小田原評定・バックナンバー

過去ログ3501番目から3550番目までの記事です。


(3550) 「忍者武芸帳」  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:05月27日(日)05時18分58秒

5月30日、25時から28時、NHK衛星第2で「忍者武芸帳」が
放映されます。1957年創造社、監督大島渚、原作白土三平、ナレ
ーション小沢昭一。キネマ旬報ベストテン第十位。
父親を殺された結城重太郎の敵討ちと、忍者影丸の暗躍を描いた長編
劇画を、原画をモンタージュする手法で描いた異色作です。


(3549) 三楽堂様  投稿者:THIS TIME  投稿日:05月26日(土)11時43分09秒

三楽堂様、情報ありがとうございます。
関ヶ原合戦後の慶次の上洛について書かれている文書は
米沢にもないみたいです。
古田織部(慶次は茶を習ったらしい)・滝川下総守の史料からも、
一応調べているのですが。


(3548) 情報ありがとうございます  投稿者:向井佐平次  投稿日:05月26日(土)00時08分52秒

>◎CD-ROM「真田三代」発売

ほしくなりました。
郵送してもらうよりも上田に行ったときに真田太平記館で買います。
上田に行きたくてうずうずしているんだけど、なかなか日にちが確保できない。。。


今日は仕事が終わってから外神田の"花ぶさ"へ行ってきました。
池波正太郎氏推薦の店です。
女将さんがものすごくいい人で、4月に初めて行って以来今日で3回目です。
毎月通うつもり。。。
料理(箱膳料理)も旨いし、何よりもお酒がすぅぅ〜と飲めてしまいます。

東京へお越しの際は是非!>上田のOBASAN



>>三楽堂さん、向井佐平次さん
>西部公民館で久保先生の講議が2月にありました。 
>家庭の事情で、ご連絡できなかったのです。すみません。
>講議だけで、今回は現地研修は、ありませんでした。

むむ。。。
2月中は連絡を頂いても身動きが取れませんでした。
って2月下旬に赤倉にスキーに行った帰りに上田に寄ったけど・・・
(^^;)

また、何か情報があったら教えてください。



(3547) 大鋒寺にも是非!  投稿者:向井佐平次  投稿日:05月25日(金)23時57分47秒

>このほかに 松代、川中島付近で、
>真田氏 か 武田氏にゆかりのある場所を教えて頂きたい


松代へ行かれるのでしたら大鋒寺にも是非行ってみてください。
駅から歩くのはちょっと無理かな・・・
山本勘助の墓(千曲川の土手?)のそばです。
長国寺は歩いて行けます。

信之の隠居所がそのままお寺になったのが大鋒寺です。
信之の墓のそばに鈴木右近の墓があります。
これを見た池波正太郎氏は何を思ったのでしょうか??
壮大なドラマの始まり。。。



(3546) THIS TIME様へ  投稿者:山野上 春定  投稿日:05月25日(金)21時01分36秒

コースの順番に着いて良いご指摘、有難うございます。

 ただ、日程が日曜から火曜となりそうなかんじのため。
 上田城が厳しくなっています。(部員の会議では、賛成多数なのですが)
 一応、優先順位が妻女山、松代市街、上田の順のため。
 また、3年前にスタートした、全国現存天守閣の旅の影響で、
火曜日には松本に行かなくてはならないからです。
       (注;現在までに行った城:姫路城、備中松山城、犬山城、彦根城等
                    


(3545) よーぜん様へ  投稿者:山野上 春定  投稿日:05月25日(金)20時49分02秒

 良い情報有難うございます。
 
 本日、用事が多いのでこれで失礼致します


(3544) 上田の情報  投稿者:上田のOBASAN  投稿日:05月25日(金)08時20分28秒

お久しぶりです、おはようございます!
上田の情報です。

<上田市マルチメディア情報センター>
◎CD-ROM「真田三代」発売
上田城を築城した昌幸の父である幸隆から、昌幸を経て、
信幸(信之)、信繁(幸村)兄弟にいたる真田三代の歴史を
写真、図版、古文書などの多数の映像資料によって紹介しています。
Windows95/98/Me/2000対応。
Macなのに買ってしまって^^;、内容は確認できていません。
製作実費として1200円(送料込み)。郵送もしています。
次のHPに詳しく載っていますので、どうぞ。
http://www.umic.ueda.nagano.jp/
<池波正太郎真田太平記記念館>
「中一彌」挿し絵原画展『忍びの旗』4/20〜7/1
休刊日/毎週水曜日と祝日または振り替え休日の翌日。
ここにも、CD-ROM「真田三代」おいてあります。
郵送は、情報センターでのみ取り扱っています。

>三楽堂さん、向井佐平次さん
西部公民館で久保先生の講議が2月にありました。 
家庭の事情で、ご連絡できなかったのです。すみません。
講議だけで、今回は現地研修は、ありませんでした。


(3543) 上杉家の助命活動  投稿者:三楽堂  投稿日:05月25日(金)06時01分45秒

THIS TIMEさん、前田慶次が交渉の役回りであったことはわたしの手許にある史料
には書かれていないようです。
『上杉家御年譜』には結城秀康の進言で「上杉家を減封の上、赦免を」と主張し、こ
れが容れられて、本多正信によって上杉京都留守居の千坂景親に通達されます。
千坂は和平の見込みあり、と国許に知らせ、景勝は本庄繁長を上洛させます。
景勝が「寒い中ごくろうだが(徳川と交渉のため)上洛してほしい」という繁長宛
書状や、繁長がさだめた「留守中法度書」などが『村上市史』に収録されています。

千坂景親、本庄繁長の関与は信じてよいかと思われます。前田慶次については何も
ふれられていませんが、例の「慶次道中日記」を書いたのは、慶長六年の冬です。
慶次もまた上洛していたことは確実です。いつ上洛したのか、くわしい時期はわか
りませんが・・・

榊原康政はたしか関ヶ原前には、上杉家申次だったと思います。本多正信と直江兼
続とは懇意で、兼続は正信の子を養子にしていますし、正信も幕府の決定をいちは
やく知らせてあげたりしています。


(3542) 山野上春定様  投稿者:THIS TIME  投稿日:05月25日(金)00時10分35秒

松代到着がAM9:00位すれば?
松代―真田町―上田と周れば一日でかなり見学できます。
去年、私は逆から周りましたがほとんどの場所(真田氏については)
は見学できましたよ。


(3541) 三楽堂様  投稿者:THIS TIME  投稿日:05月25日(金)00時00分51秒

三楽堂様はご存知の通り、私は前田慶次について調べていて先日、米沢へ行ってまいりました。しかし、日帰りだったので上杉家助命についてまで詳しく調べれず、
帰ってきました。米沢市史には榊原康政・本多正信たちと親密と書いてありますが、徳川方では誰が助命についたのですか?前田慶次が助命に協力した記述は本当にあるのでしょうか?


