003「秀頼は密通してできた子か?」



豊臣秀頼(1593―1615)


拾、右大臣。豊臣秀吉の次男。母は側室淀の方(浅井氏)。慶長三年(1598)、秀吉は秀頼の行く末を案じ、五大老五奉行に遺言を託して没す。慶長五年、関ヶ原の合戦の結果、秀頼の直轄領は六十五万石となる。慶長八年、家康の孫千姫と結婚。慶長十年、右大臣となる。慶長十六年、京都とで家康と会見。慶長十九年と元和元年(1615)の両度の大坂の陣によって滅亡。母淀の方とともに自害す。正室千姫との間に子はなく、側室成田氏との間に一男(国松)一女(天秀尼)あり。大坂落城後、国松は捕えられて処刑。その妹は東慶寺の住職となった。

★大体、フロイスにいわせると三百人も女を侍らせていたという秀吉が一向に子をつくれず、ただ一人、淀の方にだけ、しかも二度も産ませた、というのは、ちょっとおかしいのではないか?。まあ、こればかりは確証がないので、秀吉と淀殿と秀頼の遺骸の一部でも見つかって、科学的に検査するような事態にでもならないかぎり、話は動かないだろう。

★以前、大坂城で「豊臣秀頼肖像画」を見た。猿面冠者といわれた秀吉とは全然似ていない。衣冠束帯姿であるが、大柄な体格だ。写楽が描く相撲取りのような大男だ。彼は運動不足で肥っていたともいわれる。なにしろ、外出は子供の頃、侍女に連れられて住吉の浜へ潮干狩りに行った時と、家康との会見で京都へ行った時だけ。あとはあの巨大な大坂城から出たこともなかったらしい。男子は母親に似るともいうから、母の淀殿か祖父浅井長政の血を色濃くひいたものかもしれない。そのことはいい。

★『武功夜話』では、淀の方をめぐる奇妙な風聞について記されているが、内容については触れておらず、「めったなことを口にいたすでない」と前野将右衛門だかがいましめているくだりが出てくる。

★淀殿の密通の相手は、石田三成、大野治長という。遠藤周作『男の一生』では、淀の方の子が秀吉の子ではない、という設定になっている。また、NHK大河ドラマ『独眼流政宗』でも淀殿(樋口可夏子)が石田三成(奥田瑛二)にムネを揉ませるシーンがあったし、同じく『秀吉』では、淀殿(松たか子)と石田三成(真田広之)の妖しい場面があった。ドラマにした場合、大野治長ではいまいち格が低いのだろう。

★もし、淀殿が密通していたとしたら?。可能性としては大野治長のほうをとる。治長も三成もともに近江出身である。しかし、治長の母大蔵卿の局は淀殿の乳母でもある。治長と淀殿は乳兄弟の仲であった。それに三成は法に厳しく、自らを律していた風も感じられる。主君の妻妾と通じる姿はちと想像できない。治長とは「毛並み」が違う。両者とも秀吉の引き立てがあったが、三成はその業績をもって立身出世していった。治長は単に母親の関係で召し抱えられたに過ぎず、奉行として世に出てくるのは、関ヶ原以後のことなのだ。この頃、すでに豊臣家には舵取りはいない。

★秀頼は文禄二年(1593)八月三日に大坂城にて誕生した。前年には秀吉は母大政所を亡くしており、悲嘆のどん底にあった。秀吉がその直後に悲しみを紛らせるべく「子作り」に励み出したというのなら別だが。

★石田三成は大政所の葬儀・後始末、朝鮮との問題などが山積しており、淀殿と乳繰りあってるひまなどなかったと思う。大野治長ならば、当時は高々一万石。ようやく文禄三年になって伏見城の普請を分担する程度だ。仕事に生きがいを見出している三成と、母親の立場以外、頼れるもののない治長では、どちらが誘惑に身を任せてしまうかは自明のことだろう。

★徳川家康も「実は秀頼は大野治長の胤で、太閤の血は受けていない」という秘密をキャッチし、ようやく罪の意識を感じずに心置きなく「大坂攻め」ができるようになった、なんてことはないかな(笑)。ひとり知らない秀頼が、千姫による助命嘆願の回答を待っている最中に、大野治長がうっかり口をすべらし、おのれの出生の秘密を知った秀頼が自棄をおこして自刃してしまった、などというのはメチャクチャすぎるか。
大野治長「ウフさま」
豊臣秀頼「カタカナでは気持ち悪い。漢字表記にせよ」
大野治長「短慮はなりませぬぞ」
豊臣秀頼「余に異見するとは何様のつもりじゃ」
大野治長「ミー、ユア・ファーザー」
豊臣秀頼「ワーッ」(ブスッ)「ギャー」

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