小田原評定・バックナンバー

過去ログ3401番目から3450番目までの記事です。


(3450) はじめまして  投稿者:よーぜん  投稿日:04月21日(土)11時15分48秒

初めまして。よーぜんと申します。
三楽堂さんは、本も執筆されているのですね。何も知らずに訪問しましたが、中身が濃く、とても勉強になります。
「上杉家文書、国宝指定」のニュース、私も今朝新聞で読みました。上杉ファン(というか、直江兼続さまファン)の私としては、嬉しく思いましたが、国宝になってしまうと、ますます遠い存在になってしまいます。(今でも十分遠いが)
ですが、大切な遺産をそうして守っていくというのは、歴史ファンとして、喜ばしいですね。
これからも度々訪問させて頂きます。アホな発言をするかもしれませんが、その時は笑って見過ごしてくださいませ。


(3449) 祝!上杉文書、国宝指定  投稿者:三楽堂  投稿日:04月21日(土)05時52分13秒

武家文書としては初の国宝に「上杉家文書」が指定されることになったそうです。
ウチの本棚には赤茶けたカバーの「大日本古文書・上杉家文書」3冊がありますが
なんかとてもうれしいです。兼続の自筆書状は写真版が挿入されています。
同文書の価値は、掛け軸にしたり表装などをせずに、原形をそのまま保存している
点にあります。
これで、米沢は洛中洛外図屏風にならんで2件目の上杉関係国宝の誕生ですね。
また、伊達政宗の慶長遣欧使節が持ちかえった関連史料も指定される見通しです。


(3448) 突如として、投稿。  投稿者:大河ファン  投稿日:04月20日(金)13時20分34秒

テレビの視聴率は、
内閣支持率みたいなもので、
「誰も見てないから、やめろ」
「誰も支持してないから、やめろ」
の目安になる、と思います。


(3447) むむう  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:04月19日(木)23時17分50秒

>時宗が視聴率低迷しているので、・・・

視聴率を気にするのはいい加減やめてもらいとうござる。


(3446) 新刊情報その他  投稿者:三楽堂  投稿日:04月19日(木)21時14分41秒

『北条氏照異伝』(著者失念)郁朋社
*小説です。珍しいですね、個性があまり際立たない氏照が主人公とは。

『花鳥の乱』岳宏一郎/著、講談社文庫
*全員が利休七哲ではないけど、いずれも弟子だった人々を描いた短編
連作です。

『里見家改易始末―房総戦国大名の落日』千野原靖方/著、崙書房
*里見研究の本を何冊も出している著者の最新刊。

『織豊政権と東国大名』粟野俊之/著、吉川弘文館

『乱中日記3』李舜臣/著、平凡社

『日本の名城』(東国編/西国編)ゼンリン


そういえば、大河ドラマ、見直しするそうですね。時宗が視聴率低迷し
ているので、「本当に必要かどうか、必要だったらどのようにテコ入れ
するか、近代ものも含めるか」など本格的に検討するそうです。
来年の「利家とまつ」の視聴率はバロメータになりそうですね。


(3445) 「再現日本史」創刊  投稿者:三楽堂  投稿日:04月17日(火)21時59分29秒

このテのMOOKはもういいや、と思いつつ、290円という価格にひ
かれて買ってしまった。
創刊号は「関ヶ原の死闘8時間」
CGを駆使といううたい文句のわりには、CG再現は冒頭のみでちょっ
とがっかりしましたが、なんといってもリーズナブル。
とくに「会津陣物語」で景勝と兼続を悪役に仕立てた執筆動機などは面
白かったです。石田三成の頭蓋骨とかなかなかグラフィックもユニーク
です。
全100冊のうち、戦国、織豊などの時代区分別に揃えるのもいいかも
しれませんね。
とりあえず、51号「川中島合戦」は買いたいと思います。


(3444) ハードディスクに日本史をいかが?  投稿者:三楽堂  投稿日:04月13日(金)23時21分46秒

岩波書店の「日本史事典」CD−ROM版が出ました。しかも、ハードディスク格
納型ですから、モバイルにもぴったり。
価格は8500円とのことです。このテのディスクのリーズナブルになりましたな。

事典といえば、わたしがおもに愛用しているのは、山川出版社の「日本史広辞典」
です。選択基準は「太田資正」という項目がたてられているかどうか(笑)。とり
まわしはちょっとツライですが、とても気に入ってます。CD−ROM版が出たら、
ぜひ購入したいものですが。(出ないでしょうね)

ハードディスクに入れたい史料・資料ベスト5
1.『越佐史料』全6巻プラス索引1巻プラス鋼本
2.『上杉家御年譜』
3.『史料総覧』
4.『国書総目録』
5.『国史大辞典』


(3443) 新刊情報ほか  投稿者:三楽堂  投稿日:04月12日(木)20時49分28秒

『元亀信長戦記』学研M文庫
*これって、MOOKの文庫化だそうな。今後のM文庫は書き下ろしを購入基準に
すえたほうがいいかもね。
別冊歴史読本『忍びのもの132人データファイル』新人物往来社
*なんか知らない名前の忍者まで出てきて面白い。中にはこの人が忍者?ってのも
あるけど。そういえば、今年はあの赤影の映画化がありますね。
タイトルも「レッドシャドウ赤影」。もっとも昔のリメイクを期待しているとがっ
かりするかも・・・

歴史モノではないんですが、このところハマったもの。
『だれが「本」を殺すのか』(佐野眞一/著、プレジデント社)というノンフィク
ション。立ち読みしているうちにレジへいってしまいました。なんと、この著者は
「原色怪獣怪人大百科」を出した人なのね。これ使って学級新聞で怪獣特集をやっ
たっけな。
それと、雑誌「東京人」の特集「古本道」。古書店の内部写真を眺めているだけで
も至福・・・(^^)
この2冊を読むと、新刊を扱う書店の多く(例外はあるけど)が退屈きわまりない
ところかがわかるよ!
特に歴史分野などは、「今どんな本が出ているか」よりも、「過去にどんな本が出
ていたか」を知るほうがはるかに有益(だと思うよー)。