(3540) 山野上春定さまへ  投稿者:よーぜん  投稿日:05月24日(木)10時17分46秒

山野上さん、合宿の行き先が決まったようですね。
松代、川中島付近で、真田氏および武田氏にゆかりの地、ということですが、
松代行くなら、長国寺をはずしちゃあ、いけませんぜ。上田城近くの真田町
というところに長谷寺という真田氏の菩提寺があるのですが、長国寺は、松代に
移封されてからの真田氏代々の菩提寺で、12代までの歴代藩主ならびに夫人方のお墓があります。

真田氏宝物館は、とても見応えがありました。隣接している文武学校(藩校)や旧真田邸へもお寄りください。

海津城ですが、工事中です。門を復元工事しているようで、平成15年完成、とありました。
堀を隔てた近くまで行ってみることはできます。

武田氏関係では、山本勘助の墓が、八幡原から少し離れたところにあるようです。
(行ったこと、ないですが)
お墓ばかりですみません。


(3539) いらっしゃいませ  投稿者:三楽堂  投稿日:05月24日(木)07時20分01秒

THIS TIMEさん、某サイトではどうも。
上杉家助命に関する史料ということですが、すでに何かご覧になったものはありま
すか? どういった史料(編纂物?書簡?これについて記載がある現在容易に入手
できる図書?)を期待されているのでしょうか?


(3538) 上杉家助命  投稿者:THIS TIME  投稿日:05月24日(木)01時20分07秒

はじめまして。
関ヶ原合戦後の上杉家助命について、教えてください。
詳しい史料はあるのでしょうか?


(3537) 祝・合宿の行き先決定  投稿者:山野上 春定  投稿日:05月23日(水)20時27分48秒

現在、完全決定は、妻女山、上田城
   仮決定は、 海津城、川中島古戦場の長野市立博物館、真田氏の宝物館 他
   候補は、  典廐寺、旧松城象山大本営跡
   
   このほかに 松代、川中島付近で、
       真田氏 か 武田氏にゆかりのある場所を教えて頂きたい

    何分、仕事が多すぎて・・・・
       どうかお願いします


(3536) 湘南!?  投稿者:三楽堂  投稿日:05月22日(火)06時58分08秒

#加賀宰相さん

>でも、史料を見て読もうとしてるだけでも、歴史上の人たちと時間を超えて対話
>してるような気分になって嬉しいのですね(ちょっとかっこつけてます・・・すみません)。

だんだん小説なんかよりも親しみがわいてきませんか。わたしも職場で文献の取
寄せや他大学からの依頼に応じたりしてますが、最近は貪欲な人が少なくなった
ような気がします。あるいは「調べ方」自体がわからなくて、百科辞典の存在を
示唆する始末。そういえば、あの場所とる百科辞典も一家にひと揃えという時代
でもなくなったようですしね。
大変でしょうけど、がんばってください。卒論も。

#秋山如雪さん

行かれましたか、伊達市。伊達成実は、日記が面白いですよ。政宗は必ず足袋を右
足からはいたとか書かれています。仙台亘理の城跡と菩提寺に行ったことがありま
す。伊達市の開拓資料館へもぜひ行ってみたいと考えています。
しかし、「北海道の湘南」というのは驚きです。サーフィンとかさかんなんでしょ
うか?
伊達市へ入植したのは如雪さんが掲示板で書かれているように伊達邦成。お兄さん
の伊達邦直も当別町へ入植しています。


(3535) 伊達市  投稿者:秋山如雪  投稿日:05月21日(月)20時19分43秒

三楽堂さま、私のホームページの掲示板にも書きましたが、先日伊達市に
行ってきたばかりです。そこにある「開拓資料館」というところに伊達政宗
、伊達成実関係の甲冑や鉄砲、さらには移住したときに仙台から持ち込んだ
オランダ製のオルゴールとか、巨大な雛人形とか、さらに小伊万里焼なんか
も展示してありました。
伊達は「北海道の湘南」と呼ばれているくらい、北海道では温暖なところ
なので機会があれば一度行って見てください。


(3534) 買ってしまった他  投稿者:三楽堂  投稿日:05月21日(月)20時07分46秒

■えもの
新編信濃史料叢書版『真田家御事蹟稿』が揃いで出ていたので、ついつい発注して
しまった。手もとの戦国史料叢書版『真田史料集』では割愛しまくっていて、信之
などわずか2ページ! しかし、新編信濃史料叢書版では全編読めます。うれしい!
信之の伝記といったら、ほとんど唯一なのではないでしょうか・・・

■新刊情報です。
『常陸秋田佐竹一族』七宮A三/編、新人物往来社
『島左近のすべて』花ヶ崎盛明/編、新人物往来社
『埼玉の古城址(新装版)』中田正光/著、有峰書店新社
『秩父路の古城址(新装版)』中田正光/著、有峰書店新社
『姫路城―永遠の天守閣』中元孝迪/著、神戸新聞社
『伊達家文書(覆刻)』1、2 東京大学史料編纂所

■つけたしで失礼

#ひでさん&ALL

ネットの掲示板では議論が収斂しないことはままあることです。欲求不満になった
りするかもしれませんが、日常で戦国時代や歴史について語りあう場面は少ないと
思います。そういう対話ができただけで、よしとしませんか?
また、ここでのやりとりは1対1の関係にとどまらず、同時に複数の相手とやりと
りすることも自然な形態です。わたしがAさんと話している話題に、Bさんはいつ
だって割り込んできて構わないのです。


(3533) 御腐心ありがとうございました  投稿者:ひで  投稿日:05月21日(月)12時19分39秒

加賀宰相 様
追記致します。秀吉の農民に対する検地、刀狩りより家康の”百姓は活かさ
ぬ様に殺さぬ様”にという考えの方が惨いと思います。その考えが慶長のお
触れ書きの基になっているのかも。史実は知りませんので悪しからず。

三楽堂 様
まさにウイーン会議、小田原評定になってしまいました。サイトを荒らした
様になって御容赦下さい。
私の書き込みに対するレスに対してレスしたのにそのレスの相手が返事され
ずレスされた方で無い方がレスされて来たため議論の焦点がだんだん別の方
向に行って議論が収斂しないため私も議論するのが嫌になってきました。だ
から最後にこの議論はこれで終わりにしたいと申した次第です。まさに小田
原評定でした。レスされた方にレスを返したつもりだったのですが。議論が
空回りになった観があります。
科学的根拠云々はDNA鑑定などの話が発端になったためです。科学者で無い方
はDNA鑑定を万能と思われるふしがありますがそうではありません。その理由
を話すとこの掲示板の意図から大きくずれるので削除します。興味ある方は
個人的に質問して下さい。答えますから。
歴史の史実が全て科学で証明できるとは私も考えておりません。ただ根拠が
歴史書だけだと希薄とは思います。科学論文も結構make up dataも多いです
から。以前野口英世の話をしましたが彼の真実の姿は多分この掲示板に来ら
れる方の中にはおられないのでは。偉大な偉人像からは全く離れます。
私ははっきり申して歴史のプロではありません。ですので歴史学会が私の様
な意見を持つ研究者が皆無と言われても私は何とも返事ができません。ただ
私も研究者ですしさる複数の医学会の理事もしていますので”学会とは何
か”を掌握しているつもりです。学会の意見の大勢が必ずしも正論ではあり
ません。例えばあの1986年の頃の輸血の安全性に対して日本の医学会の大勢
はエイズに安全としておりました。米国とは反対です。その経験を踏まえて
私は学問とは、特に自然科学では、議論が百科撩乱してもその根拠に再現性
のある科学的データがあることか必須だと認識を新たにした次第です。
とにかくこの掲示板は私の様な素人の意見に対しても寛大に答えて下さるの
で有意義な掲示板だと思っております。
三楽堂様、いろいろ御腐心ありがとうございました。この分野では私は全く
の素人ですから無知蒙昧な記述が多いと思います。それらは真田太平記のセ
リフ、小説、史実本を基にしていますが、それらもどこまでが正確に当時を
今に伝えているか私には判断する術がありません。その理由は貴殿の様な大
学の歴史のプロ研究者ではないからです。私には貴殿と同じ土俵の上で勝負
はできません。それで飯を食べている訳ではありませんから。趣味の範囲に
留まります。
今後とも御批判、御批評を宜しくお願い致します。


