小田原評定・バックナンバー

過去ログ3001番目から3050番目までの記事です。


(3050)はじめまして  投稿者:大野三太夫  投稿日:09月23日(土)21時01分35秒

はじめまて。三楽堂さん。先日仕事で金沢に出張した折、加賀百万石祭り
なるものをやっておりました。何でも前田利家の金沢城入りを模した祭りだとか。
実物は仕事が忙しくて見に行けなかったのですが、小松空港のテレビで指を
咥えてみてました。通算2ヶ月も金沢に通っているのにまだ兼六園すらみてま
せん。くう〜。
また行きますので、今度河豚の卵巣でも土産に買ってきますね。


(3049)テレビ探偵団を見てました。  投稿者:三楽堂  投稿日:09月21日(木)23時25分40秒

伊達政宗(柴田恭兵)の子供時代、すなわち梵天丸をキンキキッズの堂本剛が眼帯
して演じていたんですねー。

そういえば、大河の藤間くんはどうしたんだろう?


(3048)バガボンドといえば  投稿者:三楽堂  投稿日:09月21日(木)21時18分32秒

いつも中途で買うのをやめてしまう(知らぬ間に家人が買い足してくれている場合
もある)わたしですが、ひさびさに全巻購入ペースで続いているのが『虹色のトロ
ツキー』と『バガボンド』。『トロツキー』のほうはあと1巻だかでおしまいだか
らいいですけど、『バガボンド』のほうはちと気になる。先日、コンビニで掲載誌
を立ち読みしたところ、なんと柳生兵庫助が登場してましたね。
おふろの中で「武蔵どのですな?」「柳生兵庫よな?」はありませんでしたけど。


(3047)池宮版『本能寺』  投稿者:三楽堂  投稿日:09月18日(月)21時29分03秒

・・・を読了しました。『四十七人の刺客』以来、池宮彰一郎の長編小説はほとん
ど読んでいます。今回の『本能寺』も現代の政官財界への痛烈な批判が込められて
おります。小説としては非常に面白いです。多少、荒唐無稽な点を差し引けば。
読み終わったあと、結局、政治は変わらないのかあ〜といった絶望と憤りがいりま
じった疲労感を覚えました。
個人的には『島津奔る』の爽快感と主人公島津義弘の重厚な存在感が好きなのだが。

それと、出てくるやつらが怪物ばかりで、理知的な光秀が気の毒でさえある。
あ、信長もね(謎)


(3046)岩櫃城址にもノートありました  投稿者:向井佐平次  投稿日:09月18日(月)00時06分57秒

去年、岩櫃に行ったときにも本丸そばの東屋風建物の中にノートを発見しました。
何か書いてきた気がしますが、訪れる人はほとんどいないようで、草をかき分けて登った記憶が・・・


>先日の「真田氏と上田城」の現地研修での「真田本城跡」へは、『登るんですか?』と
>思わず質問してしまいました。『えぇ、登るんです』といわれ、一瞬怯んでしまいました。
>が、何のことはないバスで登りました。^^;
>とても見晴しの良いところで、向いに戸石の山や松代街道が良く見えます。
>10/11にお時間がありましたら、ご案内します。もう、いかれたのかな?

ちょうど6年前に誰の案内も請わずに本城跡に車で行きました。
偶然たどり着いた感じで、二度と行けないと思っていました。
10月なら紅葉も始まっているでしょうか。。。


(3045)葛尾山の頂に?  投稿者:三楽堂  投稿日:09月17日(日)12時01分17秒

葛尾山のてっぺんにはノートがおいてあるんですかー。へえー。
ともかく坂城の駅をおりて商店街の行く手に屹立している威容を目にして、すぐさ
ま登るのをやめてしまいました。
あ、坂城の駅舎で昼間っからビールを飲んでいたのは、わたしです。

>上田駅の北口は「お城口」、南口は「温泉口」という、名前がついています。

ああ、これでわたしにはもう出口が4つあるものだと思わされてしまいます。
方角とかには強いはずだったのですが、最近、道に迷うことが多くなりました。
佐平次さん、前日から上田入りですか。わたしは当日上田か長野に宿をとるつもり
でおります。

昨日紹介した佐藤博物館のHPです。収蔵品の一部は家にある『上杉名宝集』で再
確認できました。上越の林泉寺宝物館や米沢の上杉神社稽照殿にくらべて知名度は
低いですが、上杉ファン必見です。

http://www02.so-net.ne.jp/~y-sato/hakubutukan.htm

こちら(武州)のほうは昨夜から今朝にかけて雷が鳴ってました。ひどくなる前に
帰宅したので被害には遭いませんでした。


(3044)上田より  投稿者:madame minmin  投稿日:09月17日(日)09時36分50秒

先日の大雨で東海地方は、大変な災害を受けましたが、皆様は、いかがでしたか?
年間降水量が、1000ミリ以下の上田では、1時間に97ミリという、大雨でしたが、
幸い大きな災害にはなりませんでした。ほっ!