(3442) 時輔  投稿者:関東丸  投稿日:04月10日(火)21時17分23秒

関東丸です。
時輔かわいそうです。長男なのに。長時もかわいそうです。
時頼?あっ!そっか。結果的にはみんなかわいそうですな。


(3441) いらっしゃいませ  投稿者:三楽堂  投稿日:04月10日(火)18時09分05秒

親指武蔵さん。戦国群像&小田原評定へようこそ。
当コーナー城代・三楽堂と申します。よろしく。
「面白い、面白いぞ」のセリフはわたしも覚えております。たしか、「この夏、赤
と黒のエクスタシー」というのがキャッチフレーズだったような・・・


(3440) はじめまして  投稿者:親指武蔵  投稿日:04月09日(月)15時03分37秒

中身見ました。面白いですねえ
”面白い、面白いぞ”By.榎木孝明(天と地と)って感じですね。
ちょくちょく今後も覗かせてもらいますのでよろしくお願いします。


(3439) 新刊情報  投稿者:三楽堂  投稿日:04月08日(日)21時29分37秒

一休さんの『狂雲集』が中公クラシックスから発売されました。
自分のことをボクと訳すユーモラスな柳田聖山訳。森侍者とのこと
も赤裸々に記しています。

PHPからは歴史街道最新号、特集「立花宗茂と島津義弘」です。


(3438) 久々  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:04月07日(土)20時35分59秒

北条時利から時輔に名前が変わったのは・・・
時利の利は、烏帽子親の足利利氏の一字をもらったもの。
それを、父の時頼が時輔に改名させた。
「輔」は、輔弼の「輔」、助ける、補佐するの意じゃ。
得宗家の嫡子である弟時宗を助ける存在であることを内外に示すために、
改名させたのじゃな。
ま、あくまで今年の大河ドラマの中での話じゃが・・・


(3437) 春眠暁を覚えず  投稿者:三楽堂  投稿日:04月07日(土)11時42分40秒

最近、いくらでも眠れる三楽堂です。
年度がわりでバタバタしておりまして、HP更新もちょっとサボっています。

「越後毛利氏の研究」をようやくに受け取ることができました。神保町某書店で買
うかどうか迷っていたものより状態がいい上に\5000も安かったので満足してます。
北条高広・景広父子の研究に関してはいまだにこの本が最高だと思います。

お宝探訪記に発行元の許可を得て、直江兼続のパンフレットを紹介しましたところ、
理事からお礼のメールまでいただいてしまいました。恐縮です。
興味を持った方、取寄せてみてはいかがでしょう。送料込み360円です。


(3436) ハッ!  投稿者:NAYA  投稿日:04月03日(火)21時27分13秒

スミマセン(^^;)
「戦国群像」ですから、北条時宗の時代とは違いますよね。
申し訳有りませんでした。


(3435) うーむ、困った  投稿者:三楽堂  投稿日:04月03日(火)19時43分39秒

荷物が受取れない。また古本なんだけど、できれば発注時に受取り側で業者を指定
できるとよいなあ(宅配のマイラインてやつか)。宅配便業者にはまだ夜間とかこ
まかい指定ができないところがあるから。「午前か午後か」っていわれてもねー。
もうちょっとがんばってよ、セ○ノーさん。

古満姫さん、いらっしゃいませ。戦国群像&小田原評定へようこそ。ちょっと文意
が読み取れないのですみません、ご挨拶だけ。

NAYAさん、すみません。ここ、「戦国群像」なんで。管理人はあまり頼りになりま
せん。関心はあるけど、守備範囲をひろげるまでに至っておらない・・・
御存知の方、いらっしゃいましたらよろしくね。そういえば、メールでも「幕末特
集お願いします」とかよく来るんですよね。なんで、わたしのところに!?


(3434) どういう意味なのでしょうか?  投稿者:NAYA  投稿日:04月03日(火)17時50分36秒

北条時宗のお兄さんのことで、ご存知の方にお教え頂きたく、参上致しました。
何故、’時利’から’時輔’に改名したのでしょうか?
何か意味合いがあるのでしょうか?


(3433) 三楽堂様、はじめまして。  投稿者:古満姫  投稿日:04月03日(火)12時36分39秒

山科言経著「言経卿記」や「真宗人名辞典」によると、古満姫は1602年8月12日に再婚して、翌年の6月16日に女児(後に水戸頼房の妻となる弥々?)を出産しております。???


(3432) いらっしゃいませ  投稿者:三楽堂  投稿日:04月01日(日)22時55分28秒

石田治部さん、戦国群像&小田原評定へようこそ。
こちらは兼続オンリーではありませんが、戦国時代に関することなど何でも結構で
すので、お気が向いたらどんどん書き込んでください。
今後ともよろしくお願いいたします。


(3431) 最長記録更新  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:04月01日(日)00時17分46秒

↓御城代の昨日の御発言は、歴代最長記録を更新されたことをここに記す。


(3430) 三楽堂 様  投稿者:石田 治部  投稿日:03月31日(土)22時43分23秒

直江兼続のHPに時々書き込みしている、石田治部と申します、こちらのアドレス
が出ていたので拝見させていただきました。ひじょうに面白かったです。
また、ちょくちょくこちらも見させていただきます。


(3429) 宮本武蔵・虚実年譜(長文注意!)  投稿者:三楽堂  投稿日:03月30日(金)21時06分43秒

むかし、パソ通でカキコしたものです。再録。

天正十二年(1584)    一歳   播磨国に生。(『五輪書』『二天記』
                             『宮本系図』)
                             播磨国揖東郡宮本村説。(『播磨鑑』)
                             美作国吉野郡宮本村説。(『東作誌』)
                             幼名弁助。(『二天記』)