(3532) リニューアル  投稿者:秋山如雪  投稿日:05月21日(月)00時40分15秒

実は今日で私のホームページが開設から1周年を迎えました。
そのために壁紙をちょっと変えてみました。
それと、日本史に関係のあるコーナーとしてトップページに
「今月の史跡探訪」というコーナーを設けました。
戦国関係はもちろん、それ以外の時代の歴史的建造物も扱っていく
ことになると思います。
史跡や建物に興味のある方は是非。本当に小さいコーナーですけどね。
ようやく1周年の若い(?)ページですが、これからもがんばりますので
よろしくお願いします。
それでは。


(3531) なんか評定っぽいですねー(^^;  投稿者:三楽堂  投稿日:05月21日(月)00時25分25秒

何だか論点もぼやけはじめたので、わたしがこの件に関する発言をする
のは、これでおしまいにしたいと思います。

>歴史の議論は素人ですのでこれ以上の意見を述べる資格はありません。

まず、わたしも含めて、この場に書き込まれている方で、歴史のプロと
いう方がいるのでしょうか。資格云々を言う必要はないと思います。こ
のサイトは、そのような学閥・派閥・国益がぶつかりあう場所ではない
のですから。
その上で、歴史や史上の人物について個人それぞれ見方や価値観が違う
ことは当然であると思います。ひでさんが秀吉や北政所や家康に対して
今まで持たれていた考えもそのまま持っておられてよろしいのではない
でしょうか。ただし、学者・研究者の中でこういった見方をする方はほ
とんどいないでしょう。どちらかというと、小説家的ですね。失礼、わ
たしの正直な感想です。そのために、科学的根拠を主張する面との整合
性が感じられないのかもしれません。
ただ、最近は医師・篠田達明氏のように歴史上の人物の死因などに医学
的所見をほどこしたりしていますから、他分野からのアプローチは決し
ておかしいことではありません。

ひでさんが「科学者なのでついその根拠はっていう考えがいつも頭から
離れません」とおっしゃったため、当初茶化し気味に後家好き云々を持
ち出していたわたしも、それならば、と頭の中から小説ネタなどを追い
出し、そちらにあわせるつもりで書き込みをしてまいりました。
秀吉が実子に恵まれなかった理由、それは織田信長の子を養子に貰いう
けた政治的理由(あまりこれを指摘する人はいません)と、長期にわた
る外征にあると思っています。ひでさんは「行為している時間がなかっ
た」のは秀吉に子がいない理由にはならないと言われましたが、居城長
浜をあとにして中国地方へ数年間の遠征に出、また、主君の子を養子に
している関係上、行動に制約が生じたのではないかと考えています。

歴史上の人物の好悪、これは本当に個人的感情もあるから、どうも言え
ません。せいぜい、「家康だってこんなに苦労してたのよ」「秀吉だっ
て信長の遺児を追いやったりしてるし」と違う面などを指摘する程度の
ものでしょう。
ただ、科学的根拠を持ち出したひでさんが、随所に『真田太平記』を持
ち出すのは矛盾するような気がしてなりません。
それと、歴史の場合、現在の科学的根拠とか数値データにも限界があり
ます。
それは迷信とか呪術とか、現代のわれわれから見れば馬鹿馬鹿しいと思
われるようなことも当時としてはそれなりに信じられていたことなので
す。信長や家康が子供を産んだことのある女性を好んで側室にしたのも、
それなりに理由があってのことだろうと思います。
さらに、「根拠を示せ」と言われるとすぐに数字的裏づけに頼りがちで
すが、あらかじめ存在する歴史史料などを何らかの数値処理をほどこし
てはじめて有効なものになるのだと思います。ですから不妊データなど
はこの場合、やはり参考にとどまらざるを得ず、これを用いて論文を書
こうなどという研究者はまずいないでしょう。いるとすれば、やはり小
説家かな・・・。

たとえば、わたしは謙信が好きな(というより関心のある)歴史上の人
物のひとりですが、書簡や記録などをたぐっていくと、いい部分やイヤ
な部分もいろいろ見えてきて、その総体である上杉謙信という人間を面
白いと感じています。人が謙信を低く評価しても別に腹もたちません。
むしろ「謙信公」などと呼ぶ人には、こっちが一瞬身をひいてしまう。
最近ではドラマや小説が描く謙信はまったく頭の中から払拭されてしま
っています。ドラマや小説は歴史の材料を誰かの手を加えて調理したも
ので、映像や文学的魅力を語るのであればともかく、史実はどうだった
のかを論議する場合に引用するのはほとんどの場合、無意味と思います。
ただ、こういう手法が多くの方には退屈らしく、よその会議室で質問や
意見に対するわたしの発言にはほとんどレスがつかない状態です(笑)。
そろそろそちらは撤収しようかと思っていますが、誰かがコミックやら
小説などを通して抱いた疑問に対して、史料を用いた回答やコメントの
限界を感じている今日この頃です。誰々が好きだという人たちが集まっ
ていても、結局、「チャンネル」が違うのかなー、と。

『真田太平記』がお好きでしたら、わたしはそっちのチャンネルも持っ
てますので、いつでもそっちのモードにシフトして、家康や秀忠をこき
おろしますが(笑)。

ひでさんのおかげで、ひさびさに「評定」になりました。ただ、老婆心
ながら申し上げますが、go.jpのアドレスとIDはプライベートではお使
いにならないほうがよろしいのではないでしょうか。
以前にも某県庁の方が書き込んでこられました(休み時間に書かれたも
のと拝察いたします)が、組織名・人名も特定されてしまいますし、当
方は一向に構わなくても、IDやメールアドレス発行元にすれば私的乱
用とうつるかもしれません。
次回からは個人のアドレスを書くか、ハンドルネームのみにされたらい
かがでしょう。

※お幸の箇所についても疑問を呈そうとしたのですが、ひでさんがその前に訂正さ
れていらしたので、割愛いたしました。


(3530) 鎖国の優劣の科学的根拠を有する議論はできません優劣の科学的根拠を有する議論はできません  投稿者:ひで  投稿日:05月21日(月)00時11分46秒