>三楽堂さん
お近くまでいらしたのですね。葛尾山は、10年以上前に一度家族でのぼったことがあります。
頂上の東屋には、名前や感想を書くようにノートが 置いてありましたが、
今は、どうなっているでしょうか? 最近、とみに山登りがきつくなりました。(笑)
先日の「真田氏と上田城」の現地研修での「真田本城跡」へは、『登るんですか?』と
思わず質問してしまいました。『えぇ、登るんです』といわれ、一瞬怯んでしまいました。
が、何のことはないバスで登りました。^^;
とても見晴しの良いところで、向いに戸石の山や松代街道が良く見えます。
10/11にお時間がありましたら、ご案内します。もう、いかれたのかな?

>佐平次さん
上田駅の北口は「お城口」、南口は「温泉口」という、名前がついています。
いまだに言い慣れなくて、夫を迎えにいった時、お互いに別の場所で待っていて
30分以上もうろうろしてしまったことも………。
お宿は提供できませんが、決まったらお知らせくださいね。お迎えに参上します。


(3043)逆越山してきました  投稿者:三楽堂  投稿日:09月16日(土)21時11分40秒

いってまいりました、信越へ。
仕事を終えて、いったん帰宅。慌しく仕度(地図と着替えを放り込むだ
け)して夜行バスで一路、直江津へ。
明け方5:30に直江津到着。せまい車内でからだがゴワゴワに。

上越市内では十念寺(浜善光寺)、五智国分寺、居多神社、光源寺を見
学。光源寺の裏手にへばりつくようにあった村上義清の墓に詣でる。

春日山城へ。途中、天翔さんが書き込んでおられた謙信公祭のポスター
を酒屋の窓に発見。しばし見学。

春日山城、登るのは10年ぶり(爆)。今回はじめて大手道から登るの
だ。整備されていて途中の眺望もなかなか。入り口に「ウォーキングマ
ップ」が用意されているのもなかなか親切。車だといったん駐車場に置
いてから戻らなければならないのでちと不便だね。大手道を行くのはわ
たし一人だった。もっとも、それをこそ望んでいるのだけど・・・

「この土を本丸へ運んでください」という立て札が。袋詰めされた土が
テンコ盛りになっていたが、満員の夜行バスで体力を消耗している身、
失礼させていただく。(マジで時々、足が前に出ずに転びそうになる)

無事、登攀いや、登城。本丸付近はあまり変わっていなかったけど、あ
の立て札が少し大きすぎ。三の丸跡のものには「近年、とくに賑わって
います」という意味のことが書かれているし(笑)

「春日山城古図」(家臣団の屋敷地が記された春日山城の絵図)を買っ
て帰りました。15、16日と長大な筒を背にしょって上越・長野を徘
徊していたのはわたしです。

その他、寄ったところ。
●林泉寺
去年も行ったのだが、ついで。アマゾネス、じゃなかった、レディーた
ちの集団をかいくぐって見学。
●坂城町(長野)の村上義清関連史跡
居館跡、墓所など。もちろんこんなところを訪れるのはわたしぐらい!?
ちなみに、葛尾城は見ただけで気力が萎えた。昔は羽黒山と山寺を一日
で両方のぼったものだが、さすがに午前中、何も食べずに春日山城を登
ったあとではきつすぎる。
●佐藤博物館(東日本唯一の甲冑武具専門博物館)
今回の目玉。上杉関連コーナーが設けられ、景勝が元服の時に着用した
童具足や謙信愛用の軍配、軍旗、紺地朱日の丸馬標や川中島関連の錦絵
が見られる。見学者はわたし一人だったので、堪能いたしました。図録
を作っていないとのことで、長野へ戻る電車の待ち時間の間、上杉関連
の展示品のみ名称をメモってきました。

いやーとにかく信越地方、暑かった!


p.s.

あ、そういえば長野の書店で見かけましたが『武田信玄大事典』が出た
ようですね。先行する『上杉謙信大事典』にくらべると、悔しいけど数
段素晴らしい内容です。単純に五十音順(けっこうひきにくい)に項目
立てしている謙信にくらべて、テーマ別に分けられています。やはり編
者の力量の差、でしょうか。


(3042)旗だけは・・・  投稿者:向井佐平次  投稿日:09月15日(金)23時51分09秒

>ところで、三楽堂さんと、佐平次さんも初対面?
>だったら、やっぱり六文銭の旗立てて、おでむかえせねば(笑)