※父(養父?)は当理流兵法の達人・新免(宮本)無二之介一真。母は
播州佐用郡の人で別所吉林の女率子、あるいは新免宗貞の女於政という
説あり。率子を前妻、於政を後妻とする説もあるが、武蔵が果たしてど
ちらの腹であるかは不明。兄弟は兄(田原氏を継ぐ)、姉(平尾家に嫁
ぐ)。(『宮本系図』)
姉が嫁いだとされる平尾家は現存。周辺には武蔵神社・二刀流開眼の地・
本位田外記(平田無二斎、あるいはその父平田将監に討たれた)の墓ほ
か伝説の地などが点在するが、いずれも確実な記録はない。
なお、武蔵の父を平田無二斎とする説もあるが、前記の宮本無二之介一
真に比定できるかどうかは不明である。
また、生年も『宮本系図』では天正十年となっている。天正十二年説は
『五輪書』の「年つもって六十」という記述から逆算したため、はなは
だ曖昧。また、この序文は後世の加筆とする説もあり。
宮本伊織が播州米田村に奉納した「泊神社棟札」によると、武蔵は養子
伊織の実家田原家の一族として生まれ、筑前秋月城下に滞在中、新免某
と知り合い、その遺言により新免姓を称するようになった旨が記されて
いる。
晩年の武蔵と親交のあった細川家菩提所泰勝寺の住職春山和尚の撰によ
る墓碑銘には、「播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、号
二天」とある。
あるいは、実際は美作の生まれではあるが、赤松の支流新免の姓を継い
だため、生国を赤松氏本貫の地・播州と称するようになったか。

慶長元年(1596)    一三歳   新当流有馬喜兵衛と試合して勝つ。(
                             『五輪書』)

慶長四年(1599)    一六歳   但馬の兵法者秋山某と試合して勝つ。
                             (『五輪書』)

慶長五年(1600)    一七歳   関ヶ原の合戦に新免伊賀守宗貫、宇喜多
                             氏に従って参戦、敗亡。
                             武蔵、従軍か。
                             五月、宮本無二助一真、久野五郎兵衛と
                             連名にて秘伝書を著す。

※吉川英治の『宮本武蔵』の冒頭シーンであるが、確実な記録はない。し
かし、武蔵の父は新免宗貫に仕えていたといわれるから、主人が西軍とし
て出陣していれば、武蔵が従軍していても不自然ではない。戦後、新免宗
貫は所領没収され、筑前黒田家に仕える。黒田家に仕えた宇喜多遺臣は多
く、有名な明石掃部などもそのひとりである。

慶長九年(1604)    二一歳   上洛。(『五輪書』)
                             吉岡道場と三度にわたり試合す。(『二
                             天記』)

※これも『二天記』のほか確実な記録がない。しかし、京都所司代板倉勝
重が武蔵と吉岡の兵法試合のため、邸の使用を許可した記録がある。吉岡
道場との試合は実際あったかもしれないが、場所は「蓮台寺野」や「一乗
寺下り松」や「三十三間堂」というのは後世の創作か。『古老茶話』は吉
岡兼房と武蔵が相打ち、『吉岡伝』では吉岡直綱が武蔵を破ったという。

慶長十三年(1608)  二五歳   夢想権之助と試合す。

※試合の場所は江戸(『二天記』)、播磨(『武芸小伝』『海上物語』)
など諸説あり。時期についても同前。夢想権之助はその後、宝満山に籠り、
杖術の大家として一流を開き、北九州を中心に活躍。武蔵との交流もあっ
たかと思われる。

慶長十七年(1612)  二九歳   四月十三日、船島にて佐々木小次郎(巌
                             流)と試合して勝つ。(『二天記』)
                             佐々木小次郎、武蔵の弟子によって止め
                             をさされ、殺害される。(『沼田家記』)

※船島の試合後四十二年たって小倉手向山に建てられた碑文には、「岩流
三尺の白刃をたずさえ来たり、武蔵木刀を以って一撃に之を殺す」とある。
現在、この石碑と作家村上元三の碑「小次郎の眉涼しけれつばくらめ」が
残っている。『沼田家記』によれば、試合後、武蔵は細川家の警護つきで
門司へ向った。
試合に使った木刀については、武蔵が後年、細川家に迎えられた際、家臣
の求めに応じてレプリカを製作して形状を示している。この木刀は松井家
に伝存する。
また、佐々木巌流については、越前浄教寺村(『二天記』)や周防岩国の
産等の出身説が伝えられているが、どれも根拠はない。豊前の国人佐々木
一族の出、という説が比較的妥当と思われる。舟島の決闘は、細川氏に反
抗的な国人佐々木氏の勢力を殺ぐために藩ぐるみで仕組まれたもの、とい
う説も提出されている。巌流が武蔵との対決時に鞘を捨てたというのは、
『二天記』の創作。

慶長十八年(1613)  三十歳   豊後日出藩主木下延俊、謎の兵法者「武
                             二」を引見。(『木下延俊慶長日記』)

※豊後日出藩主木下延俊の日記に「武二」という兵法者の記述がある。こ
の「武二」が武蔵あるいは父無二之介(宮本無二之介一真)、という可能
性もある。木下延俊は細川忠利の叔父にあたる。

慶長十九年(1614)  三一歳   吉岡憲法、京都所司代板倉勝重の家臣太
                             田忠兵衛に刺される。
                             大坂冬の陣に従軍。

※この吉岡憲法が武蔵と立ち会った人物かどうかは不明。また、同年の大
坂攻めにはたして武蔵が参陣したかどうかも不明。

元和元年(1615)    三二歳   大坂夏の陣に従軍。東軍に属したか。

※俗説では前年の冬の陣とも豊臣方の牢人募集に応じたというが確証はな
い。この当時は武蔵にとって旧主も親交のある大名もみな徳川方であるた
め、敗色の濃い大坂城に籠る理由が見当たらない。諸記録に武蔵の名は見
当たらず、籠城したとしても雑兵同然だったのではないかと思われる。
徳川方として従軍したというものには、水野日向守勝成の軍に属したとす
る説がある。(『黄コウ雑録』)