加賀宰相 様
言われておられるとおり彼は農民の出ですから農民の怖さを身を持って知って
いたため検地、刀狩りで農民を縛りました。家康もそれを引き継いでいます。
鎖国の結果の有無はこれは机上の空論の域を出ないでしょう。私は実験科学者
です。実証された結果でのみ正否を判断します。実証できない時代の鎖国の
優劣の科学的根拠を有する議論はできません。
誰も実験できないので正確なことは言えないのでは。
一般的に考え言えることは”井の中の蛙大海を知らず”と同じで視野の狭い
国民性になる可能性が示唆されることでしょう。確かに文化的には日本独自の
国風文化(これ平安と同じですね)が産まれる風土とはなるでしょうが、鎖国の
ために自然科学ではかなりの遅れをとりました。明治以降にその影響は顕著に
現れます。ですので優劣の付け方も学問分野に拠って異なると思います。鎖国の
優劣の科学的な議論は私にはできません。多分に個人的見解が入り根拠の有る
見解からの議論にはならない可能性が考えられるからです。
もうこの議論はこれ位にして頂けませんか。
自然科学と人文科学の間には大きな溝があることを今回充分知らされました。
我々自然化学者はコントの実証主義を標榜としています。実証された物、根拠の
有るものだけが議論の拠り所で、その意味では単細胞な人間です。


(3529) お幸はお江の間違いでした  投稿者:ひで  投稿日:05月20日(日)23時39分10秒

お幸はお江の間違いでした。
別の事にかまけていたため間違った記載をしました。
ですので幸村とお江は字が違います。
どうもそうあって欲しいという希望の方が先に立った結果でした。
訂正して陳謝致します。


(3528) 横レスごめんなさい  投稿者:加賀宰相  投稿日:05月20日(日)23時22分53秒

>人を使う立場になれば分かりますが、何時かその地位につこうと狙っていれば人間は決してその間は牙をみせません。なった瞬間から今まで自分が耐え忍んだと同様の苦労を部下にも味合わせるというサデステックな思考に一般的にはなります。

それを言うなら秀吉にしても成り上がって天下を取った、つまり、それまでの使わ
れる立場から人を使う立場になった、点では同じだと思うのですが・・・。
いや、秀吉のほうが、一介の百姓から天下人になってしまったので、その分
家康よりは激しいイジメをするのではないかと・・・。部下の大名にしろ、民衆に
対しても・・・。自分が農民だったので、農民の事情に通じており、大名生まれの
者には考えもつかないような過酷な事をするのではないでしょうか?例えば、
刀狩り、検地などです。
それと鎖国についてですが、これって、最近ではかなり評価されてますよね。
鎖国=マイナスとするのは和辻哲郎が代表的だと思うのですが・・・。
とまぁ、横レスにて勝手なことばかり書かせていただきましたが、私も戦国、歴史
を愛する者ですので、許してください。
ひでさんの仰られてる事にも一理あると思います。僕は別に荒らしをしたり、
ひでさんとケンカをしたいというのではありませんので・・・。というわけです
ので、これからもよろしくお願い致します。
>三楽堂様
以前、図書の事について、色々と教えていただいてありがとうございました。
お礼を言わせていただくのが遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
今は教えていただいた様に、学校の図書館でレファレンスの方にお願いして、史料
取り寄せに協力していただいたり、他大学に行ったりしてます(でも、肝心の卒論
に関しては全然進まないです・・・)。本当に史料って難しい(大学4回の分際で
史料が満足に読めるわけないですが・・・)ですね。でも、史料を見て読もうと
してるだけでも、歴史上の人たちと時間を超えて対話してるような気分になって
嬉しいのですね(ちょっとかっこつけてます・・・すみません)。

それでは、失礼致します。



(3527) 徳川家康  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:05月20日(日)23時04分37秒

家康はやはり凄い奴と思う。
信長・秀吉はやはり一代限り、凡庸な君主でも崩れない強固なシステムをつくり
あげたのは、家康の優れた点。
某も関西の人間じゃから、家康はあまり好きじゃない。だが偉大な奴と認めざるを
得まい。
日本の歴史にとっての善悪は別として、二百六十年の太平を打ち立てた徳川家康
という男の業績は、純徳川的という観点を超えて、やはり古今に稀有な存在と
存ずる。


(3526) ジーパン姿までが戦国、リクルート姿が徳川の世  投稿者:ひで  投稿日:05月20日(日)22時41分08秒

若水 様
”物言えば唇寒し秋の風”は芭蕉だったか蕪村だったかの俳句です。実際に寒い
のではなく意見を言う戒めの意味が込められています。同じ意味では”物は言う
まい物言うた罰に、父は長良の人柱”っていうのがあります。この意味の説明は
必要ないでしょう。つまり時代が固まってしまうと人間は自由な意見の表明/発想
ができなくなるのです。
8代将軍吉宗に逆らった自由奔放な考えの尾張大納言宗春は死後50年も墓にまで
網がかぶせられてあったそうです。それだけ幕府に逆らえない保身に汲々としな
ければならない時代になったのです。江戸時代という時代は。

LEONE 様
私がなぜ家康までとそれ以前とをそれだけ極端に異なると考えるかといいますと
秀吉、斎藤道三に代表される様に戦国の世までは流動的で保身のみでは生きて
いけなかったし、秀吉の様に一介の百姓が天下人になることも可能な時代だった
のです。家康は辛酸を飲まされますが所詮は大名の息子です。秀吉とは産まれが
違います。家康は産まれながらにして帝王学を学んだはずです。ですから秀吉は
這い登る苦労で精根尽き果てます。家康は秀吉の後の機会を狙ってじっと耐える
苦労だったと思います。
人を使う立場になれば分かりますが、何時かその地位につこうと狙っていれば人間
は決してその間は牙をみせません。なった瞬間から今まで自分が耐え忍んだと同様
の苦労を部下にも味合わせるというサデステックな思考に一般的にはなります。
家康は保身に入りそれまで自分と同列とされた外様大名の牙をそぎにかかった
のでしょう。一端権力を手に入れ保身になると配下の人間は権力者に逆らった意見
を言うのをはばかります。
端的な例をあげれば就職活動に入った学生がそれまでの長髪、ジーパン姿から
没個性のリクルート姿になり面接ハウツー本を読むのと同じです。ジーパン姿
までが戦国、リクルート姿が徳川の世を思わせます。リクルート姿以降は没個性
の会社人間です。日本では。その原因を今回議論した次第です。


(3525) 横やり  投稿者:若水  投稿日:05月20日(日)21時36分31秒

『”物言えば唇寒し”の意見を言わせない』は京風だと思ってました。
→ 有名な「ぶぶ漬け」は三河〜江戸にはない風習ですよね?


