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なーぜか、「毘」の旗をわんさか見かけたんですよ。 おそるおそる近づいてみると、なんかろうそくのことが書いてあったん ですが、どうも「毘」の旗とのつながりがよくわかんなかったです。 >三楽堂さん まじめに読むことはないと思いながら一応、『上杉史料集』買っちゃいました。 こないだもらった手当も手つかず状態だったし。 しかし、頼んだ翌日にうちに届いてすごく驚かされました。 早いなあ。 こないだ、新聞で「歴代古案」の宣伝がしてあったのですが、これって20巻 全部上杉家の史料なんでしょうか?
長尾っぽさん、『上杉史料集』の購入を考えているのですか? 古書はいつ市場に出るかもわからないし、ぜひとも欲しい本であったならば、多少 高くても購入するほうがいいかもしれません。買って後悔するより買わずに後悔す るほうが数倍悔しいものです。・・・って、誘惑の悪魔@三楽堂。 さて、謙信モノといえば、新人物往来社から『川中島合戦再考』が出ます。 監修はあの笹本正治氏(○ケ崎じゃなくてよかったあ)、長野県飯山市の編集だそ うです。「謙信の前線基地だった飯山から川中島を俯瞰する」という内容ですが、 ちょっと楽しみな本ですね。 あと、前にも書き込みしましたが、学研歴史群像シリーズ『上杉謙信』も2月中旬 に出るようです。
詳しく教えてくださってありがとうございます。 すごく参考になりました。
#石之介さん >人物叢書に筒井順慶が出ていたんですか? まぎらわしい書き方をしたわたしがいけないが、ラインナップは刊行予定書目のこ とです。あのシリーズがこんなにいっぺんに刊行されるわけがありません(^^; はやく出るといいですね。 #火打鎌さん 斎藤道三の印象が強烈なのは、たしかに主家簒奪とその最期ですね。 ただ、松永久秀はどこまで気宇が大きかったかわかりませんが、中央にいて将軍と いう傀儡を手にして権力の密の味を知っていたのに対して、道三ほか多くの諸大名 は自領の拡張レベルにとどまっていたのでは? みんなが「そうか。天下号令という手があったな」と慌て出したのは、永禄十一年 の信長上洛以後のことだと思います。道三の場合はかならずしも領国政治がうまく いっていたとは言えません。やや過大評価されている人だとわたしも思います。
人物叢書に筒井順慶が出ていたんですか?刊行予定だということは知ってましたが。ひょっとして永島福太郎氏の著ですか?買わねば買わねば、読まねば・・・
いよいよ『立花宗茂』が出ます。 書目にラインナップされてもなかなか単行本にならず、執筆予定者が死 んでしまうケースもみられる同シリーズですが、やはり執筆内容につい て歴史学会がチェックするようですね。で、不充分とされると差し戻さ れてしまう。書く側もそれなりの力量が要求されるわけです。 今回は立花宗茂の本格的なはじめての史伝です。 この調子で『上杉謙信』もはやく出してくれえ。 同シリーズの戦国関連のラインナップは以下のとおり。 北条早雲、足利義輝、毛利元就、上杉謙信、筒井順慶、狩野正信・元信・ 永徳、証如・顕如、豊臣秀吉、伊奈忠次、茶屋四郎二郎、細川幽斎、加 藤清正、近衛前久、大久保長安、片桐且元、徳川家康、支倉六右衛門、 日奥、立花宗茂、細川忠興、浅井三代、今川義元、尼子経久。 ちなみに出て間もない「真田昌幸」も品切れ中とか。うかうかしていら れないのであります。
『上杉史料集』は正確には「人物往来社(新はつかない)」の戦国史料叢書のうち の1巻です。とはいっても上中下3巻本ですが。 中身は上巻と中巻が大部の軍記モノ「北越軍談」が収録されています。 下巻には「上杉三代日記」「北越耆談」「川中島五箇度合戦之次第」「松隣夜話」 「上杉将士書上」「久知軍記」「古案記録草案」などがおさめられています。 東京のほうでの古書価は3巻組みで2万円前後のようです。3〜4年前に購入した ときもそのぐらいだったと思います。1万円台だったら「買い」かもしれません。 ついでながら表紙がベージュ(わら半紙のような)色と緑地に銀の上杉家紋を配し た2バージョンがあります。わたしが持っているのは後者のほうです。 使う人の目的にもよるので、持ってると便利かと聞かれると困りますが、上杉関連 史料ではわりと安価で入手しやすいものだと思います。
突然ですけど、 「上杉史料集」(新人物往来社・S44) この本は、どんな本なんですか? 持ってると便利でしょうか。 もし、ご存知だったらぜひアドバイスをください。お願いします。 ネットで見つけたんですが、全然中身が分からなくてどうしようかなと 思ってるんです。
<三楽堂様> 本当にありがとうございました。 私も「反対派に仕組まれた」という説に賛成です。 それにしても、その構図は関ヶ原の合戦そのものですね。 なるほど・・・・・・
ありがとうごさいます。 二代ですか、CSの番組でもテレビでやっているともっともらしいですね。 ながして見ていたので自分の聞き違いかもしれませんが。 >美濃から他国へ勢力を伸張できなかったから これも有りますが、私としてはその梟雄ぶりがです。 私のイメージでは、信長が優れた人物に感じられたら娘ごとでも謀殺したり 気に入らない息子は、うまい事始末してしまいそうなのに 実際は気に入った息子や娘とその婿を可愛がっているだけのマイホームパパの 様に感じられるんですよ。 なぜ松永のように最後まで梟雄ぶりを発揮できなかったかが不思議なんですよね。
ひえ。四分間に質問が2件も。 三代・四代によるものではなく、父子二代によるものといわれてい ます。戦後発見された「六角承禎條書」に斎藤道三の父が妙覚寺の 僧侶で還俗して美濃へ来て長井氏を称したこと。息子(道三)が長 井新九郎規秀と名乗ったこと。新九郎が改姓して斎藤利政と称した こと。等々が記されています。従来の『美濃国諸旧記』などの編纂 ものよりも学者の間では「六角承禎條書」を重視しているようです。 小和田哲男『戦国武将』(中公新書)、あるいは永原慶二『戦国時 代(上)』(小学館ライブラリー)などにもこのへんの事情が簡単 に紹介されています。 「今ひとつだよな」というのは美濃から他国へ勢力を伸張できなか ったからでしょうか?