元和五年(1619)    三六歳   旧主新免宗貫(黒田家家臣)、筑前にて
                             没。

※宮本伊織が奉納した「泊神社棟札」の記事から類推すると、武蔵が筑前
秋月に滞在していた時、新免某から姓を譲られたとあるが、これが宗貫の
ことであれば、旧主から新免姓を譲られたことになる。この場合は後継者
ではなく偏諱の意味合いが強いだろう。しかし、旧主のことを某とするな
ど、記述は曖昧で憶測の域を出ない。また詳しい時期も不明である。新免
伊賀守宗貫は宇喜多家臣で三六五〇石を知行。貞弘の男で、母は竹中半兵
衛の姉。
また、この新免某を新免武二とする説もある。『木下延俊慶長日記』に登
場する「武二」は武芸者であるため、新免伊賀守宗貫よりは、新免武二と
したほうが自然か。武蔵の実父と考えられる平田無二斎あるいは宮本無二
助一真のどちらかが新免武二と同一人物で、しかも養父ということも考え
られる。


寛永三年(1626)    四三歳   本多忠刻急死。武蔵養子造酒助、これに
                             殉死。

寛永七年(1630)    四七歳   尾張に滞在。尾張時代の弟子竹村与右衛
                             門がのちに尾張藩・円明流をひろめる。
                             尾張徳川義直の家士と試合す。(『武業
                             雑話』)
                             この頃、尾張藩剣術師範柳生兵庫助利巌
                             と出会うか。(『感興漫筆』)

※柳生兵庫との邂逅は有名なエピソード。町で行き会った二人が「はじめ
て生きた御仁と会った」と言って、お互いに「武蔵殿でござろう?」「柳
生兵庫殿ですな?」と肝胆相照らした、という。無論、ふたりの交渉を裏
付けるような史料はないが、尾張藩では柳生新陰流のほかに武蔵が伝えた
円明流も普及しており、両者がまったく没交渉であったと考えるのも不自
然なことであろう。
また、尾張藩主・徳川義直が武蔵を召し抱えようとして断念した話も伝わ
る。


寛永十一年(1634)  五一歳   小倉藩主小笠原忠真の客分となる。

寛永一五年(1637)  五四歳   小笠原忠真に従って伊織とともに島原へ
                             出陣。
                             投石に遭い、脛を負傷。(『有馬玄蕃頭
                             宛書状』)

※これは本人筆の書状が残るので、確実な記録。「(百姓たちの投げた)
石にあたって脛が立ちかね、訪問できない」といった内容。宛名の有馬
玄蕃頭(豊氏)は久留米藩主。
この島原の陣中で武蔵は細川家の家老松井(長岡)興長・寄之父子と再
会。推測だが、この時、熊本藩剣術指南役・松山主水(故人)の高弟・
村上吉之丞が負傷し、帰国後死亡した。これに変る指南役を、というこ
とで武蔵招聘が具体化したのではなかろうか。

寛永十七年(1640)  五七歳   八月、熊本藩主細川忠利の招きにより熊
                             本へ移る。

※武蔵の細川家における待遇は、十七人扶持・堪忍分の合力米十八石・
客分扱い。「客分」という武蔵のプライドを尊重した特別扱いである。

寛永十八年(1641)  五八歳   二月、細川忠利の命により『兵法三十五
                             箇条』を著し呈上。
                             三月十七日、細川忠利没。「是非無き仕
                             合せ、本意失せ候」(『二天記』)。

※『兵法三十五箇条』に流名を「二刀一流」と記す。細川忠利の死によ
って阿部一族の事件がおこる。

寛永十九年(1642)  五九歳    八月二七日、尾張の門弟竹村与右衛門
                              頼角を尾張藩老寺尾直政に推挙す。
                              (『寺尾左馬宛書状』)

※竹村与右衛門は武蔵の義子といわれ、武蔵が江戸に住んでいた頃の姓
竹村を継いだもの、といわれる。川に浮かべた桃を手裏剣で割るほどの
達人であったという。『渡辺幸庵対話』には「竹村武蔵」とあるように
一時期、竹村姓を名乗ったことがあるのかもしれない。
「この与右衛門と申す者、我等数年、兵法など教え申し、如在なき儀に
御座候間(中略)、お目をかけられ候はば、忝けなく候」という内容。
文中、登場する「肥後守」は細川忠利の後嗣光尚と思われる。したがっ
て、この書状は寛永末年のものか。
文中、すでに病気がちで人前で兵法を披露することもできない有様であ
る、と嘆いている。

寛永二十年(1643)  六十歳   巌殿山雲岩寺霊巌洞において『五輪書』
                             を著す。

※『五輪書』では流名は「二天一流」あるいは「二刀一流」としている。
「二天」は泰勝寺の住職春山和尚が武蔵に贈った道号。
また自分のことを「新免武蔵守藤原の玄信」と記す。通常、国守に任じら
れず、「○○守」と僭称した場合は、「守」を略すことが多い。当然なが
ら武蔵の場合も「守」をつけているのは、自著だけである。
「遠祖が武蔵国から興ったので武蔵国の守であるように解釈して尊称した
もの」と思われる。(『丹治峯均筆記』)
『五輪書』の武蔵自筆本は現存せず、高弟寺尾孫之丞勝延が山本源介に与
えた「細川家蔵本」ほか写本が流布しており、字句などに異同がある。
武蔵に道号を贈ったという春山和尚については、武蔵の道友ともいわれて
きたが、年齢のひらきから考えて、春山の師・大淵和尚のほうが武蔵とつ
りあいがとれそうに思われる。実際、武蔵が没した時、引導をわたしたの
は大淵であった。しかし、武蔵没後、数年して亡くなったため、弟子の春
山が武蔵の顕彰に一役買い、その結果、武蔵との交友をとりあげられるよ
うになったものか。