(3524) 不愉快な思いをさせましたこと御容赦下さい。  投稿者:ひで  投稿日:05月20日(日)19時49分16秒

LEONE 様
いろいろ御指摘ありがとうございます。言われるとおり科学的根拠で物が言えれば
いいのですが。ただしDNA鑑定が万全の様にお考えの様ですがそうではありません。
DNA鑑定にも限界がありそこから得られる情報にも当然ながら限りがあります。
御指摘のとおりつい感情的に記述した部分はあります。これは反省していた次第です。
ただ関西出身人で家康のことを良く言う人はまずいないです。これは日本人の根拠の
ない判官びいきと同じで子供の頃からの習い性が抜けがたいです。歴史学者は情緒に
流されることなく史実を基に冷静に御判断なさるのでしょうが(私も医学の研究では
研究データから科学の真実を冷静に判断致します)、歴史は素人ですのでつい情緒
に走ったきらいがありました。反省すると同時に不愉快な思いをさせました事を深く
お詫び申し上げます。
ただ家康に繋がる徳川幕府が鎖国政策や”物言えば唇寒し”の意見を言わせない行政
をしいた事実は無視できません。それは現在の自分の意見を公の場では表明しない
/歓迎しない/できないという国民性の基になったと思っておりますが。その意味
では家康以前の小田原評定の様に自由に意見が言える時代もあったのです。
真田太平記で本田忠勝が秀忠の遅参に対する家康の切腹命令に対し”それでは
殿の御意志に反する意見を皆は申せませぬ”と諌めているとおり家康以降の
城お取りつぶしの時代がやはり物言わぬ保身の時代にさせたのではと思いますが。
如何でしょうか。
私は立場上国際会議にも出席します。”日本の意見は”って質問されて多くの場合
沈黙を守る場合が多いです。私は意見を述べたくても他の日本委員が言わないの
で他に同調せざるを得ません。世界も”日本は黙って金だけ出せば良い”っていう考え
です。そういう国民性にさせた源に家康があると思うのですが。これは自分の経験も
含んだ事実を基にしているので少々語気が荒くなったと反省しております。
確かに家康だけに全ての責任を嫁すつもりは毛頭ありません。ただ彼がいなければ彼に
繋がる徳川幕府もないでしょうし、鎖国もないでしょう。
歴史は一人の力ではないですが、彼が果たしたトリガー的役割はとてつもなく大きいと
思います。
歴史は名もない民衆が動かしたと言いますがその民衆を動かせるたのは
指導的地位にあった人間と思います。それは現在も含めいつの時代でも
同じだと思います。
歴史の議論は素人ですのでこれ以上の意見を述べる資格はありません。
不愉快な思いをさせましたこと深くお詫び申し上げますと同時に御容赦下さい。

ところで全然話しは変わりますが幸村とお幸を機軸にした真田太平記は
偶然か意図してか幸の字をだぶらせています。これは二人を軸にドラマ
が展開するからですが、お幸でなく別の名でも登場させているという
記載を読みました。こんな指摘は今更でしょうがはたと気がついて
ははーんと思った次第です。

三楽堂様 
このサイトを荒らすつもりは毛頭ありません。
ですので今回のことは御容赦と御勘弁を賜りたくお願い申しあげます。


(3523) 久々の書き込みです  投稿者:LEONE  投稿日:05月20日(日)16時21分06秒

ひで様

一応ご存じかも知れませんが・・・
側室300人といっても、全員均等に夜をともにしてるわけではないです。
中にはまったく手つかずという場合もあると思うのですが。
(中国歴代皇帝の後宮を思えば想像は容易です。)
歴史に数字を導入するのは大歓迎ですが、演算に組みこむ変数が
少ないと雑な計算にしかならないと思います。
人間(歴史)はサイコロ振るように確率だけでは行かないところが多いです。
個人的には私も真実はどうなのか知りたいので、
せめてDNA鑑定できるような遺髪でも残ってないかなぁと思ってますが・・・
(遺体が出ないので無理なんですが)

それから家康がお嫌いとのことですが、好き嫌いは人の性ですのでしょうがないですが
好悪と人間の評価を取り違えの無きようお願いいたします。
私も好き嫌いの多い方ですが、それを表明することにおいて好きな人が
不愉快にならないような表現を常に心がけているつもりです。

後世に悪影響を及ぼしたとのことですが、歴史を代表する人間はいるでしょうが
その人物1人で歴史が決まるものではありません。
ヒトラーですら、彼1人がどうこうしたというのでなく、当時のヨーロッパ情勢など
彼を生んでしまった背景などを抜きにしては考えることはできません。
今の日本はあらゆる時代の蓄積で成り立っているのです。

今の日本のことを考えるなら近代や、中世など戦国時代以外のことをいろいろ
学ばれてからの方がよろしいかと思います。

また、彼の策謀どうこうはあまりにも小説の影響の受けすぎではないでしょうか?
彼の前半生はほとんど策謀と無縁な世界ですよ。
彼はむしろすごく弱い人間で、それ故に必死で生きてきた結果が天下だったと思います。
ただ、目前に信玄・信長・秀吉のような教師となる人物がいてそれにあわせて
成長していったのだと思ってます。(私はこの弱さが好きなのですが)
ラッキーに関してはそれこそ結果論の問題で、来たチャンスを逃さないのも
重要な決断ですし・・・
チャンスをものにしながらそれを活かせない人は世の中にたくさんいますから。

いろいろと差し出がましいことを書いてしまいました、申し訳ありませんm(__)m
(某ゲームの掲示板などで同じような見方をされている方があまりにも多くいたので
ついフラストレーションがたまってしまったのが原因かも^^;)


(3522) ここで余り医学に立ち入った話しをするのは躊躇われますが  投稿者:ひで  投稿日:05月19日(土)10時29分11秒

三楽堂 様
早速のお返事ありがとうございます。
ここで余り医学に立ち入った話しをするのはどうかと思って書詳述するのを控えた
のですが、まず女性の不妊率は1%です。ですので側室300人とすれば殆どが
妊娠可能な女性です。公家であろうが百姓の娘であろうが遺伝ですので均せば確率は
同じです。1%が50%などと成ると人類はとっくに滅んでいます。
一方男性の不妊率は約10%です。無精子と言っても精子が全然無い訳ではなく5000万
を切ると優性的保護的に劣性な遺伝子を持つ精子が卵子と出会うのを妨げる自然の
摂理になっています。ですので種無しといっても全く精子のない男性から5000万を
切る男性まで様々です。全く種無しの場合は人工受精しか手がありませんが、5000万
を切る場合は濃縮とか間隔を開けるとかすれば自身の睾丸内で濃縮されて5000万を
超える場合もあります。その時は妊娠せることができます。
こういう話しはここでするのは相応しくないですが医学の根拠としてお聞き下さい。
三楽堂 様が書かれておられる様に秀吉に全く子供が無かったのではないとすれば
彼の場合は多分後者に属するのではと思います。側室300人いても毎日だと希釈
されるので空砲を撃つばかりになるでしょうね。
以上の話しは類推の域を出ませんが現在の医学水準から考えられる根拠に基づく考察です。
関ケ原の闘いは確かに形式は豊臣内の内部抗争ですが、あの寺の鐘の字の文句の
付け方と言い、家康は秀吉亡き後は豊臣の家臣と思っていたとは到底思えません。
愛妻殺害を命じられ、立ち小便で関東移封を命じられ腹の中は煮え繰り返っていたはずですが、
それを我慢できたのは家康だからでしょう。それは昌幸も言っていましたね。
"わしには真似はできん”と。
形式上は豊臣家臣を振舞ったのででしょうが。惜しむらくは秀吉亡き後前田利家も直に
亡くなってしまうことです。家康とはラッキーな男で策を弄する策謀家としか
私には映りません。歴史上で一番嫌いな人物で後世に最大の悪影響を残した人物と
しか私には移りません。でもあの偉大なマンネリズムの好きなNHKが一番愛する人物ですね。