初対面です。

私は前日から上田入りするつもりで、今宿をどうしようか思案中。
3〜4年前に泊まった時は北口?にあって現在は南口?に移った東急ホテルor
池波正太郎真田太平記館にパンフレットが置いてあった上田ロイヤルホテルを
予約しようかなぁ〜って思っています。


(3041)どうもありがとうございます  投稿者:金吾右衛門  投稿日:09月15日(金)10時46分56秒

三楽堂さん、御宿勘兵衛についての解説ありがとうございました。

大阪での戦いについては余り知らなかったので、面白く読ませてもらいました。
それにしても、白糸威しの鎧とはカッコイイですね。でも、出血した時一番無残な
見栄えになりそうですね。その辺、赤糸威しとは対称的に戦意にも影響しなかった
んでしょうか。それとも死装束的に死兵の恐ろしさのようなものを敵兵にあたえる
効果もあるのかな。
ただ、敵から馬をもらい死に際を飾ろうとする辺り、塙団衛門みたく大阪方の武将
の多くは、いかに死をもって名を残そうかという戦い方をしていたみたいですね。
その執念すごいものですね。

勘兵衛といえば(七人の侍にもいましたが)、やっぱり渡辺了が有名なんでしょう
かね。以前、三島市教育委員会発行の「山中城」を片手に山中城址を歩いてみまし
たが、渡辺の突撃たるやすごいものですね。付録についてた「渡辺すい庵(漢字忘
れました)覚書」の記述もライブ感あって、イメージがすごく沸いてきました。
小幡といい、渡辺、御宿といい、勘兵衛という武将は戦人のイメージぴったりです
ね。ほかにも戦国武将で勘兵衛という武将はいるんでしょうかね。

ではまた。


(3040)RE どうも恐れ入ります  投稿者:madame minmin  投稿日:09月14日(木)23時47分08秒

>池波正太郎記念館で佐平次さんと呼ばれても・・・
        あはは、楽しいんじゃない(笑)
なんて書き込んじゃったけれど、やっぱり恥ずかしいですね。
まぁ、取りあえずは、戸籍名で……。そのうち素敵な名前が思い浮かぶかも。
ところで、三楽堂さんと、佐平次さんも初対面?
だったら、やっぱり六文銭の旗立てて、おでむかえせねば(笑)


(3039)いらっしゃいませ  投稿者:三楽堂  投稿日:09月14日(木)20時22分33秒

ちょっと前に「かんべえ」といわれて連想する人物が人それぞれという
書き込みをいたしましたが、なるほど御宿勘兵衛もおりましたなあ。

いらっしゃいませ、金吾右衛門さん。小田原評定・城代の三楽堂と申し
ます。

御宿勘兵衛、わたしもそんなに詳しくないです。ご存じのことばかりか
と思いますが・・・

政友、あるいは政倫ともいいました。
葛山播磨守綱氏の嫡子で、御宿監物入道友綱の養子となったとか。友綱
は武田氏に仕えた武士でしたが天正十年、主家滅亡時に勘兵衛は幼少だ
ったそうです。没年四十九歳というから、当時十五歳ぐらいだったのか
な。小田原北条氏に仕えて、御宿勘兵衛と名乗りました。父親宛の書状
も残っているので、父子ともに仕えたのかもしれません。この間の活躍
はわかりません。小田原攻め以後、結城秀康に仕えます。一万石もらっ
たそうですが、間もなく出奔。わたしの推測ですと「越前」と称してい
たのが主人の気に障ったものか。ちなみに勘兵衛の父友綱も「越前」を
称していましたから、巷説いわれる「大坂方が勝ったら旧主の越前を所
望するぞ」と御宿越前と称したのはつくり話だと思います。
彼はどちらかというと武田氏の一族であることを誇っていました。
大坂の陣では大野治房隊に所属。この時の扮装は「荒浪」という名馬に
乗り、白糸の鎧に梨子打ち烏帽子の冑を着していたとか。紋所はもちろ
ん武田菱で、五色の幣を馬印に、三千余りを率いる副将格でした。五月
七日、松平忠直の軍勢と戦い、野本右近に討たれたといわれます。勘兵
衛の活躍は真田幸村隊壊滅後のことで、野本には「浪々の身の上なので
馬を持っていない。最期は立派な馬に乗って、快く一戦して名を後代に
残したい。この旨を忠直卿に伝えて欲しい」という一書を送ったそうで
す。頼むほうも頼むほうなら、送るほうも送るほうです。立腹しながら
も忠直は「荒浪」という秘蔵の名馬に金覆輪の鞍を置かせて、大坂城へ
送ったという逸話の残っています。

父親の友綱の名が出てくる書状は『戦国遺文』などに数編収録されてい
ますが、勘兵衛とも思われるものはなさそうです。上記の馬を請う書状
などが残っていたら面白いのですが。