正保二年(1645)    六二歳   五月十二日、自戒の書『独行道』を著す。
                             五月十九日、病没。

※「起き上がって帯をしめ、脇差をさし、片膝を立て、刀を左に杖つき」
た姿で臨終を迎えた。(『兵法先師伝記』)
葬地は肥後国飽田郡五丁手永弓削村(現竜田町弓削に「武蔵塚」とし
て残る)。ほかに泰勝寺に供養塔あり。引導は大淵和尚。


(3428) はなざかり武蔵本  投稿者:三楽堂  投稿日:03月30日(金)21時05分58秒

別冊宝島から宮本武蔵伝説なるMOOKが出ました。本文イラストはあまり好みで
はありませんが、内容はわりとつっこんだものになっています。
本や映画の紹介もあるので、武蔵ファンには楽しめるでしょう。
一時、五輪書が英米でもてはやされた時期がありましたが、日本型経営が破綻した
今、海外での関心のほどはどうなんでしょうね。
ちなみに吉川英治の名作シーン、小次郎やぶれたりの場面は以下のようです。

Musashi「You've lost.Kojiro」(小次郎やぶれたり!)
Kojiro 「Words! Nonsence!」(うぬ、たわごとを)


(3427) ひえっ(^^;  投稿者:三楽堂  投稿日:03月28日(水)19時41分06秒

>実は地震のときトイレにいたのです(爆)

まあ、ご無事でなによりです、トラマさん。
しかし、トイレの中での大地震、さぞかし不安だったこととお察しいたします。


(3426) 蒲生野  投稿者:三楽堂  投稿日:03月28日(水)19時39分51秒

蒲生郡の地名はずいぶん古いんですよね。『古事記』とかにもすでに出てきますか
ら。さらには「蒲生野」という野ッぱらがひろがっていて、古代にはここで渉猟な
どが行われたそうです。額田王があの有名な「野守はみずや君がそでふる」という
万葉集に採られた歌をよんだところでもあります。
今は蒲生野の地名は残っていますが、野ッぱらのほうはありません。
蒲生一族の文芸嗜好はやはりこういったゆかりの地に住んでいる要因もあったかも
しれません。

ところで、蒲生氏郷って、吉川弘文館の人物叢書(今後のラインナップ含めて)に
も入っていないし、学研の歴史群像ムックにも入っていないし。新人物往来社の
「○○のすべて」シリーズには入っていたかな。版元品切れだろうけど。
昔のNHKは「日本史探訪」で蒲生氏郷もちゃんと取り上げてくれたんですけどね。
最近の歴史バラエティは人物よりも事件を主眼にしているので、人物伝に徹した「日
本史探訪」のようなのを期待したいです。


(3425) 瓦版(爆)  投稿者:トラマ  投稿日:03月28日(水)13時19分09秒

あ、トラマです
どうもご心配おかけいたしました
幸いなことに我が家は地盤の固いところに建っているので
物的な被害はまったくありませんでした
実は地震のときトイレにいたのです(爆)
案外安全なところでもあるのですが
もよおしている最中に揺られるとたまりませんな(爆)
そういえば広島城はしばらく天守閣は入館できないとか
シャチホコが落っこちたらしいからなァ


(3424) 日本航空(笑)  投稿者:主計  投稿日:03月28日(水)12時24分39秒

 桔梗屋様、レスありがとうございます…

 確かに当家の家紋を赤で印刷すると日本航空ですよね(笑)。今度Tシャツか
何かにでっかく印刷して着てみましょうか?…飛行場に行ったら職員と間違え
られそうですが(笑)。

 五三桐の紋、もしかしたら豊臣家から頂戴したものかも知れません。でもこ
れも根拠はありませんが。

 幕末の蒲生(畑)郷春の日記には異国船の打払いのために、確か大坂蔵屋敷か
ら部下を率いて出陣(?)する下りや、柳沢侯の参勤交代に随って伊勢まで行っ
た下りとか…なんだか業務日誌みたいなことがいろいろ書いてあります。鯨海
酔侯様のおっしゃるとおり、今よりも昔の方が宮仕えは大変だったかも知れま
せん。あ〜今の時代に生まれてよかった…なんて言ったら怒られますかね(笑)。

それから桔梗屋様、当家は決して100万石の大名の子孫ではありません。そ
の主家にお仕えしていた一介の家臣、それも末端の家臣に過ぎないのです。ど
うか誤解のありませんように…。

 三楽堂様のお言葉同様、私も“藝豫地震”の被災地の方々に心から御見舞い
を申し上げたいと思います。大変なことだと思いますが、頑張って乗り越えて
下さいね。


(3423) お久しぶりです  投稿者:桔梗屋  投稿日:03月27日(火)23時09分43秒

三楽堂様、皆様、こんばんは。お久しぶりです。

主計様は、あの戦国のメジャープレーヤー・蒲生家の「御子孫様」とか。戦
国ファンの一人としては、ちょっとジェラシーすら感じます(笑)。何しろ、
ちょっとアバウトに見れば百万石の大大名ですからね。その辺の小大名とは
格が違います。

さて、主計様の書き込みにありました、日記の記述の件について少々。まず、
「定紋鶴丸、替紋五三桐」ですが、蒲生家の家紋の1つに「対鶴」がありま
すので、定紋(じょうもん)の「鶴丸」は鶴紋のバリエーションと考えれば
辻褄があうような気がします。また、替紋(「副紋」や「裏紋」とも言うよ
うですが)の「五三桐」の来歴はわかりませんが、公家かどこか偉いところ
から貰ってきたのかもしれません(具体的な根拠なし)。Bookshelf Basic
 Version 2.0の国語辞典で「桐」という言葉を引きますと、「五三桐」紋が
図示されます。また、「鶴」を引きますと「鶴丸」紋も見ることができます。
まぁ、どうでも良い話しなんですが、興味がある方は試してください。「鶴
丸」って、赤で印刷すると日本航空を思い起こしそうです。