小さな子供が親に「どうして○○なの? じゃあ、××は?」とす るように質問が芋づる式になると、受けるほうもつらくなります。 ドイツでは(?)フラーゲ・デーモン(質問の悪魔)ともいいます。 できれば、「自分が知りたいのは結局、何なのか?」を整理しまし ょう。あるいは的が絞れない場合は「自分はこれこれこう思うんだ けど」と意見を開陳してください。そうでないと、自分の考えも持 てないと思われてしまいますよ。 利休と秀吉の関係、その死因については古来いろいろな説があって、 それこそ「本能寺の真相はいかに?」の謎に匹敵するものだと思い ます。そこで多くの文学的題材や映画にもなりました。 ざっと諸説をあげれば「黄金と侘びの芸術的対立」「利休キリシタ ン説」「利休の娘横恋慕説」「家康内応・秀吉毒殺説」「朝鮮出兵 反対説」などなど・・・ 桑田忠親氏は、上記の説をほぼ否定した上で、利休の死因について それまでもろもろの専横の振る舞いがあったのを庇護者たる豊臣秀 長の急死によって、好機とみた反対派によって仕組まれたのではな いかと言っています(桑田忠親『千利休』)。そして反対派が狙っ たのが「大徳寺山門事件」だというのです。これは利休の木像を山 門に安置した事件で、その下は秀吉も通るのです。不敬罪というわ けですね。これに「茶道具の鑑定などにおける振る舞いなどがけし からん」という理由づけも付随したと桑田氏は説きます。 わたしはこれに全面的に賛成するものではないのですが、気になる のは、公儀=秀長と内々=利休というのがセットだったのではない か?ということ。豊臣家の派閥の中に秀長―利休ラインが存在した のではないでしょうか。このラインは秀長が死んだ途端、平衡を失 ったのではないでしょうか。 さらに、豊臣家の官僚たちが「惣無事令」を発して諸大名の取次を 行っていますが、これを見るといくつかのラインが考えられます。 浅野長政・孝蔵主→徳川家康、伊達政宗、最上義光 増田長盛・石田三成→上杉景勝、佐竹義宣、宇都宮国綱、島津義弘 十年後の関ヶ原の対立構図そのものですよね。諸大名たちは知らず 知らずのうちに豊臣政権の二大派閥のどちらかに組み入れられてし まっていたのかもしれません。このうち宇都宮氏は奉行との関係が 円滑を欠き没落。かわって親徳川派の蒲生氏が下野に入ります。下 野が石田から浅野の手に落ちたようなものです。 浅野長政は先日言ったように「表には浅野長政、奥には孝蔵主」で すから、孝蔵主とセット。バックには当然、北政所がおります。 利休の死ものちの石田グループ・浅野グループの対立に関連付けて 考えたいのですが・・・。 羽柴秀次事件や小早川秀秋養子問題、武断派VS文治派、などの問題 に関しても同様に論じることも可能かと思います。 秀長は蓄財の名人だったということです。利休も商人ですからその へんの事情には通じていたでしょう。まさか秀吉の弟をどうこうす ることはできませんから「私腹を肥やしていた」罪を利休ひとりに なすりつけたのでは・・・?
<三楽堂様> >利休と秀長 なるほど、そういうことですか。 確かに人脈や金脈の面では利休の方が話しが通りやすそうですね。 すると新たな疑問が出てきます。 それほどまでに重要視されていた千利休を何故、秀吉は処罰したのでしょうか? 利休と秀吉の関係はなかなか微妙なものがあったようですが・・・ いわゆる「金の茶室」と呼ばれるものが実在していたとするならば、それが間接 的に利休処罰につながっている可能性もあるのではないでしょうか? 先日から質問責めで申し訳ございません。 なにしろ周りの友人にこんなことを質問しても誰も答えてくれないし、日本史の 先生に聞いても首を傾げるばかりですし・・・・・・
また質問させていただきたいのですが、お許しください。 この前CSの番組を見ていたら、斎藤道三は三代もしくは四代で 美濃一国を手に入れたのが史実であり、これが今のメインの学説だと 言っていたのですが、これは本当なのでしょうか? だとしたら、自分が今まで友人等に主張してきた「道三て美濃手に入れた後、今ひとつだよな」という事も道三が親の跡継いだだけなら納得できるんですが。
KUROさん、こんにちは。太閤記の件、了解しました。 わたしもけっこうテキトーなこと書いているので、人のことえらそうに言えないん ですわ、ホント。 「大友宗滴上坂日記」に秀吉が宗滴に「内々のことは宗易が、公儀のことはかくい う美濃守(羽柴秀長)がよく存じている」と言ったということが出てくるようです ね。この宗滴は大友宗麟のことです。 おそらく公儀とは武将同士の話し合い、軍事・領国経営中心のことではないでしょ うか。また、利休のほうは金策とか、京都における人脈づくり、社交を手がけてい たのではないかと思います。 これと似た言葉に「表には浅野長政、奥には孝蔵主」というものもあるそうです。 出典はわたしの手持ち史料では確認できません。
山岡荘八を出したのは今までの見解が小説にも繁栄されているということを表 すだけで特に参考にはしていません。 異父弟説が広まっている(た?)ということの象徴として出した訳です。 その点、誤解を招きやすい表現だったと反省しています。 ところで、その秀長ですが、当時の言葉に「公のことは大和大納言(秀長)に、 内々のことは千利休に話せば通る」というのがあるそうです。 普通、弟の方が身内なのだから内々の話しが通りそうな気がするんですが、ど うなのでしょうか?