今晩これから旅に出ますのでこれにて。行く先は春日山城です。
ではでは。


(3038)御宿勘兵衛政友について  投稿者:金吾右衛門  投稿日:09月14日(木)02時10分05秒

どうもお初に参加させて戴きます。
私、生まれも育ちも相州小田原、後北条ファンの金吾と申します。
以後宜しくお願いします。

突然ですが、どなたか北条家臣で御宿勘兵衛政友(みしゅくかんべえまさとも)に
ついて教えてくれないでしょうか?
北条滅亡後、結城秀康に仕えた後、出奔して大阪の陣では豊臣方についたこと位し
か知りません。北条家ではどのくらいの階級の武士で誰の下に属していたのか。
秀吉の小田原攻めの時は何をしていたのか。大阪の陣ではどういう働きをしたのか。
どんなことでもいいので、教えてくれると助かります。
小田原北条ファンが天正十八年以降の戦国史に興味をつなぐ希望の星です!(笑)


(3037)どうも恐れ入ります  投稿者:三楽堂  投稿日:09月13日(水)19時41分04秒

madame minminさん(OBASANも抵抗あったけど、刀屋で「マダム」とか「ミンミンさん」
とか言わなけりゃいけないんだろうか?悩んで胃に穴があいたらどうしよう・・・)

文面、わたしのほうは特に問題ありません。つけ加えておくと、参加表明した3名は
わたしの知るかぎり、初対面ですので、新顔の方も遠慮なさらないでくださいね。


(3036)九月十三夜  投稿者:三楽堂  投稿日:09月13日(水)19時35分15秒

今日は九月十三日。謙信があの名詩を賦した日だ。太陽暦だと十月十九
日なんだけどね・・・(^^;
武将がつくった漢詩では伊達政宗の「馬上少年過ぐ」と並んで双璧とい
えるだろう。とはいっても、謙信が生涯でつくった漢詩はたったこれだ
け。ほかは和歌。そこから後世の作(頼山陽とかね)であるというのが
有力視されているが、気分的には謙信はたぶんこうだったんだろうなー
と思わせるに足る。もう、こまかいことはいいっこなし!

  九月十三夜

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷遠征を憶ふを


「日本外史」より

まあ、一言でいえば、景色も最高!気分も最高!家のことなどどうでも
よい!といったところか。


(3035)RE 参加者募集中・・・上田オフ会  投稿者:madame minmin  投稿日:09月13日(水)15時25分56秒

私のHPにも「上田オフ会」参加者募集の記事載せました。
三楽堂さん、佐平次さん、これで良いかご確認下さい。

http://www.karuizawa.ne.jp/~asuka/ueda/uedaof.html

>池波正太郎記念館で佐平次さんと呼ばれても・・・
 あはは、楽しいんじゃない(笑)

追伸
本日、現地研修。
名古屋地区で豪雨災害の中、申し訳ないような良い天気の中で、
行われました。報告は、後日。真田氏の本城には、感動しました。


(3034)関ケ原・座談会  投稿者:三楽堂  投稿日:09月10日(日)07時21分47秒

「文芸春秋」10月号で「関ケ原400年の恩讐を超えて」という題の座談会が掲
載されています。黒田、毛利、島津、山内の各当主という、やや物足りない面々で
すが・・・
「なぜ、あそこで傍観したんだ!?」
「おまえこそ」
・・・とつかみあいになったら面白い。

あ、そういえば今朝の朝日新聞日曜版は「関ケ原合戦図屏風」です。家康の養女満
天姫の嫁入り道具だとか。石田三成直系のご子孫(津軽氏に匿われた杉山八兵衛の
子孫)も登場。


(3033)参加者募集中・・・上田オフ会  投稿者:向井佐平次  投稿日:09月08日(金)00時18分57秒

池波正太郎真田太平記館のHPへ久々に見に行って、
以下の所にリンクが貼られていることに気がつきました。

http://www4.justnet.ne.jp/~yokohamaft/IKENAMI.htm

はじめのページに東京神田のまつやの前で
たばこをふかす在りし日の氏の写真があります。
まつやのそばは旨いっす。
刀屋とはまた違ったうまさ。


話は変わりますが、現在
"完本池波正太郎大成"の真田太平記全3巻のうち
1巻目を読み終わりました。
本日、前田利家が死んだところを会社の休み時間に読みました。
今回で読むのは7回目?ですが、読み出したら止まらなくなる。。。


>で、オフというと・・・いつも悩むのですが、お会いしたら「minminさん」とか
>「佐平次さん」とかお呼びしなければならないのでしょうか?