次に、「俵藤太末」の部分についてですが、播磨屋さんのHP「家紋World」
の蒲生氏の頁に興味深い記述を見つけました。

以下、引用:
「近江国蒲生郡には、古代蒲生稲置がおり、相当の名族で、蒲生郡開拓の主
体であったとみなされている。蒲生氏は、この蒲生稲置の後裔と考えられる。
が、一般には秀郷流藤原氏、すなわち俵藤太秀郷の後裔とされている。おそ
らく、いつの時代にか蒲生稲置の後裔が、藤原姓を名乗るようになったのだ
ろう。
 いずれにせよ、藤原秀郷が、はじめ近江国田原に住んで田原藤太と称し、
秀郷の次男千晴より六代の子孫惟俊が蒲生郡を賜わり、蒲生太郎を称したの
が始まりといわれる。」(引用終り)

エッ、この程度の話しは皆さん御存知なのですか。そうですか。どうも、戦
国大名の出自なんて知らなかったものですから、今回は勉強させてもらいま
した。

先に書くべきでしたが、「家紋World」の蒲生氏の頁のURLは以下の通りです。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/gamo_k.html

また、「家紋World」は家紋の成り立ちや大名家・公家の家紋等、家紋にまつ
わる記述が豊富で、素晴らしいサイトだと思っています。興味のある方は、以
下のURLへどうぞ。

http://www.harimaya.com/kamon/index.html

因みに、当家の家紋は「丸に桔梗」です。

以上、長々と失礼しました。

では、また。


(3422) 芸予地震  投稿者:三楽堂  投稿日:03月27日(火)20時16分21秒

まず、被災地の方々、お見舞い申し上げます。トラマさんとか、だいじょうぶだっ
たでしょうか。ほかにもあの近辺、いらしたような・・・

ところで、今回の地震、芸予地震と名づけられたそうです。が、芸予の意味がすん
なりわかる方って、少ないのではないでしょうか。すくなくとも旧国名を知らなく
ては・・・
わたしなんざ、歴史にどっぷり浸かってますから、都道府県名より先に旧国名が出
てきてしまうんですが、けっこう駅名とか鉄道の名前とかに旧国名がつかわれてい
るから、おぼえていて損はないです。
地方自治を声高に叫ぶのなら、いっそのこと、明治政府が官軍・賊軍色分けした県
名など廃して、自由に旧国名を使わせたらと思うのですが・・・
昔の地名は実に味わい深いものが多いです。


(3421) 人事異動  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:03月27日(火)01時24分26秒

4月に異動があるため、残務整理でばたばたしておる。
昔の侍も、部署換えのあったときは、引継が大変じゃったことじゃろう。
今も昔も、宮仕えは辛いのう(なんて月並みなんじゃ)。


(3420) すばらしい  投稿者:三楽堂  投稿日:03月24日(土)22時35分13秒

hazuさん、蒲生家臣団についてお詳しいんですねー。
詳細な系図、興味しんしんで拝見しました。

新刊(予定)情報追加です。
『島左近のすべて』花ケ崎盛明/編、新人物往来社

編者が気になりますが、まあ、左近ファンの方、必見でしょうね。
個人的には関ヶ原以前の、筒井家時代の事蹟とかを掘り起こしてもらいたいな。
あと、左近には対馬出身説とか、対馬亡命説とかがあるので、それについてもふれ
ていたら・・・買いかな(笑)


(3419) 皆さんありがとうございます!  投稿者:主計  投稿日:03月24日(土)16時56分34秒

やはりここで伺って正解でした。芸州浅野様に一門、それも当家が先祖と称して
いる郷貞もお仕え申し上げていたとは存じ上げませんでした。後、…これはあく
までも口頭によるものですが、当家の先祖が石州津和野藩亀井様に仕官していた
らしいという話があります。その真偽は浅学の私には知るよしもありませんが、
もしそれが事実だとしたら芸州様のことを取り違えたか、もしくは芸州より分家
をして津和野に下った可能性のあるのではないか…そうとも考えられるように思
います。何分にも残念なことに資料があまり残っていないため確定できないのが
残念です。hazu様、本当にありがとうございました。これからもいろいろお
教え下さい。

柳沢様の件ですが、これは私も三楽堂様のご指摘のとおりではないかと思ってい
ます。吉保侯の急激なご出世で召抱えていただけたのでは…それしか接点が見出
せないのです。しかし、当家がご本家廃絶後に幕末まで武士の体面を保てたのは
他でもない柳沢様のお陰であり、それを思うとき、蒲生家の末端の我々にはある
意味最もありがたい主家であると言えるかも知れません。

鯨海酔侯様、サインなんてご冗談を(笑)。

滋賀県蒲生郡日野町上野田…日野の町の一角、雲雀丘と呼ばれる蒲生氏郷公の銅
像が建つ辺りらしいですね(←他人事のように…ごめんなさい)

皆さん本当にありがとうございました。


(3418) RE: 初投稿、皆さんよろしくお願い申し上げます  投稿者:hazu  投稿日:03月24日(土)10時40分03秒

主計さま(^^;)

>>かく言う自分の遠祖も近江本貫蒲生家、就中現在同郡内日野上野田の出身で、
>>参議氏郷公の家臣主計介郷貞の末裔と伝えております。後には大和郡山藩主、

 蒲生郷貞の御子孫とはうらやましいですね(^^;)
 蒲生氏の家臣で、蒲生姓を名乗るものというと次の武将がいます。
蒲生郷舎
蒲生郷安
蒲生源左衛門郷成
蒲生郷可
蒲生郷貞
蒲生忠右衛門
 他にもいると思いますが、これらの子孫はいろいろなところにいるよ
うです。