>いわゆる太閤記と呼ばれているものです。 これは小瀬甫庵の「太閤記」のことでしょうか? 「太閤記」は「川角太閤記」や「太閤さま軍記のうち」とかもありますが。 ちょっと気になったのは、KUROさん、山岡荘八の「異本太閤記」を出されてい ますが、これは小説ですよね? 「いわゆる太閤記」で大方の研究者は小瀬甫庵の 作品を連想すると思います。しかし、その直後に山岡荘八が出てくると、かなり面 くらいます。 秀長は秀吉の異父弟ということが本当かどうか?が論点ですから、小説は持ち出す べきではないと思います。 歴史は考証をかさねて次々に書き換えられていきますが、小説はそんなことはあり ません。歴史事実がくつがえっても作品は変わりません。 ちなみに秀吉の父について、甫庵の「太閤記」は筑阿弥の子だから「小筑」とされ、 「太閤素生記」は木下弥右衛門の子であると書かれています。史料でさえこんな調 子ですから、なかなか鵜呑みにもできません・・・ 歴史研究においては、まず小説等を対象外とすること、次に史料の好し悪しをみき わめる、ということになると思います。 もとより掲示板の書き込みは論文とはぜんぜん違います。誤字や誤記はなかばご愛 嬌です。ふつうだったら「ううん。わかんないあ」とお茶を濁してしまうわたしで すが、KUROさんが史学の志され、研究者になりたいとおっしゃっていたため、 あえてヤボなことを言わせていただきました。
<三楽堂様> いわゆる太閤記と呼ばれているものです。 他に山岡荘八著の異本太閤記もそうなってたと思います。 それから異父弟ですが、書き込んだ後にそのことに気づきました。 どうもせっかちな性格なので文章の見直しとかをしないんですよね。 これでいつも試験で失敗してます。
『図説・戦国武将118完全詳細データ集』学研 『戦国時代―16世紀日本はどう変わったか―』(上・下)永原慶二/著、小学館ライブラリー 『完訳フロイス日本史11・黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国』フロイス/著、中公文庫 『大軍師黒田官兵衛』桜田晋也/著、祥伝社文庫 新刊ではありませんが、『西日本人物誌13・立花宗茂』(西日本新聞社)を購入して きました。宗茂・道雪・紹運の各種肖像画もカラー口絵で紹介されています。 *『葵―徳川三代』の終わり方 たぶん、家光の後嗣が生まれたところでおしまいでしょう。島原の乱などはすっと ばされると思います。 *秀吉と秀長 >史書では義兄弟ということになってる2人ですが、果たして本当でしょうか? 史書とは具体的には何でしょう? 「義兄弟」とは本来血がつながらない者同士が、それこそ「盃をかわす」などの行 為による私的な関係と思っていますが。あるいは兄弟姉妹の結婚相手とか。義兄と か義妹とか言いますでしょ? 父もしくは母が違うのであれば、異父あるいは異母兄弟というべきです。 で、秀吉と秀長の関係ですが、現在有力なのは同腹の兄弟です。小和田哲男氏もこ れを支持しているようです(小和田哲男「豊臣一門の興亡」)。 秀吉と秀長を異父兄弟としているのは「太閤素生記」ですが、これまでの史料史上 主義に疑義をはさむようになって、「通説」に対する疑問が出てきたのだと思いま す。
史書では義兄弟ということになってる2人ですが、果たして本当でしょうか? 生没年を見ると秀吉と秀長は3歳しか違わないはずです。 父弥右衛門が死んだのが秀吉6歳の時ですから、なかが離婚してない限り本当 の兄弟ということになります。 特にこの当時の風習から考えれば、離婚するとは考えられませんからやはり・・ この辺どうなんでしょうか? <加賀宰相様> >葵三代 どうでしょうか、私は武家諸法度寛永令を出したところで終わるのでは?と思っ て言うのですが・・・・ 当初は島原の乱まで行くという話しでしたが、とても無理のようですね。 <三楽堂さま> >大学 一応、都内の某文系私立大学を目指しております。 将来は研究者になれればと思っています。 >堺屋さん そういえば前にテレビで早く作家に戻りたいとこぼしていましたね。 内閣から抜けて一番ほっとしてるかもしれませんね。
>三楽堂さま、ウルトラマンガイアさま 以前、こちらの掲示板で大学院進学についての事でご相談に乗っていただき 本当にありがとうございました。おかげさまで色々と考えた結果、修士課程 はまず挑戦してみることになりました。以前は独りで悩んでいたのですが、こち らで書かせていただいてから、スッとして、落ち着いて考えれるようになりまし た。そういうわけでして、今、3年生ながら院目指して漢文と格闘しております。 本当に、ありがとうございました。 ところで、話は全く変りますが、いよいよ来週にせまった大河の最終回ですが、 どうやら、あの調子では島原の乱までいきそうにないですね。一体、どこまで で話を終わるつもりなのでしょうか?まさか、忠長を殺すまで?(だとしたら 暗い雰囲気で終わってしまうような気が・・・)。