私自身オフ会に参加するのは今回が初めてなんですね。
どうやってお呼びすればいいのでしょう??
池波正太郎真田太平記館で佐平次さんって呼ばれても・・・



(3032)う〜む  投稿者:三楽堂@普通のオジサン  投稿日:09月07日(木)19時20分43秒

六紋銭のお出迎えかあ。あんまり奇抜なことされると、改札口から敵前逃亡してし
まうかも(^^;

講義&刀屋&池波正太郎真田太平記館オフですが、参加表明している3名で10月
11日(水)と決めてしまいました。講義のほうは主催側に聞いてみないとわかり
ませんが、刀屋&池波正太郎真田太平記館のみ参加したいという方も歓迎ですので
madame minminさん、向井佐平次さん、三楽堂の3名の誰かへメールしていただけ
ればと思います。とはいえ、平日のこと、やりくりも大変だと思いますが・・・

で、オフというと・・・いつも悩むのですが、お会いしたら「minminさん」とか
「佐平次さん」とかお呼びしなければならないのでしょうか?
若い頃はけっこう抵抗なかったんだけど・・・(爆)


(3031)お待ちしております  投稿者:OBASANあらためmadame minmin  投稿日:09月07日(木)09時23分53秒

>三楽堂さん、向井佐平次さん
歓迎パレードは、ないかも知れません(笑)が、
私、駅前にて高級車(?)で、六紋銭の旗をたてて
お待ち申し上げておりますわ(冗談ではありませんよ、ほんと)
講義の参加者は、普通のオジサン、オバサンです。
追伸
改名しました(笑)こんどから、madame minminです。よろしく!


(3030)楽しみですぅ  投稿者:向井佐平次  投稿日:09月07日(木)00時07分20秒

どのような方々が講義にいらしているのでしょうか?
資料の取り置き、ありがたいです。
最近講習があると席に着いてすぐに眠くなる習性が・・・
三楽堂さんともども寝ないようにがんばります。


(3029)いや〜こっぱずかしいですな(*・-・*)  投稿者:三楽堂  投稿日:09月06日(水)07時18分33秒

ひっそり目立たぬように、とはいかなそうですね。
上田駅で歓迎パレードはなんとしても避けたい(あるわけないだろ)
資料のとりおき、うれしいです。
うちあけ話とかよもやま話が多くて、「真面目な講義」というのが案外少ないので
す。居眠りせぬようガンバリます!

※この際だから、madame minminで統一したらいかがでしょうか?>OBASAN


(3028)投稿名まちがえました  投稿者:OBASAN  投稿日:09月06日(水)01時31分42秒

すみません。「真田氏と上田城」の投稿者名は、OBASANです。
また、改行打ち忘れて、読みにくいですね。
かさねがさね m(_ _)m


(3027)「真田氏と上田城」の講座、本日開講  投稿者:madame minmin  投稿日:09月05日(火)23時50分24秒

今日が初日でした。開講の挨拶の中で、三楽堂さんと佐平次さんのことが、
話題になりましたよ。『この講座は大反響で、県外からも問い合わせがあり
ました。2週間の申し込み期間をとってあったのですが、初日のお昼までに
定員になりました』と。
資料が配られたので、お二方の分をいただこうと思いましたら、『こちらで、毎回取り置きして、ご本人にお渡しします』ということでした。わからない
ことがありましたら、いつでもお問い合わせくださいとのことでした。
「おもしろい!」という話でなく、真面目な講議でした。
お出かけお待ちしています。


(3026)M文庫  投稿者:三楽堂  投稿日:09月05日(火)19時38分53秒

NAYAさん、小幡勘兵衛がお気に入りですか?
「かんべえ」といっても人によって連想する人物が違うでしょうね。

学研M文庫が創刊されました。前々から話があったのですが、ようやくというか、
いきなりというか・・・。

戦国モノをピックアップしますと、お得意のシミュレーションから『異戦国志』、
『反関ケ原』。戦史ドキュメントから『桶狭間の戦い』『長篠の戦い』『真説関ケ
原合戦』『大坂の陣名将列伝』といったところ。
まあ、ほとんどがむかしの単行本やMOOKの付録の文庫化なんですけど・・・

第2弾としては秋山駿『信長秀吉家康』、高柳光寿『本能寺の変』、小和田哲男
『三方が原の戦い』がひかえています。


(3025)戦国幻想曲  投稿者:NAYA  投稿日:09月05日(火)12時27分11秒

この本のこと、ちょうど今朝、通勤の時に中吊り広告で知りました。
ですが・・・。
てっきり小幡勘兵衛だと思ってました(^^;)
「よし。買おう」と思っていたので、
その前に間違いがわかってよかったです。
ありがとうございました。


(3024)新潮文庫版『戦国幻想曲』  投稿者:三楽堂  投稿日:09月01日(金)21時02分12秒

角川文庫で出ていた池波正太郎の『戦国幻想曲』(槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛了)が新潮文庫からも発売。

角川版もそのまま発売を続けるようです。

表紙の勘兵衛がわりとよかったので、新潮文庫版を買ってしまいました。

YONDAくんのグッズを貰おうと思っているせいもあるんですが・・・(^^;



同時に発売された『歴史小説の世紀』(全2冊)は以前、「新潮」臨時増刊で出た

ものです。増刊の時に買ったので、これは見送り。なかなか読めない短編が収録さ

れているので、おすすめです。


(3023)残暑きびしき・・・  投稿者:三楽堂  投稿日:08月29日(火)23時29分44秒

天翔さん、メールいただきました。ありがとうございます。太田資正まで載ってい
たのはうれしい!