 蒲生郷貞の子孫というものでは、広島浅野家にいたようです。
 『芸藩輯要』によりますと、姓は藤原氏で、氏はもともと上野田と称
していたようです。次に同書に載っていたことを系図に書き直してみま
す。蒲生氏も本姓藤原ですので、上野田氏も一族内である可能性はある
と思います。
 蒲生郷次、郷貞親子が一時浪人したのは、慶長14年の蒲生郷成と岡半
兵衛との争いに巻き込まれての改易、浪人かもしれません。『奥相秘鑑』
によると、このときに蒲生郷成(三春城代)、小倉作左衛門(南山城城
代)、関十兵衛(猪苗代城代)、蒲生彦太夫(伊南城代)などが改易さ
れています。蒲生秀行没後に、岡派が失脚することにより、蒲生郷成派
が息を吹き返します。蒲生彦太夫が郷貞と同一人物だとすると蒲生郷成
の娘婿となります。氏郷との関係はわかりません。

上野田甲斐守郷里―主計助貞次――――――――――――+
          蒲生郷主計助郷次        |
          蒲生氏郷に仕える        |
          蒲生秀行の代に隠居       |
          永沼城代(1万石)       |
          浪人中に京都で卒(慶長19年)  |
+―――――――――――――――――――――――――+
|
+―蒲生郷貞――――――――――――――――――――+
   蒲生秀行、忠郷、忠知に仕える         |
   父とともに一時浪人する、慶長19年再仕官    |
   家老並(忠知の時、3千石)          |
   蒲生氏断絶後も忠知息女菊姫に仕えるが、菊姫逝去|
  後、浅野光晟に仕える。             |
+―――――――――――――――――――――――――+
|
+―甚助郷紀===久馬郷良―――――――――――――+
   400石   浅野宮内忠親の子        |
          500石            |
+―――――――――――――――――――――――――+
|
+=造酒郷澄====斎郷武――――――久馬郷実―――+
   竹腰氏貞三男  三好新六郎三男  270石  |
   450石    360石           |
+―――――――――――――――――――――――――+
|
+=吉蔵郷敬===司書郷寛・・・・・・・
   斎郷武四男  矢島可備三男
   210石   千石


 筈衛


(3417) いらっしゃいませ、主計さん  投稿者:三楽堂  投稿日:03月24日(土)10時15分33秒

ようこそ、戦国群像&小田原評定へ。城代・三楽堂と申します。
蒲生家の方ですか。氏郷は気に入った家臣に「蒲生」姓を奮発したので、他家より
も同姓の家臣が多いのです。あまりに奮発するので他の大名が氏郷をいさめたとい
った逸話も残ります。まあ、このへんはいずれXファイルにて紹介したいと思いま
す・・・

柳沢家に仕えたとのことですが、蒲生家改易後、召抱えられたんでしょうか・・・
少々、想像をたくましくすれば、柳沢吉保が大出世し、早急に大身に見合う家臣を
召抱える必要性が出てきたのかもしれませんね。




(3416) 由緒正しきお家柄  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:03月24日(土)01時34分18秒

主計殿、お初におめもじ。
蒲生家ゆかりのお方とは・・・
今度花押(サイン)を書いて下され(笑)。


(3415) 初投稿、皆さんよろしくお願い申し上げます  投稿者:主計  投稿日:03月23日(金)23時46分19秒

始めまして、今日このHPを発見しました…それにしても皆さん凄いですね、
私など歴史に興味があるとはいえ全然知らないのだということ、そして知ろう
とさえしていなかったんだなと実感致しました。これからはしばしば覗かせて
頂いて勉強させて頂きたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

かく言う自分の遠祖も近江本貫蒲生家、就中現在同郡内日野上野田の出身で、
参議氏郷公の家臣主計介郷貞の末裔と伝えております。後には大和郡山藩主、
柳沢侯の家臣として幕末を迎えております。幕末最後の当主は蒲生隼人郷次で
私から数えて6代前の先祖となります。果たして当家が蒲生家の血統に入るの
かどうか、また何故柳沢家にお仕えすることになったかなどは存じませんが、
郷次の実弟郷春の日記(それも下書きしか残っておりませんが…)によると俵
藤太末・定紋鶴丸、替紋五三桐と書いてありますが(笑)。ご存知の方ござい
ましたら是非教えて下さい(笑)。尚当家の同系には先述の郷春が畑姓を称し
ておりました。

今の時代、歴史から学び取ることは多いと思っています。日々の中にこの国の
将来を憂える度に、往昔の人々の遺徳に思いを馳せております…


(3414) 雪の峠、ほか新刊  投稿者:三楽堂  投稿日:03月23日(金)22時12分48秒

買ってきました、『岩明均歴史作品集 雪の峠 剣の舞』
表紙は馬上の謙信です。って、謙信だよな、これ?
巻末に両作品に登場する人名解説もついていますぞー!

その他の新刊です。
『本能寺の変の群像』藤田達生/著、雄山閣出版
『日本中世の謎に挑む』今谷明/著、NTT出版
『親と子の日本史』産経新聞ニュースサービス
『家康政権と伊奈忠次』本間清利/著、叢文社
『第六天魔王信長』藤巻一保/著、学研M文庫

*『親と子の日本史』には真田昌幸・信幸・幸村、武田信虎・信玄が登場します。
『日本中世の謎に挑む』は、『謎とき洛中洛外図』で自説を論破された今谷氏が、
その後の「回答」をちょっとだけ記しています。


(3413) どうも、主馬さん  投稿者:三楽堂  投稿日:03月21日(水)22時14分02秒

どうやら100回まで来ました。
101回は4月に入ったらスタートするつもりです。引き続き、よろしくお願いい
たします。


(3412) 本能寺の変、これが真相?  投稿者:三楽堂  投稿日:03月21日(水)22時12分53秒

学研M文庫『真相本能寺の変』(桐野作人)を読みました。桐野氏はついさきごろ
までかなり強力に朝廷黒幕説をプッシュしていましたが、本書では、一転、「朝廷
黒幕説」について「あり得ない」と断じ、長宗我部対策の織田政権内部での抗争を
理由にあげています。個人的には、立花京子氏の三職推任説を中心とした論陣に迎
合し、さらに魅力的な説に飛びついて、立花説を否定したと感じられるのですが、
それだけ自説をかためることの難しさを教えてくれているような気がします。


(3411) 覚えてます  投稿者:  投稿日:03月21日(水)01時14分46秒

鯨海酔侯さまこんばんは。

>BGMもなかなか良かったと思われぬか?