ようこそ、戦国群像&小田原評定へ。当コーナー城代・三楽堂と申します。 受験生ですか。 小和田氏を師匠と仰いでいるそうですが、静岡の大学をめざしていらっしゃるんで しょうか。わたしなどは文学部を出ましたが、はずかしながら研究者の名前なんか ひとりも知らなかったです(^^ゞ 堺屋氏といえば、森"泥舟"内閣から脱け出したようですね。たぶん創作活動に専念 できると自身では喜んでいるんじゃないでしょうか。 わたしはといえば、歴史のほうでは・・・師匠いないかも・・・独学なもので。 いつか時間がとれたら、史学部へ入学したいと思っています。
私は一歴史マニアにして現在史学科への進学を目指すKUROというものです。 今年の9月には受験生であるにも関わらず関ヶ原に行きはるか400年前の戦について思いふけっていました。 今のところ歴史上で師と仰いでいるのは豊臣秀長です。 彼のように偉大な補佐役になりたいものです。 現在の方では静岡大学の小和田教授と作家の堺屋太一さんを勝手に師とさせていただいています。 まだまだ未熟な小僧ではありますが、皆様どうぞよろしくお願いします。
毎年恒例の戦国関連ベストです。 ●書籍部門 1.『定本上杉謙信』池享・矢田俊文/編、高志書院 地方出版ですが、なかなか骨太な論文集です。マンネリ化した 研究者(誰とは言いませんが)を避け、若手の気鋭中心にした ところも好ましい。 2.『武田信玄大事典』新人物往来社 予告されてから、ずいぶん待たされましたが、編者もいろいろ 悩んでいたようです。その甲斐あって先行の『上杉謙信大事典』 をも凌駕していると思います。 3.『戦国大名の日常生活』笹本正治/著、講談社選書メチエ 信玄モノが続きます。手放しで礼賛する信玄研究家が多い中で 笹本氏の研究姿勢は非常に好ましく思います。ついでにいえば わたしは「○○公」という言い方が嫌いです。 4.『刀と首取り―戦国合戦異説』鈴木眞哉/著、平凡社新書 刀は槍や鉄砲に比べてなぜたくさん残っていて、しかも保存が いいのか。それは実戦の主役ではなかったからではないか。日 本人のチャンバラ幻想を微塵に砕く名著。 5.『本能寺』池宮彰一郎/著、毎日新聞社 小説でどれか一作といわれたら、コレ。ただし、後半はあまり に飛躍した発想に面食らう。本格探偵小説のツジツマを説明し ているような心地がしてきます。 ※番外編 東京大学出版会覆刻企画『史料綜覧』全十七巻(刊行中) ●映像部門 大河ドラマ『葵―徳川三代』第1回放送「総括関ヶ原」 ●企画展示部門 国立歴史民俗博物館「天下統一と城」2000年10月3日―11月26日
ある意味で「ごみのおてんのう」とよむのは正しいと思います。 「後水尾天皇」というからには「水尾天皇」がいるだろう・・・と思われるでしょう。 しかし、天皇歴代表を見ても「水尾天皇」などおりません。ただし、源氏を輩出した 清和天皇の別名が「水尾帝(みのおのみかど)」でした。 水尾とは洛北の地名ですが、昔は「みのお」とよまれ、「みずのお」の時代を経て、 現在では「みずお」とよまれます。 後水尾天皇は日本史事典などでは「ごみずのおてんのう」という言い方が一般的の ようです。 そういえば、大塔宮護良親王も「だいとうのみやもりながしんのう」から最近では 「おおとうのみやもりよししんのう」とよまれるようですね。 歴史上の人名のよまれかたって、実は結構曖昧なんですよね。 石田三成は、「みつなり」ではなく「みつしげ」かもしれないとも言われています し、新撰組の山南敬介も「やまなみ」ではなく「さんなん」とであるという説も提 出されています。戦国時代の人物でも何とよむのか困る人、結構いるかも。
図書館といえばつい先日、隣の市の図書館に行ったときのこと なにげなく子供の頃よく読んだ本があったので、ざっと読んで 最後のページを開いたところ寄贈印と共に自分の住所と名前が書いてあったので 恥ずかしさに血の気が引きました。 確か親が私が子供の頃の本をどこかに寄付したとは聞いていましたが 住所と学年と名前の入ったのを寄付するんじゃねぇーと思いました。 ちなみに、学校のいい付けどうりに名前を書いたのは母親です。 まさか約二十年の歳月を経てこんな所で恥をかくとは・・・ 自分は周りの目を盗んでサインペンで塗りつぶしてしまったんですが しかたないですよね。
「後水尾天皇」って「ごみのおてんのう」と読むのだと大学の先生に習いました。 でも「葵」では「ごみずのおてんのう」と言っていますよね。どちらがただしい、もし くはどちらも正しいのでしょうか。ご存知の方は、教えてください。
図書館にとって「新しい・古い」は必ずしも価値基準にはならないんですよ。 その図書館が何を専門として「この分野・資料はウチでもっているべき」と判断さ れたものこそ、破損や散逸を惜しんで「保存用」とか「閉架図書」に指定するわけ です。 ましてや活字本ともなれば、初版サイン本などのプレミアはともかく、古書の流通 にしても「たま数」がある(ちなみに天翔さんの書かれていた本は手持ちの古書店 カタログで4500円の値がついてました)わけですから、発行年が古くても必ず しも資料的価値が高いとはいえないのです。 むろん、貸出可能になっているからといって、その本が価値が低いということでは ありません。大事だから「集める」そして「貸し出す・貸し出さない」は図書館そ れぞれの判断がはたらくのです。 利用者側から見れば、貸出してくれるほうがありがたいに決まっていますが、利用 者が多い場合は他人に抱え込まれたり、紛失してしまうおそれがあります。 貸出禁止になっていると「いつでも閲覧できる・コピーがとれる」という安心感が あり、それぞれ一長一短がありますね。
