001「蒲生氏郷に天下はとれたか?」



蒲生氏郷(1556―1595)


鶴千代、忠三郎、飛騨守、侍従、左近衛少将、正四位下。洗礼名レオン。近江日野城主蒲生賢秀嫡男。永禄十一年(1568)、信長のもとへ人質に出され、その娘冬姫を娶る。以後、朝倉攻め、浅井攻め、伊賀攻め、信濃攻略に参加。本能寺の変後、父賢秀とともに安土城の信長の家族を日野城に迎え取り、明智光秀に対抗。のち羽柴秀吉に従い、伊勢松ヶ島十二万石。天正十八年(1590)、小田原攻め後、会津黒川四十二万石を与えられ、翌年、九十二万石に加増。文禄四年(1595)、伏見で没。墓所は大徳寺黄梅院。会津興徳寺にも五輪塔と歌碑がある。正室冬姫は氏郷没後、出家。蒲生氏の滅亡を見届け、寛永十八年(1641)、没。京都百万遍知恩寺に墓がある。

★通常、「天下人」というと、誰しも「信長・秀吉・家康」のトリオを頭に思い浮かべると思うが、この3人のほかに果たして「天下をとれた」人物はいたんだろうか?。なんだか「天下人」になるには一定の条件が必要みたいだけど、3人の天下取りのタイミングって微妙に違うんだな。信長の場合は「天下人」と見なさない学者もいるが、五畿内を掌握し内裏・将軍を手中にしていたから「政権をうちたてていた」と見て差し支えないだろう。この信長の場合は新政権樹立という意味合いが強いが、秀吉の場合は「継承」、家康の場合は「クーデター」という印象を受ける。三人の置かれた状況をシャッフルしたら、たとえば、本能寺の変直後、家康のほうがいちはやく三河から反転して光秀を討ってしまったら、秀吉に天下は転がり込んでこなかったかもしれない。

★さて、蒲生氏郷だ。彼が天下をとるとすれば、秀吉政権成立以後だろう。海音寺潮五郎などは氏郷を買っていて、「信長、秀吉、家康を別にすれば、あと天下をとれたのは黒田如水か蒲生氏郷」というような意味のことを言っている。一昔前などはまことに評判がよい。

★信長によく似ているといわれた人物にはふたりあり、ひとりは細川忠興、もうひとりが氏郷。ただ似ているだけでは天下はとれないと思うが、忠興と氏郷は気性や性癖が似ている。物狂いするところや、歌や茶に秀でている面もそうだし、周囲にキリシタンの陰がつきまとっているところもそっくりだ。親友同士でもある。ふたりとも野卑な秀吉を畏れてはいたけど、尊敬はしていなかったろう。

★会津に飛ばされた時などは「百万石貰ったところで、もう天下に志をのべることはない」と嘆き、「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」という歌を詠んだ。後世の想像だけれども、氏郷にも天下をとるという野心はあったのかもしれない。

★氏郷は利巧だ。会津移封後、「もう天下盗りの好機はめぐってこない」と彼自身が言うように、会津では辺境でありすぎ、天下争覇の舞台には遠い。会津にあるかぎり、氏郷に「天下人の芽はない」と断言してしまおう。

★しかし、伊勢か近江で百万石ならば、さぞかし脅威となったろう。

★徳川家康とは積極的な交渉が見られないので、かりに関ヶ原まで生きたとして、さて、どちらについたであろうか?。考えられるのは、西軍に与した場合、三成が盟主として担いだ可能性だ。毛利輝元などよりもはるかに腰がすわっているからだ。西軍の勝利に帰すれば、戦後、相当のポストも得たであろう。だが、それは「即天下人」というわけではない。氏郷がもう数年長生きすれば、おそらく五大老にもなったであろうが、のぼりつめても「天下の副将軍」クラスだったのではあるまいか。ただし氏郷の領地が「会津」ならば、たとえ西軍の盟主となったところで勝利はやはり家康のものであったかもしれない。

★逆に家康に味方した場合。前田家のように人質を出して、百万石以上の大藩として生き残ったケースも考えられるが、これも次代になれば取り潰された公算が大きい。

★氏郷は関ヶ原の直前に急死したが、かれの遺臣たちは石田三成に仕え、徳川家康と戦った。秀吉の恩顧に報じようとしたのか、それとも近江閥の三成に親近感を覚えていたのか。




*補足調査
おもしろい話が「利家夜話」にあります、こんなかんじの話です。
太閤全盛の頃、氏郷が自分の屋敷に友人の前田利長、細川忠興、上田主水正、戸田武蔵守などを招き、雁の料理を振る舞っていた、話が進むうち、天下取りの話題になり、「もし太閤百年ののち、誰が天下を盗る?」
即座に氏郷が、「それそれ、あの男さ」と利長を指さした。
「合点がゆかぬようだが、今の形成で大納言(利家)の他にどれほどの人物がいようか。その上、北陸三州の主で、京までの道すじに邪魔になる者もいない、西国の毛利輝元が上洛しようとすれば、備前に宇喜多秀家が控えているし、関東の徳川家康が上洛しようとすれば、この飛騨が会津におる。即座に食らいついて、箱根を超えさせぬ」
利家びいきの氏郷らしい話ですね、氏郷が天下を盗る盗らないにしても、関ヶ原まで生きていてほしかった武将の一人です。
それと、「...短き春の山風」は、辞世の歌では?
(X-file特別調査官:がもりん)


*補足調査
会津転封は、家康との入札との説もありますね。秀吉は、一に堀秀政・二に蒲生氏郷。家康はこの逆。家康がいうには、相手は伊達政宗で秀政だったらマイナスとマイナスのようだから氏郷の方がいいと。結局、秀政は死んじゃて氏郷は会津に飛ばされてしまう。
(X-file特別調査官:影法師)

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