はいはい(笑)タッタカタカタって奴ですね(爆)
けど、あのゲームは本当に斬新だったですね。
ドラクエ風ながらもちゃんとした戦国ゲームでしたし(爆)


(3410) 遅ればせながら  投稿者:主馬  投稿日:03月20日(火)23時47分52秒

三楽堂さま、ご無沙汰いたしておりました。
遅ればせながら「戦国X-file」100話到達、おめでとうございます。

また、X-file特別調査官にも任命いただきましてありがとうございました。
また、何か知っていることがありましたらお伝えできればとおもいます。

また、こちらには大学院の方などもいらっしゃるようで、
すごいサイトだなぁと感心してしまいます。

ともあれ、今後の益々のご発展(特に「戦国X-file」の筆の益々の好調!)
をお祈りいたします。


(3409) 花粉症と北条氏勢力圏の関係!?  投稿者:三楽堂  投稿日:03月20日(火)19時27分25秒

毎度、テレビの花粉情報を見ていますが、最近はなんかの拍子で「小田原北条氏勢
力拡大図」などといったものが目に入ると、これだけで鼻がグジュグジュきてしま
います・・・


(3408) もう一度やってみたいもの也  投稿者:鯨海酔侯  投稿日:03月18日(日)11時04分09秒

雅殿、
>ちなみに、降伏勧告の使者がお城に伝令に行くときのアニメ−ションもなかなか
>面白いですね。。。。。
細かいところまで、覚えておるんじゃのう。
BGMもなかなか良かったと思われぬか?某など今でも無意識に口ずさんでしまう
ほどじゃ。


(3407) 管理人さまへ  投稿者:  投稿日:03月18日(日)00時41分29秒

実は僕もHPを運営してます。
みていただいて問題なければ、リンクお願いしたいのですがいかがでしょうか?

『風雲急を告げる旅』  URL:<http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2578/>
「義清の野望」     http://users.goo.ne.jp/muramasa30/

以上ご検討お願いします。


(3406) プレステ2ででないかな?  投稿者:  投稿日:03月18日(日)00時32分34秒

鯨海酔侯さまこんばんわ。レスありがとうございます。
僕にとっても『不如帰』はある意味メモリアルな作品です。
特に、合戦においての陣形の大切さをつくづく感じてしまいました。
あの当時のゲームで、きつつきの陣が出来るなんて(爆)
ちなみに、降伏勧告の使者がお城に伝令に行くときのアニメ−ションもなかなか
面白いですね。。。。。


(3405) うーん  投稿者:三楽堂  投稿日:03月17日(土)21時50分58秒

それなりにスポットを紹介してあげることは容易いけど・・・

>このままだと顧問の独断に・・・・・

顧問の独断がそんなにいやならば、自分たちで相談して決めた案にしてもらうよう、
顧問を説得すべきじゃないの?
アイディアも浮かばないようでは、顧問の独断に頼っているしかないんじゃないか
しらん?

ところで、山野上くんはこれまでにわたしのほうから発した質問には一切答えてく
れていませんよね?(なぜ佐竹義重が好きなのか、とか。で、人事異動でもう関係
なさそうだ、と)
今回も逆質問を発します。
1.過去に行った合宿でのテーマにはどんなものがあったのですか?
2.顧問の方の独断がいやだということですが、その顧問の案はすでに出ているの
でしょうか。(出ているとしたら、どんなものでしょう)
3.だいたいの日程はどのくらいなのですか?
4.見学主体でしょうか、合宿での討議などが主体でしょうか?


(3404) 又現る、間もなく改名か(ハンドルネーム)  投稿者:山野上 春定  投稿日:03月17日(土)17時00分03秒

題名と関係有りませんが
皆さんにお願いがあります
次回の合宿のメインテーマが決まりません。
このままだと顧問の独断に・・・・・
関東とその周辺で今年お勧めの(出きれば個人的な、マニアな場所も可)
ポイントが有れば教えてください


(3403) ひさびさの更新  投稿者:三楽堂  投稿日:03月17日(土)15時06分27秒

戦国街道をゆく、ひさびさの更新をしました。
あの四国の雄を、スペシャル・バージョンで紹介いたします。

http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/choso/mainvew.html


(3402) おめでとうございます  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:03月17日(土)08時36分44秒

秋山如雪様
大学院合格おめでとうございます。
今後は、ここへの研究者の卵としての鋭い書き込みを期待しています。

ところで、研究者って個人情報(住所・電話番号等)が調べやすい職業
です。今後ここに書き込む内容によっては、あなたが誰だか特定できる
ようになってしまうかもしれません。個人情報を開示することを望まな
いのであれば、書き込む内容に注意した方がよいかもしれませんよ。ち
なみにここへのあなたの書き込みの内容をもとにして、私にはあなたの
合格なさった大学の見当がつきました。


(3401) HP開設のお知らせです  投稿者:たけはん  投稿日:03月17日(土)00時18分49秒

三楽堂さん、こんばんわ。
竹中半兵衛のHPですが、本日付で開設致しました。
まだ内容面では不十分なので、随時書き加えたいと思います。
また勝手申してすみませんが、お時間のある時でけっこうですので
HPをご覧頂いて注意すべきことなど、ご指摘頂けましたら幸いです。
厚かましいお願いで恐縮ですが、何分宜しくお願い致します。
追伸 貴HPへリンクさせて頂きましたのでご報告致します。


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