公私ともに忙しかった夏ももうすぐおわり。中断していた上杉家臣団のカード作成も再
開しました。持ち運びに難が生じてきたため、100円ショップでカード入れを買って
きました。ゲームソフトやハガキ用みたいですが、ぴったり。もう2箱うまってしまい
ました。1500枚くらいあるでしょうか・・・

Xファイルがこのたびおかげさまをもちまして80回を迎えました。エッ、終わっちゃ
うの!?と思われるかもしれませんが、性懲りもなく新シリーズを開始したいと思いま
す。それまでしばし休息・・・


(3022)北海道(今年7回目!)から戻ってきました(@o@)あつゥ〜  投稿者:三楽堂  投稿日:08月27日(日)23時18分05秒

#天翔さん

典厩寺、天翔さんも行かれましたか。
宝物館も見ましたか?信繁が愛用していたという鶴の足のムチとか、なかなか珍品
が揃ってますよね。わたしも寺の位置がわからなくて、近所の人に聞きました。

#雷蓮さん

なんとお読みするのか・・・?
いらっしゃいませ、当コーナー城代・三楽堂と申します。
風魔小太郎ですか。彼を幕府にチクッたという高坂甚内が実在(墓があります)し
ているから、まあ、いたんじゃないでしょうかねえ・・・小太郎の名前は軍記もの
にしか出てこないんじゃないでしょうか。
風間(ふうま)出羽守とかいう人は実在しましたから、それが小太郎なのかわかり
ません。


(3021)新参者  投稿者:雷蓮  投稿日:08月25日(金)15時07分30秒

こんにちは、初めて投稿するものです
知識的には全然ですがよろしくお願いします
それで一つ聞きたいのですが風魔小太郎というのは実際に
存在していたんですか?
知っている範囲では北条氏につかえ、代々その子孫がこの名を
名乗っていたということですが、真田十勇士などもあり
作り話のように思えるのですが・・・・・


(3020)信濃訪問  投稿者:天翔  投稿日:08月24日(木)09時51分09秒

昨日、「武田信玄」放送終了を記念して、川中島の戦い関連の史跡をいくつかまわってきました。
(本当は、放送終了記念ではなく、たまたま予定とかさなっただけなのですが…)
八幡原、妻女山、海津城、茶臼山、典厩寺をぐるっとまわってきました。
はじめて行ったので、道に迷ったりして大変でした。(特に、典厩寺の場所が分からなかった…)
典厩寺では、受付の人がいないのでインターフォンを押したのですが、出てこなかったので、
拝観料を受付の台の所に置いたままにしてきてしまったのですが、気付いてくれたか心配です。
お盆を過ぎたので、道路もすいていて、好い旅でした。(日帰りですが…)

「武田信玄」の最終回ついさっき見てきたのですが、謙信の一人芝居は怖かったです。
信玄の臨終シーンで、あまりの顔の白さ(というか、顔の下から懐中電灯を当てたような顔だったので)
に笑ってしまいました。不謹慎ですよね。すみません。

>三楽堂さま
 例のポスターの武将名メールしますので、待っていてください。


(3019)武田信玄再放送終了  投稿者:三楽堂  投稿日:08月24日(木)07時09分54秒

まだやってたのか?と思いましたが、朝気づいたのでビデオに録画。帰宅後に見まし
た。再放送を見たのは今回が2回目だったかな。前回は6月頃にちょっとだけ見た記
憶が・・・甲子園も間にあったしねえ・・・

政宗のひとり芝居は滑稽味が出てましたが、謙信のひとり芝居(?)は別のおかしさ
です。「ダイジョーブか、おい?」といった感じです。


(3018)ありがとう!  投稿者:水無月生まれ  投稿日:08月23日(水)23時54分35秒

>三楽堂さん
ありがとうございます。大変参考になりました。
それにしても流石は正宗、忠輝改易に乗じて目の上のたんこぶを追っ払おうとするとは(たぶん成功するとは思ってなかったのだろうが)
 