(3521) 秀吉の後嗣、北政所について  投稿者:三楽堂  投稿日:05月19日(土)00時59分38秒

説明が少し足らなかったようです。
秀吉の実子と考えられる石松丸(秀勝)は夭折しています。ちなみに母親は南殿と
呼ばれた側室です。秀吉はこの秀勝という名前にはかなり思い入れがあったらしく、
後に信長から養子にもらった於次丸にも秀勝と名乗らせています。ですから、この
時期の秀吉には主君の子を後嗣に据えていたわけで、子づくりにはかなり遠慮があ
ったのではないでしょうか。推測の域を出ないのですが。
この於次丸秀勝も天正十三年には没してしまいますが、秀吉は甥の小吉を秀勝と名
乗らせてその名跡を継がせます(この小吉秀勝は朝鮮の役で戦病死)。この配慮も
やはり主君の遺児である筋目を重視したからでしょう。この時期、織田家はまだ健
在で、秀吉は一応形式的にこれを敬っています。簒奪者というレッテルだけは避け
たいので。
で、秀次を養子にしたのは、秀吉二番目の実子である鶴松が病死した後のことです。
翌年には養子となっていた小吉秀勝(豊臣秀勝)も巨済島で亡くなっていたので、
後嗣がまったくいない状態になってしまいました。この小吉秀勝も豊臣姓を与えら
れているところから、ごく短い一時期は秀吉の後嗣と位置付けられていたのかもし
れません。
ともあれ、実子病死と養子全滅によって、新たに秀次が養子に迎えられるわけです。
ですから「実子がいながら養子を迎え」たわけではありません。
秀次を後継者とした結果、皮肉にも秀頼が誕生します。秀吉としてはこの実子に関
白職を継がせたいわけで、こうした感情は他のケースでもよく見られます。自然の
感情とは言えませんが、血筋を重んじる人間的な振る舞いと考えられます。

秀吉がもうけた子供は、判明しているだけで、石松丸、鶴松、秀頼の三人になります。
精子数が少なかったとか、子づくりの時間がなかったというのも、説にとどまる範囲
でしかなく、根拠とはなり得ませんね。測定とか当時の証言でも飛び出さないかぎり。

>本来なら秀吉の妻ですから大阪方のキーパーソンの役目を担うのが当然と思えるのですが。

これは難しいですね。最近は関ヶ原合戦後しばらくは、家康はまだ豊臣家の大老と
いう立場であって、すぐさま覇権が確立されたわけではないことがわかってきてい
ます。諸大名もまず秀頼に挨拶して、それから家康のところへ出かけるわけです。
関ヶ原合戦は、秀頼・淀殿・西軍VS家康・北政所・東軍という図式ではないので
す。その後の推移はともかく、秀頼・淀殿は圏外にあって、あくまで豊臣家内の二
大グループの激突なわけで、北政所も大坂を敵にまわしたわけではありません。

秀吉の後嗣問題にせよ、関ヶ原の合戦をめぐる北政所の功罪にせよ、ここはやはり
小説やドラマなどではなく、歴史書や研究書に拠りながら考えていったほうがよろ
しいかと愚考します。


(3520) 本来なら秀吉亡き後の豊臣家を采配するのは北政所の役目じゃなかったのかと  投稿者:ひで  投稿日:05月19日(土)00時16分38秒

三楽堂 様
お返事ありがとうございます。
本来なら秀吉亡き後の豊臣家を采配するのは北政所の役目じゃなかったのかと
思うのですが、北政所が家康方に付いたため安心して大阪と闘えたという武将
の存在や言質もあります。ですので彼女の振舞いが秀吉子飼いの武将の不安定
な気持ちに大阪を敵にしても良いという最終判断材料を与えたのではなかった
のでしょうか。
本来なら秀吉の妻ですから大阪方のキーパーソンの役目を担うのが当然と思えるのですが。
秀吉に秀頼以外の子供があったことは知りませんでした。実子がいながら養子
を迎えてその養子を殺害したり、秀頼誕生をなぜそれほど喜んだりしたのでしょうか。
淀君が産んだからですか?産婦人科ではないのですが、彼の精液には精子数が少なかった
のではと考えています。行為している時間がなかったとかは余り理由にはならないと
考えます。性欲の処理など食欲の処理より早く終わりますから。
歴史の見方も変遷していくのはいいのですがその中に科学的な根拠が伴った見方があれば
より説得力が増すと思います。
科学者なのでついその根拠はっていう考えがいつも頭から離れません。
御不快なことがあれば御容赦下さい。


(3519) 淀殿VS北政所  投稿者:三楽堂  投稿日:05月18日(金)20時03分48秒

北政所が秀吉子飼いの武将たちをまとめて、家康に味方させ、天下をとらせたとい
うのは司馬史観をもとにしているようです。
どうしても淀殿=悪女と、北政所=かしこい女、といった図式ができあがってしま
ているようですが、これはどうなんでしょう。あまり根拠ないんじゃないでしょう
か・・・
最近は、淀殿がやさしくか弱いタイプで、反対に北政所が老害を撒き散らすばばあ
扱いする見方も提出されて、面白いです。淀殿に関しては小和田哲男氏、北政所に
関しては池宮彰一郎氏だったかと思います。違ってたらごめんなさい。

秀吉には子だねはないというのも根拠がありません。実子と思われる石松丸秀勝が
います。わたしは秀吉がなかなか子に恵まれなかった理由として、若い頃は信長に
こきつかわれ、子をなすヒマがなかった。天下をとってからは、自分の出自の低さ
に対する劣等感から上流階級のたおやめばかり集めたせいかと考えています。

これに反して、信長や家康は後家好きでした。これは子供を産んだ経験のある女性
にターゲットを絞ったという考え方もできそうです。だから二人とも子沢山ですよ
ね。家康が身分の低い女性をも側室にしたのは、家柄を誇る築山殿に懲りたという
理由のほかに、野良仕事などで丈夫な身体をもった女性を選んだとも言えます。


(3518) 北政所は?  投稿者:ひで  投稿日:05月17日(木)23時09分10秒

豊臣家の命運は淀君に託されますが、淀君にとって秀吉は母お市の方を自害させ
た織田方の武将。そんな男に心底惚れたとは思えないです。ですので秀頼が淀君
の子ではないとか言われているのもあながち嘘ではないとは思います。女は怖い
です。歴史とは別に実感しております。
ところで本妻である北政所はあの真田太平記でも全然登場しませんが結局男子を
産めなかった本妻と男子(種違いかもしれませんが)を産んだ妾の淀君との確執
があったのでしょうね。それを狡猾な家康は利用したものと思います。もし秀吉に
種がなかったのだとすれば嫡男を産まなかったのは北政所の責任ではないし、
秀頼出生の秘密を薄々感付いた北政所は女の意地で家康方に組みしたのかもしれません。
女同士の争いも怖いですが、それを狡猾に利用した家康はもっと怖いです。


