がなかった。そのことを気にした景綱が身重の妻に言い聞かせ、腹の中の子どもを生み育てることを断念させようとした。この噂が、主君政宗の耳に入り、説諭して景綱を翻意させた、という。なんだか、政宗のあわれみ深い人格を賛美するような話だが、ともかくも件の赤ん坊のちの左門重綱は「命びろい」をした。けっこう父親の景綱は「非情の人」だったようで、のちに関ケ原合戦の前哨戦で、上杉勢が最上を攻めた折にも、双方共倒れを狙って最上への援軍を出ししぶったという。

◆子の小十郎重綱がはじめて上洛した時はまだティーンエイジャーだったが、その凛々しさにイチコロになってしまった者がいた。これまた十代の小早川秀秋。かくして大坂城中、「おっかけ」と化す。小早川秀秋はタレ目気味のプリティな肖像画が伝わっているが、あの顔で追いかけて来られたら、困ってしまう。初の上洛で金吾秀秋の毒牙(笑)にかかってしまったのだろうか?。いやいや、「鬼」と称された重綱であるから、ひ弱そうな秀秋は金魚のフンよろしくつきまとっていただけだろう。誰からも相手にされない秀秋に、事情を知らない重綱が声でもかけたものか。


◆小十郎重綱を有名にしたのは、大坂の陣だ。自ら斬りあいを演じ、パパ小十郎から大目玉をくわされたエピソードは有名だ。そして、戦後、敵将真田幸村の娘を後妻に!。A級戦犯の娘を娶るには非常に勇気がいるものだ。しかも、相手は小十郎重綱が大坂の役で手痛い目にあわされた男の娘だ。この経緯は諸説あるが、どうやら幸村の義弟滝川三九郎が介在し、片倉家へ嫁がせたらしい。今も片倉家の領地があった白石には、幸村の娘お梅や真田一族の墓が残っている。「伝・真田幸村の墓」もいわくありげだ。公儀をはばからないところは主君政宗ゆずりといえよう。それゆえに他者の意見に左右されずに、小早川秀秋と「おつきあい」できたのかもしらん。相手は誤解しちゃったようだが。

◆ちなみにNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では高嶋政宏が演じた。おそらく片倉重綱の映像初登場であったろう。息子をまったく誉めないパパ片倉(西郷輝彦)の厳しい父親ぶりもよかった。最後にようやく政宗と成実に「誉めてやれ、よくやったと誉めてやれ」と言われて、ようやく息子を誉めてたものな。よくグレなかったな、小十郎重綱。


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