あ〜やっぱあの一人芝居は良かったな〜。


(3017)嘆願書ではありませんが  投稿者:三楽堂  投稿日:08月22日(火)22時53分22秒

#水無月生まれさん

元和ニ年七月に藤堂高虎宛に出しています。内容はドラマでひとり芝居(よかった!)
やってたときほど物騒なことは書いていませんが、忠輝改易の要因となった旗本殺傷
事件や家中の不始末について弁明し、幕閣にカオがきく藤堂高虎にとりなしを依頼し
ています。
面白いのは忠輝改易によって越後が明くので、「上杉景勝を戻すのがよいでしょう」
と書いています。これは別に政宗の親切心からというよりも、やはり仲がいいとはい
えない景勝が隣国にいるのがジャマなのかと(笑)

おそらく慎重な政宗のこと、秀忠に直接嘆願書を送ることはせず、高虎のほか幕閣の
親しい誰かに同様な文書を送ったのだろうと思います。


#天翔さん

おおーいいなあ、謙信公祭ポスター。どんな人が記載されているのかよかったらお
しえてください。調査中の謙信家臣団の参考にしたいから。


(3016)鬼っ子様  投稿者:水無月生まれ  投稿日:08月22日(火)22時29分53秒

今週の「葵」では、正宗の一人芝居がよかった。
その事に関して一つ聞きたいんですが。正宗は幕府ないし将軍に、忠輝を許してくれるように嘆願書か何かを実際には出したんですか?
誰か知っている方がいましたらぜひ。


(3015)ポスターゲットォ!!  投稿者:天翔  投稿日:08月21日(月)13時09分35秒

ちょくちょく書き込みするとこの掲示板に書いておきながら、全然書き込んでませんね。
すみません。

この掲示板で書きました「謙信公祭」のポスターゲットしました。
午前中のイベントで配っていたらしいのですが、午前中は都合が悪くて行けなかったので、
某施設の管理人のオバチャンに頼み込んでゲットしました。
ポスターに書いてある人名は、私の知識が浅いため、結構知らない人が多いです。
せっかくもらったのに、飾る場所がないので、ポスターは丸めたままになってます(笑)


(3014)あれが真相か?  投稿者:三楽堂  投稿日:08月21日(月)07時06分53秒

「葵」で坂崎直盛(新井康弘)が1回だけ登場。千姫と公卿の婚礼差配をしていた
直盛であったが、秀忠が「千姫は譜代の家に嫁がせる」と主張。メンツをつぶされ
て幕府の糾問使に捨てぜりふ。その直後、家臣たちに取り押さえられ、殺害されて
しまうという展開・・・

本当は、直盛主従が屋敷に立て篭もったところを、柳生宗矩だかが説得に行き、切
腹させるわけですが、いずれにしても宇喜多一族の大名が消えたわけです。
もちろん、大坂落城時、「千姫をたすけたものには、姫をとらす」などといった家
康のお達しなどはありませんし、千姫を救出した直盛が顔にやけどをおったため、
姫が結婚するのをいやがったこともありません。

千姫はたぶんもう1回出てくることでしょう。


(3013)なるほど  投稿者:秋山如雪  投稿日:08月19日(土)20時14分24秒

>三楽堂さま
 いつもすいません。大変参考になりました。
 そうそう、「タケノリ」っていう読みもありましたねえ。確かに私も「テルズ
ミ」だと当て字っぽく思いました。
 それにしても南蛮逃亡説ってのはすごいですねえ。それだけ魅力的な人物だった
んでしょうね。家康による「明石狩り」があったくらいですもんね。
 幸村の「六文銭」の軍旗も確かに格好いいのですが、明石の「花クルス」の軍旗
ってのもかなり格好いいものだったのではないでしょうか。
 まあ、多分「知ってる〇もり」とかでは取り上げられないでしょうけど(笑)。


(3012)明石全登  投稿者:三楽堂  投稿日:08月19日(土)01時09分17秒

てるずみ、とよむのが最近一般的になってきましたね。でも「全」の字をテル、「登」
の字をズミろわざわざよませるからには、それなりの史料によみかたが出ているので
しょうか。タケノリのほうが自然のような気はしますが・・・
叔父の全延(ぜんえん?てるのぶ?)という人も大坂の陣でともに籠城し、戦死して
います。また少し前に豊臣秀次事件に連座した明石左近元知は全豊(てるとよ?ぜん
ぽう?)ともいったようです。明石一族は景(浦上氏偏諱)とか則とかを通字にして
いるようだし、全登自身も守重という名をもっているから、何となく「ぜんとう」と
いう道号っぽい気がするんですが・・・わかんね(^^;

戦死説は「大坂記」『徳川実記』などによるもので「汀三右衛門に討ち取られた」と
あります。細川忠興が国許へ送った書状にも明石戦死とありますが、数日後、忠興は
これを訂正し、「逃亡したらしい」と書いています。