(3517) 上田の真田太平記館は行かれましたか?  投稿者:ひで  投稿日:05月17日(木)14時38分32秒

三楽堂 様

>ところで、上田の真田太平記館は行かれましたか?
実は写真でしか見た事はありません。
関西出身なので真田蟄居の九度山とかには行きました。以前書きました様に
楠正成のファンでもありますので桜井の地などにも行っています。
桜井の別れは、幸村、大助親子の夏の陣での別れとオーバーラップします
ね。今回総集編を見ていてそう思いました。あそこは親子で戦って供に無念
無く散れなかったのが親子と供に悔やまれます。
御質問の上田の件ですがまだ行った事はありません。上田のオバサンは健在ですか。一度行きたいです。真田発祥の地の辺りに。


アド、書き忘れました。  投稿者:よーぜん  投稿日:05月17日(木)09時41分38秒

すいません。したのHPのアド、書き忘れました。
この親にしてこの子あり…あ〜

URLはこちら→http://users.goo.ne.jp/mataza-k/


(3516) HP開設  投稿者:よーぜん  投稿日:05月17日(木)09時39分28秒

↑は、わたくしではなく、伜の又左衛門が開設しました。
人さまの目にさらせるような代物じゃあございませんが、
よろしかったら一度のぞいてみて下さい。
アドバイスや情報など、お寄せいただけたら、喜ぶと思います。
…にしても中坊のくせに、勉強しないで、こんなことばかり
してるのです。来週は中間テストだって言うのに…。


(3515) image  投稿者:三楽堂  投稿日:05月16日(水)22時15分35秒

『上杉三郎景虎』という本が出ましたね。わたしの嫌いなシミュレーション小説で
はなく、歴史に即した一代記らしく、それならば読んでみようかな、と思います。

ところで、これを書きながら、CDで「image2」を聴いています。ヒーリングミュ
ージックとして息長く売れている「image」の第2弾なんです。全体の魅力は前盤
のほうがいいですが、今回の第2弾には、「そうだ、京都へ行こう」のJRのCM
に流れるメロディや、「葵〜徳川三代」の紀行コーナーで流れていたイラン・パイ
プによるテーマが収録されています。興味ある方、聴いてみてください。

#ひでさん
古本は必ずしも前に持ち主がいたとはかぎらないのです。出版社へ返品された分が
安く古書市場に出ることもあります。文庫(新本)で揃えても6000円くらいは
しますでしょ(笑)?
ところで、上田の真田太平記館は行かれましたか?


(3514) 買い得でしたか  投稿者:ひで  投稿日:05月16日(水)17時57分22秒

三楽堂 様
Yahooで探して長崎の銀河書店というところに池波体系全巻が売られていま
す。真田太平記は3巻で6000円でした。1230円は送料です。結構重いので。
だから電車の中では読め無いです。
古本って滅多に買わないので買い得ですか。価値が分かりませんので。専門
家が言われるのだからそうなのでしょうね。購入したのは読んだ後が無かっ
たです。何だか悪かった様な気も致します。私よりもっと熱烈なファンもお
られるのに。


(3513) それはお買い得かも  投稿者:三楽堂  投稿日:05月15日(火)22時44分20秒

送料込みで7300円ですか。それならわたしも食指が・・・
欲を言えば、風間完の挿絵完全掲載の愛蔵版を出してもらいたいとこですが。

古本といえば、戦国お宝探訪記で紹介した「諸将武勇競」を入手しました。原本を
手に入れたことによって、判読できなかった部分も読み取ることができました。い
ずれ修正版をお届けしたいと思います。
それにつけても、この「諸将武勇競」の素性が気になるところです。心当たりにい
ろいろ聞いてみたいと思っています。


(3512) 真田太平記再放送の機会があればいいですね  投稿者:ひで  投稿日:05月15日(火)21時08分06秒

鯨海酔候 様
お返事忘れましてすみません。
遠慮されなくても良かったのですが。惜しむらくはこちらも完全な物を持って
いる訳ではないので。版権がNHKにあるのでダビングの売り買いも出来ませんし
ね。公には。本当は3ー4万位なら完全版を買いたい位です。
そうですね。再放送の機会があればいいですね。NHK人形三国志は完全に録画し
ていたら録画版が売られているのに、完全に録画できなかった(ここしなかった
じゃないですから、野球のために時間録画失敗です)のが再放送の目処も立たない。
誠に残念です。


(3511) 買ったのは古本です  投稿者:ひで  投稿日:05月15日(火)18時40分48秒

向井佐平次 様
「さなだ、さなださなださなださなださなださなだ、この名は二度と聞きと
うない!」っていうのは確かにオリジナルでそのセリフは覚えているのです
が総集編ではそのセリフの画面はなかったです。それともビデオから消えた
のかも。
池波体系18-20(真田太平記)を買いました。はこれは古本です。送料込みで
7300円でした。新潮文庫は知ってますが確か池波正太郎が亡くなった頃に3
巻本がどこかから出た記憶があります。そして’99年頃の池波体系の真田太
平記です。記憶が間違ってなければ。池波正太郎が亡くなった頃に出た3巻
本が実は欲しかったのですが。この本の所在がわかりません。
家康、秀忠の俳優も実の親子ですか。あのドラマでは本多忠勝が真田親子の
命を賭して助けたり、秀忠を助命させたり、忠臣ですね。

三楽堂 様
西尾仁左衛門の実像はそうですか。それで幸村もうかばれます。家康が”幸
村の武運にすがれ”って言って家臣が髪を抜いったて話は史実ですか?
家康も幸村の能力を認めていた事は理解したいです。


(3510) よーぜんさま  投稿者:山野上 春定  投稿日:05月15日(火)16時53分45秒

よーぜんさま
情報有難うございます
 これから長野市のホームに行って来ます。。


(3509) 付け足し  投稿者:向井佐平次  投稿日:05月14日(月)23時17分55秒

>ところで私が真田太平記で一番印象に残っているのは夏の陣で家康本陣に攻め
>込んだ後安居神社で西尾平八郎でしたっけ?の鉄砲隊に囲まれて自害する場面
>です。”兄上佐之門佐かくなりました。父上これでよろしゅうござりまするか”
>を最後に自害します。

三楽堂さんのおっしゃるとおり西尾仁左衛門。
"兄上、左衛門佐各相成りました。父上、これで、これでよろしゅうござるかぁ〜"
だったはず。。。



私の印象に残る言葉としては、秀忠(中村梅雀)が関ヶ原に遅れて家康(中村梅之助)の叱責を受けた後の
「さなだ、さなださなださなださなださなださなだ、この名は二度と聞きとうない!」


>池波体系18-20(真田太平記)を買いました。読んでまた感想を書きます。

いいなぁぁ〜
一冊8000円以上するのですよね。
去年図書館で借りて読みました。
読んだの何回目だろ。。。


(3508) 恐縮  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:05月14日(月)22時46分08秒

ひで殿、
ダビングの件、御気持ちだけ有難く頂戴いたす。本編の再放送あるをともに首を長
うして待ちましょうぞ。


(3507) まとめレス  投稿者:三楽堂  投稿日:05月14日(月)20時10分24秒

#主馬さん
ありがとうございました。鵜渡路の地名確認いたしました。村上城から少し奥へ入
った感じですね。地名でなければ北海道のウトロと関係(アイヌ人とか?)あるの
かなと思ったのですが。残念ながら違うようですね。地名よりも人名(武将名)が
先というのはあまりないと思いますから。