昨日図書館にて、「武具甲冑の研究」なる本を検索で発見しました。 早速書庫から取り出してもらったのですが、なんと戦前(昭和十六年)に発行されたものでした。 戦前のものだけあって旧カナ遣い並びに旧漢字表記なのですが、当時の研究資料として面白いので借りてきてしまいました。 古い資料は、ほとんどが持ち出し禁止になっているのに借りていっていいんでしょうかねぇ。 ちなみにこの本は、「雄山閣刀と剣道編集局」という所の発行所です。
柿崎景家というと「裏切り者」として誅殺されたというのが相場ですよね。 でも、病死説・亡命説とかもあって、とにかくあやふや。あまつさえ、謙信の死因 も便所の中で柿崎の亡霊を見たため、などという逸話も生まれるぐらい。 江戸時代には上杉家代々、柿崎景家を怨霊とみなして供養していたらしいんですが、 どうもそれは江戸時代なかば以降のことらしい。 というのは、例の宇佐美定祐なる軍学者(川中島五戦記などの作者)が監修にたず さわった『上杉家御年譜』の登場以後のことなので、米沢藩のひとびとはそれを信 じてしまったみたい。 では、景家がなぜ怨霊に仕立てられたのかというと、柿崎氏は宇佐美氏とも同族な のです。宇佐美定祐は、広義の宇佐美一族の恨みを書き連ねたわけです。ついでに 言えば、米沢藩の歴史編纂に協力したのは宇佐美のほか、畠山義真がいますが、こ いつも景勝と対立して出奔した畠山義春の息子なわけで、どうも非主流派の鬱憤を こういう形で晴らされてしまったのではないか、と考えます。 ちなみに楞巌寺の過去帳には柿崎景家は天正二年十一月二十二日と記されています。 しかしゲームなどのパラメータ方式では政治と智謀が両方とも低いパターンが気に なる。智謀が低くても政治能力があれば、「寝技は不得意だけど代官みたいな仕事 はつとまる」タイプになりそうだし・・・。ただ、極端に設定しないときわだった 個性(?)が出ないかもしれませんね。 ついでに図書館であたまにくること。 @無断持ち出し。写真集とか多いみたいです。新潟県史の別冊古文書写真帳とかも(爆) A切り抜き、書き込み。蛍光ペンで堂々と! それで価値がさがるのか?と悪びれた様子もない。 B閲覧席での携帯電話 Cカップルでいちゃいちゃ。 Dただ寝ている人。一日中席を占有してしまう。家で寝ろっつーの。 ふだん政治家や役人などを批判してますけど、自分たちのマナーも相当悪いですよね。 司書はけっこうストレスたまる仕事だそうですよ。
ホントに柿崎景家って評価低いですねぇ。またゲームの話になって申し訳ない んですが、信長の野望だとはっきり言って「バカ」扱いですもん。例えば最新作の 烈風伝で言えば、戦闘・采配がそれぞれ93・64なのに対して、政治・智謀は19・10 という能力値。まあ、もう言い尽くされているとは思うんですけどね…。 そういえば、切り抜きってけっこうありますね。特にページを丸ごと持っていか れているのを見たときは、どこを読んでいるのかわからなくなって困りました。
昨日は「図書館ごもり」をしておりました。 上杉関連の史料をあさっておりましたところ、「大蔵大臣田中角栄」の序文が(笑) 『柿崎景家・川中島先陣』という地元本も笑えました。どうも「天と地と」ドラマ 化の直後に書かれたらしく、「裏切り者で好色で残忍な柿崎景家」を一掃しようと 本文で何度も訴えております。 しかし、戦国関連ってどうしてこう「切り抜き」「書き込み」が多いんでしょう。 「書き込み」はまだしもページごとやぶりとられているのは許せない。 特に上杉関連。どっかの史学系の学生か、それとも身勝手なおぢさんの仕業でしょうか。 頭にきました。
太田資正はたしかに永禄七年に岩槻城を追われてから、三楽斎道誉と号してます。 が、とくに南北朝時代の佐々木道誉にあやかったというわけではありません。 太田氏は号に「道」の一字をいれている人が多いのです。 有名な太田道灌もそうです。とくに資正の父は「知楽斎道可」というので、彼自身 も「楽」と「道」をおりこんだ号にしたんだと思います。 あとは資正の長男が昌安道也、次男が道喜、三男が道鷲などと号しています。 道号や法号には安、楽、道、休といった頻繁に使われる字があるので、たまたまダ ブっただけだと思います。 似た号では、毛利輝元は幻庵宗瑞といいます。小田原北条氏の早雲庵宗瑞、幻庵長 綱の2人からとったような号ですね。おそらく関係ないとは思いますが・・・
謙信の友ともいえる太田資正で思い出したのですが、この資正の号(でしたっ け?)が確か道誉と言ったはずですよね。上杉方の史料に「太田三楽斎道誉」と 書いてありました。 そこで三楽堂さまに尋ねたいのですが、この人、道誉って名前を号にしたってこと は南北朝時代の佐々木道誉にあやかったとか、そういうことなんでしょうか? 実はああいう派手な生き方をしたかった、とか? もし、ご存知でしたらお答えください。
お久しぶりです。 謙信の友人の話題が出ておりましたのでちょっと書き込みさせていただこうか な・・・と思いました。 謙信が長尾景虎として家督を継いで間もない頃、越前朝倉家の重臣朝倉宗滴に書状 を送り、宗滴がそれに対して返書を送ったという話があります。 返書の内容は「長尾家とは為景殿の代までは親交していたのに、久しく相互の連絡 が途絶えたままとなっていた、今後はまた親しくつきあっていきたい」といったも のだったと思います。 そして宗滴の文字通り最後の戦となった加賀進攻戦も、景虎の北信濃出兵への背後 支援も兼ねていたともいわれています。 若くして父を失った景虎は、戦国の世の秩序回復に努める宗滴に対し師とも例える べき敬意を覚え、また宗滴は若き景虎に自分と同じにおいを感じていたのかもしれ ません。 それとも単に坊主頭の経験者同士だったから意気投合したか・・・(二人とも出家したり還俗したりを繰り返している)。 宗滴がもっと長命であれば、謙信との間で最強の守旧派軍団が形成されたか も・・・しれません。
謙信は友人が少ないんですが、佐竹義重はその数少ない1人です。 だから謙信の跡をついだ景勝も織田軍団に攻め込まれていたとき、「武田も滅亡し たし、もはや越後のことは心にかけてくれるな。景勝は好き時代に生まれた。越後 一国をもって六十余州に対して、一戦を遂げ、滅亡するは無上の名誉」であるとい う惜別ともとれる書状を送っているんだと思います。 景勝の書状の中でもっとも好きな一通です。 おそらくこの時までに景勝と義重はお互いに会ったことはないと思いますが、この ような内容を書ける相手なのですから、謙信以来の両家の結び付きの強さをうかが うことができます。 岳宏一郎の『群雲関ヶ原へ』でちらとこのエピソードが紹介され、佐竹へ赴いた直 江兼続が佐竹義重から「おまえの主人はあのとき、こんな手紙をよこしたぞ」と言 う場面があります。景勝はあとで聞かれても「覚えてない」という、まあ、彼のダ ンディズム(照れていたのかも)をきわだたせるエピソードに仕立てられてはいま すが、もとになった書状自体は「佐竹文書」「越佐史料」に所収されていますから 実際に佐竹側へ届けられていたことになります。 江戸時代になっても両家は仲(関ヶ原の一蓮托生?)がよかったみたいです。 あと佐竹というと、太田資正が客将として招かれているので、けっこう関心ありま す。結局、関東で北条氏の攻勢をふせぎきったのは、佐竹と里見、宇都宮ぐらいな ものですから・・・ わたしは「天下統一」(最初のバージョンのほう)というゲームをむかし、やって ました。信長の野望シリーズと違ってグラフィックはほとんどないんですが、「勝 てない者は勝てない」というシビアなところが、逆に必死にがんばってもジリヒン に陥っていく小大名の末路を体験できて面白かったです。「信長の野望」はどのバ ージョンまでプレイしたか忘れましたが、信長の下に信玄だの謙信だのが家来にな ってしまう状況に飽きて投げ出してしまったと記憶してます。部将の数も多すぎて 内政も軍事も何にもしないで遊んでいるのもいましたっけ。
なんか「信長の野望・烈風伝」の話題が出てきたので思い出したのですが、あの ゲームはマイナーどころの大名でプレイできるのがいいですね。 何を隠そう、マイナー指向の強いわたしは今回常陸の佐竹氏でプレイしています。 列伝や本などを見るとこの佐竹氏というのはなかなかのしたたか者のようですね。 伊達や北条と戦いながら、他家に養子を送りこんで家を乗っ取ったり、秀吉にも 家康にも通じて家を存続させたそうですね。 もし、自分が大河ドラマを作るなら「戦国佐竹三代」と題して義昭・義重・義宣 の三代を描きたい、なんて都合のいいことを思ってしまいました。でも、こんなの やっても視聴率取れないか・・・。 それにしても「信長の野望」シリーズも進化しましたね。初代からプレイしたこと のあるわたしには全く驚きです。 全国版では、六角や別所といった小大名はわずか1ターンで滅んだこともあった のに・・・。ようやくマイナー大名に光が当てられてきたようで嬉しいかぎりで す。
今、『大正天皇』(原武史/著、朝日選書)を読んでいますが、これは面白いです。 特に大正天皇のイメージが「遠眼鏡事件」ぐらいしか思い浮かばない方にはぜひと も読んでもらいたい。 ちなみに大正天皇は皇太子時代に米沢で川中島模擬戦を、長野では川中島古戦場跡 と妻女山登山を体験しています。 #火打鎌さん >千代という名前が男名詞だからその正体はオカマであるというのは たしかに「竹千代」「菊千代」という幼名が多いですよね。ただ千代という女性は 山内一豊夫人以外にも前田利家側室や息女にもいます。男名詞というよりは、単純 に「長命を願う」といった意味合いにとっていましたが・・・。 #天翔さん >管理人のおじさんはイスに座ったまま昼寝をしていました… その昼寝をしているおじさんに「展示品や所蔵品を紹介した目録をおつくりにな らないんですか?」と質問して怪訝な顔されてしまいました。
いえいえ、開発なんて…。そんな技術ございません(笑)。 信長の野望・烈風伝というゲームには、新武将作成機能なんていうもの がありまして、これでゲームに登場しない武将を作っていたわけなんです。 超私的戦国史が作れるぞ、みたいなゲームになってます。 本も探してみます。 >その正体はオカマであるというのは う〜ん、ちょっと調べてみたいですねぇ。立花宗茂の室、ァ千代も 千代がついてますんで、男みたいに育てられたということなんでしょうか?