地方の古書店で首都圏から買ってるところはけっこうあるみたいですよ。
わたし、思うんですが、自治体史でも品切れ後は史料集だけを単独で刊行していっ
て欲しいな、と思うんですが。上田市立博物館なんか、人気のあった過去の企画展
示図録を「真田氏史料集」として増刷していますしね。


#ひでさん
>込んだ後安居神社で西尾平八郎でしたっけ?の鉄砲隊に囲まれて自害する場面

西尾久作(のちに仁左衛門)ですね。今は亡き粟津號さんが演じました。
福井には西尾久作が供養した「真田地蔵」ものこっています。西尾は講談や小説な
どでは家康にウソを言って「苦戦の末、幸村の首をあげた」と報告したり、「五万
石だぁ〜」とはしゃぎまくったりしていますが、実際には幸村の供養を代々欠かさ
なかったようです。(幸村を討ったことで出世もしていません)こういう武士に討
たれて、幸村も「もって瞑すべし」といったところでしょうか。

あー、「真田太平記」のビデオといえば、ここの主人「纐纈城主」も持っていたそ
うですが、何とこのコーナーの訪問者に貸したら、それっきり返ってこなかったの
ですよ。ったく、もう・・・


(3506) 影絵とオープニングテーマは健在ですよ  投稿者:ひで  投稿日:05月14日(月)13時15分10秒

鯨海酔候 様
うふ様でしたか。
実は私の持っているのも総集編で4までです。5は野球中継のため時間変更
で時間録画失敗。
途中消えていたりなぜかコマーショルが入っていたりしますがそんなのでよ
ければダビングして差し上げますよ。
関ヶ原の時島津義弘って結構年輩だったのですね。あの勇猛果敢な中央突破
(家康も島津もなかなかやるわいって言っています)から若いのかと思って
いましたが。役者の年令もある程度は実年令に合わせてあると思いますが。
46回シリーズのオリジナルで脳裏に残っている画像も総集編では削除されて
いるのもあります。画像と記憶で1985-86年の頃を思い出しています。あの影
絵とオープニングテーマは健在ですよ。
御希望をお知らせ下さい。


(3505) うとろ  投稿者:主馬  投稿日:05月14日(月)00時33分53秒

「せどり」は勉強になりました。
地方の古書店は東京から買ってるんですか。
でも地元の自治体史を東京で買わねばならないとは何か変ですね。

>あの近辺で「鵜渡路(ウトロ)」という名字は存在しませんか?聞いたことないでしょうか?
私も住んでいた訳ではないのでよく分かりませんが、
ネットで調べてみたら村上市の隣の朝日村に当該地名がありました。
(Mapfan Web)
http://www2.mapfan.com/mfwtop.html

地名が先か、武将が先かが分かりませんけれども。


(3504) 拙者も見たい  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:05月13日(日)23時52分54秒

某は、本編は数年前の再放送のみぎり、一度みただけにござ候。
死ぬまでになんとしてももう一度見とうござ候。

>”うす様を誰が守る”
うふ(右府)様じゃな。


(3503) NHKの真田太平記を見直しました  投稿者:ひで  投稿日:05月13日(日)20時59分08秒

この休みにNHKの真田太平記を見直しましたが三九郎の先祖に昌幸は恩があった
のですね。
NHKの真田太平記のドラマを何度か通して見ましたが今回見て感じたのはあの物語
は幸村とお江を軸にした戦国ラブロマンスの感があります。池波幸村像なので
しょうか。
ところで関ケ原での合戦での西軍諸侯の夜討ち戦略の進言に躊躇する三成(能吏
ではあったのでしょうが戦のプロではなかったのでしょう)、北条氏の所謂
小田原評定(これはミッテルニヒやビスマルクのウイーン会議と同じで会議は
踊るされど進まずの堂々めぐりの例えです)、大阪での西軍諸侯の城を出て闘う
という戦略の進言に”うす様を誰が守る”という淀君の一言で頓挫する大阪方。
これらは史実なのでしょうがその任に値しない指導者の責任は思いと痛感した
次第です。自戒します。
池波体系18-20(真田太平記)を買いました。読んでまた感想を書きます。


(3502) 歴史にifは禁物ですが。  投稿者:ひで  投稿日:05月12日(土)15時59分10秒

三楽堂 様、向井佐平次 様
御丁寧なコメントありがとうございます。
確かにお江という名の人物は創作上の人物なのでしょうがモデルとなった人物は
歴史上にいたと思います。それが安楽寺での話しとなったり、幸村亡き後の信之
を支える存在になったりするのでしょう。実際の史実の詳細は知りませんが。
秀頼の出生の秘密、樋口角平の出生の秘密や、これは戦国の話しではないかも
しれませんが城を継ぐか遊女を妻にめとるかで決断を迫られる藩主の姿は日本
のみならず欧州にもみられます。男女の仲はあの乱世戦国の世も含め人間の欲
の源なのでしょう。
ところで私が真田太平記で一番印象に残っているのは夏の陣で家康本陣に攻め
込んだ後安居神社で西尾平八郎でしたっけ?の鉄砲隊に囲まれて自害する場面
です。”兄上佐之門佐かくなりました。父上これでよろしゅうござりまするか”
を最後に自害します。家康は本陣で3度も自殺を考えたそうですがそれほど
まで家康は幸村の存在を恐れていたのですか?
家康というのは余程か強運の人物で夏の陣で豊臣の滅亡の1年後に亡くなります。
もしあの死がもう少し早ければ日本の歴史は変わり、日本人の”物言わぬ、自分
の意見を持たぬ”っていう閉鎖的な国民性が変わっていたと考えるのは私一人
ではないと思います。歴史にifは禁物ですが。
安居神社は今月終わりの大阪での学会の時にでも行ってみます。


(3501) せどり  投稿者:三楽堂  投稿日:05月11日(金)22時18分13秒

せどり、は「背取り」と書かれるのが一般的のようです。古書店が別の古書店の店
頭(もしくは目録)から自分の店の商品とするために購入すること。要するに同業
者からの仕入れですね。
これ専門に行っている方もいて、「せどり師」と呼ばれます。Aの店で買った商品
をBの店に売るのです。Bの店では当然その商品を欲している、という情報をせど
り師は持っているわけですね。
今では人海戦術で「せどり部隊」なんてのもいるそうですよ。
地方の古書店などでは、東京の古書店の目録やインターネットも重要な仕入れ先情
報になっています。先のコメントで高知県の古書店主が「高知県史は扱いたいけど
東京の古書店で85万円なんてとても買えません」と言ったのは、その店では東京
の古書店から「せどり」をしているのかな、と当時思ったわけです。

「上越市史」の中世史料ですが、おそらく上越市に関わる武家文書、寺社文書など
が集められるのではないでしょうか。一部、上杉文書ともダブる部分もあるかもし
れませんね。今、上杉氏の家臣団研究をテーマに据えているのですが、上杉文書は
あまり参考にならないんです。上杉文書は上杉家に伝来した文書群であって、足利
将軍とか秀吉とかから貰った分が多いもので。

あ、ところで主馬さんの田舎、たしか村上でしたよね?
あの近辺で「鵜渡路(ウトロ)」という名字は存在しませんか?聞いたことないでしょうか?



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