以前、ここでお話がでていた「佐藤博物館」へ行ってきました。 本当は、「美味しいドリア」を食べに長野に入ったのですが、その店から佐藤博物館が 近いことに気付き寄ってみたしだいです。 平日の午後とあって、人はいませんでした。しかも、管理人のおじさんはイスに座ったまま 昼寝をしていました…よっぽど人が来ないのでしょうね。 ぐるっと館内を一回りしてきた頃、お客さんが3人ほど見えられていましたが、すぐ帰られたようでした。 鎧の違いなど勉強できてよかったです。川中島の錦絵もおもしろくてよかったです。その錦絵が欲しくなりました。
自分のくだらない質問にお答えくださってありがとうございます。 筆統的三姉妹として小野お通の名が出ているのをみて私は 小野お通といえば信長、秀吉、家康などとあやしいというのを 読んだ事があるので違う天下人三兄弟を思い浮かべてしまいました。 ところで話は変わりますが、八切説の山内一豊の妻千代は 千代という名前が男名詞だからその正体はオカマであるというのは どうなんでしょうか?
ありがとうございます、我夢さん。 思わず地図を取り出してしまいました。最近、新潟の地図が活躍するもので。 北信濃までカバーしている全体図で、小菅神社・高社山・富倉が確認できました。 これが謙信の退路のひとつだったのですね。 今みたいに上信越自動車道、ないもんな〜 それにしても、「渡し」に関する逸話では、村上義清の奥さんが葛尾城から逃げて いく時に、船頭に笄(こうがい)を礼として渡している「笄の渡し」がありますね。 また、この「綱切り」の折かどうかはわかりませんが、謙信が蕎麦の花を見て、海 だか川だかと間違えたという逸話もありますが、これは信玄のほうでも小田原北条 氏を攻めたあと三増峠の合戦時に武田の兵たちが蕎麦を相模湾と思い込み、悲嘆し て自殺したため、この在所では蕎麦をつくらなくなったという逸話が残っています。 どうも川(渡し)とか蕎麦って、ものがなしい逸話が多いようですね。
>あ、この話ははじめて聞きます。そんな逸話があるんですか。何で綱を切らせ >たんでしょうか? しめ縄?ってことないですよね え〜〜と、これは飯山地方に伝わってるもので、川中島から逃げてきた謙信御 一行様が、高社山を回って木島から「安田の渡し」で千曲川を渡り、追っ手を 振り切るために、渡しの綱を切りました。そして飯山を抜け、富倉峠を越えて 越後に帰った。って言うものです。 途中、飯山市街を抜けた所で、小島弥太郎が自害。墓も近くの寺にあり、自害 の場所は「鬼ガ峰」といわれています。そこからは、峠道がず〜と見えるんで す。もしホントの話なら、弥太郎は謙信の去ってゆく姿をずっと見送ったんでしょうね。ちょっとウルウル。 ……したがって「綱切り」とは、昔の川を渡る「渡し」の綱の事でした。 今も、ここにかかる橋は「綱切り橋」といいます。 ここで、小島弥太郎に関する偶然の一致(?)をいくつかみつけました〜〜。 ははは。 以上、地元アピールでした(笑)
歴史研究会と申します。 このたびホームページ「インターネット歴史館」を開設いたしました。 まだまだ発展途上ですが、皆様のご意見などを聞き、さらに充実したいと思います。 また、博物館などの歴史関係イベント情報のコーナーもございます。 ぜひ、ご利用ください。 http://www.rekishikan.com/ 歴史読本でおなじみの新人物往来社のホームページからもアクセスできます。 どうぞよろしくおねがいします。
#高山我夢さん >面白いものと言えば、謙信の『綱切り』の伝承にまつわる槍が展示してありま >した。「こんなものが小菅にあったんだ〜」と、ちょっとウキウキ。 あ、この話ははじめて聞きます。そんな逸話があるんですか。何で綱 を切らせたんでしょうか? しめ縄?ってことないですよね、船頭に 感状わたしたんですから。 先祖が300年以上前からわかっているなんてすごいですね。わたし のところも本家(むかしお葬式の時にうちの親父たち兄弟が集まって つくったのはあるらしいです)か、菩提寺の過去帳にでもあたれば、 もう少しわかるのかな。神奈川県の歴史人名事典によると江戸後期に 名主をつとめていたみたい。本家の在所と同じなので。うちはどうも 武田の遺臣みたいです。 #アオキさん >というのは、「信長の野望・烈風伝の新武将として登場させたい!」 おや。開発されている方ですか。 十時三弥介(三弥左衛門ではなかった)は覚書をのこしていました。 『十時三弥介書上之写』(改訂史籍集覧に所収) 内容は島原の乱が主ですから、朝鮮出兵の頃はまだ青年だったのでし ょう。実名は惟保(これやす)のようです。 改訂史籍集覧には、ほかに天野源右衛門貞成の『立花宗茂朝鮮記(天 野源右衛門朝鮮軍物語)』が収録されています。 列伝、がんばってください。 #秋山如雪さん 桔梗紋は、うちの親戚にもいますよ。明智光秀の家臣の子孫とかで、 平凡なようでいて、なかなか珍しい姓です。坂本で毎年開催されてい る「光秀サミット」とかに叔母が飛び込み参加して溝尾庄兵衛の子孫 だということがわかって、会報の原稿を依頼されてしまい、わたしが 代筆したことがあります。如雪さんとこは土岐氏の系統なんですかね? はやく寝たらこんな時間に目がさめてしまった(^^;
うちは家の系図も何も残っていないので、実は詳しくは家紋を知りません。 ですが、父親の話によると、「桔梗」の紋とか言ってました。確か明智光秀も桔梗 の家紋ですよね。もしかしたら同じかも。 でも、自分の家の家紋は未だに一度も見たことがありません。 多分宗家にはあるのでしょうが、うちは分家なので。
こんばんは。アオキです。 管理人様、早速お答えいただき、ありがとうございます。 実は今回調べていたのには理由がありまして、まあその理由 というのは、「信長の野望・烈風伝の新武将として登場させたい!」 というものだったんです。 その武将のエピソードなどがわからないので、なかなか能力が 決められませんでした。ですが一番困ったのは、列伝に書くこと がないという点でした(笑)。 それと十時三弥の件もありがとうございました。危うくあの エピソードを列伝に書いてしまうところでした(笑)。 立花家臣団以外にも、諏訪部定勝あたりも出してみようかな と思っています。 いろいろありがとうございました。
こんにちは、お久しぶりです。 今日、地元飯山の小さな小さなギャラリーで『小菅の文化財展』というのがあ りまして、仕事の徹夜明けでふらふらでしたが、最終日だったのであわてて 行ってきました。 小菅八所権現は謙信もよくお世話(?)になった、飯綱、戸隠と並ぶ北信濃の 三大霊場だったのですが、ここのめぼしい宝物はみんな上杉と一緒に会津、米 沢に行ってしまっているので、ま〜〜たく期待してませんでした。が、やっ ぱ、その通りでした(笑) 面白いものと言えば、謙信の『綱切り』の伝承にまつわる槍が展示してありま した。「こんなものが小菅にあったんだ〜」と、ちょっとウキウキ。 この伝承では、綱を切った時の船頭に感状を手近にあった鍋の蓋に書いて渡し たと伝えられていて、その鍋蓋は昭和の始めの火災で焼失したと、以前聞きま した。この関係はおもしろくって、ちょこちょこ聞き込みをしてるんです(笑) 家紋……家のは、丸に違い矢羽です。元々は信玄のお膝元、甲斐の国で〜す。 戒名の系図が330年ほど前からのものがあります。その前のもあったらしい んですが、焼失したらしいです。お墓はずっと前に1回だけ行った事があるん ですが、すごく広い墓地だと思ったら、みんな一族のお墓だと聞きました。 びっくり。でも、その時はまったく歴史に興味がありませんでした〜(笑) 時間ができたら、自分の先祖探しもしたいですね。
立花家臣団について いろいろ質問を受けますが、ほとんど共通した回答としては「本屋 で見つけようと思うな」ということです。つまり、現在、流通して いる本には望むものがほとんど見当たらないという意味です。 だから、図書館にあたることになります。 立花家臣団については、わたしの手元にあるのは『碧諦館大戦記』 という本のコピーです。大正十一年に民友社(例の徳川家康が乞食 坊主だったという本を出した出版社です)から発行されました。 ここに「略伝小伝」という項目があり、立花宗茂に従って朝鮮陣に 出征した部将たちについて紹介されています。 この中で安東連直の項目に「時の人、家忠および十時右近大夫、由 布大炊介、高野大膳を目して戸次の四天王と称せり」とあります。 九州地方の軍記にあたるのも有効かと思います。『浅川聞書』など があります。 次に十時三弥について。 十時伝右衛門連久・同孫右衛門連貞ともに「三弥左衛門」の名乗り は見当たらないのでおそらく別人ではないでしょうか。十時三弥は 「略伝小伝」には出てきません。稲富とのエピソードは細川家の記 録である『綿考楫録』に出てきます。 こんなところでよろしいでしょうか?
はじめまして。アオキと申します。 はじめてのくせにいきなり質問する無礼をお許しください。 今立花四天王について調べています。しかし雪下以外の 十時連貞、安東家忠、高野大膳に関する資料が見つかりません。 もしご存知の方がいらしたら、ぜひ教えてください。 よろしくお願いします。 それから管理人様。Xファイル・稲富祐直に出てくる十時三弥 なる人物は、十時連貞と同一人物なのでしょうか? ちなみに我が家の家紋は丸の中に羽が交差しているやつです。 <家紋