逃亡先の説には、以下のようなものがあります。
@土佐・・・「土佐諸氏系図」
A備前・・・「摂戦実録」
B陸奥・・・「事実文編附録」
C南蛮・・・「戸川家譜」「浦上宇喜多記」

没年はAによれば大坂落城後三年(元和三年か?)、Bによれば元和二年八月二十一日
となっています。いずれも病死。ちなみに@〜Cの史料、いずれも「全登」のよみは記
されておりません。

また、全登の息子といわれる明石内記もあちこち(備前、薩摩など)逃亡しており、南
蛮史料にも記録されています。ひょっとしたら全登は討死し、内記の逃亡劇が混同して
伝わっているのかもしれません。真偽はともかく、明石の縁辺や旧臣が捕らえられ、幕
府の追及にあっても全登の行方を白状しないという美談を伝える史料がいくつかありま
す。

いやー、明石の話になると際限ないや(^^ゞ


(3011)少々質問  投稿者:秋山如雪  投稿日:08月19日(土)00時17分03秒

 三楽堂さま、みなさま御無沙汰しています。最近は色々と多忙でして、ここに
来ることができませんでした。
 ところで、質問ですが、宇喜多氏の家臣に明石全登という武将がいますよね。
この人物の読みは資料によって「ぜんとう」とか「てるずみ」となっていますが
本当は何と読むのが正しいのでしょうか?
 あと明石全登はやはり没年が不明なんでしょうか? 大坂夏の陣で死んだという
説と生き延びたという説があるということで不明なんですよね。 大坂の陣では
十字架の軍旗を立てて大坂方でメチャクチャ目立っていたといいますが、個人的に
は幸村の赤備えと同じくらい目立っていたんじゃないかなあ、と思うのです。
もっともっと評価されてほしい人物なんですけど、ドラマとか小説とかだといまい
ち目立たないのが非常に残念です。


(3010)興ヶ原氏  投稿者:三楽堂  投稿日:08月17日(木)20時02分41秒

>そして、奥原信十郎に淀君と秀頼をたくし、

そうそう、奥原信十郎って何のまえぶれもなく登場して、けっこういいところをと
ってった人だけど、あれは宗矩の従兄弟にあたる興ヶ原(おくがはら)助勝のこと
なのかなあ?

矢口書店、わたしは高校生の頃、映画のパンフをあさりに行ってました。


(3009)シナリオ  投稿者:NAYA  投稿日:08月15日(火)20時45分47秒

>ウルトラマンガイア様
東京は中央区神田に矢口書店という古本屋があります。
ここは時代劇の台本やシナリオを扱っているお店です。
(少し、現代劇のもありますが)
お店の場所や交通については、以下のサイトを。
http://www.book-kanda.or.jp/kosyo/1072/1072-01.htm

先週末。
昔の大河の「徳川家康」の大坂の陣の部分を見ました。
今年が「葵」ということで、「徳川家康」も全50話すべてビデオ化されたみたいです。
キャストは以下の通り。
家康:滝田栄
秀忠:勝野洋
正純:本田博太郎
淀君(’殿’じゃなかった):夏目雅子
秀頼:利重剛
千姫:石原真理子
修理:谷隼人
宗矩:夏八木陽介

驚いたのは修理でした。
イメージとして’おバカ家臣’の印象があったんですが、
このドラマの修理は、能臣でした。
そして、奥原信十郎に淀君と秀頼をたくし、
「あとは、この修理が背負ってまいる」と威厳たっぷりに言います。
この’あとは’とは「豊臣が背負ってしまった負のものすべて」かなと思いました。


(3008)龍造寺隆信は・・・  投稿者:三楽堂  投稿日:08月15日(火)20時06分47秒

Xファイルのご感想ありがとうございます。
惣三郎さんのご贔屓でしたか。すみません、かっこわるく書いてしまって<_(__)_>
龍造寺隆信は大友・島津にくらべてイマイチとりあげられることが少ないですよね。
どうしても鍋島のほうが目だってしまって・・・
龍造寺四天王をはじめ、家臣団にも今後登場させたい人々がいろいろいます。


(3007)SAGAWARS、ナカナカっす  投稿者:前髪の惣三郎  投稿日:08月15日(火)11時57分20秒

XファイルのSAGAWARS楽しく拝見させてもらいました。
第3話でいよいよ真打ち龍造寺隆信の登場となり、三楽堂殿がどのように描いてくれるだろうかと期待しておりましたが、やはり最後はトホホな話でエンドとなってしまいました。
個人的には隆信は好きな武将の一人でして、勝てるわけもないのに大友宗麟に2度も喧嘩を売って最後は勝ったりしていますし、有馬晴信征討戦にしても情けないくらいの猪突猛進ぶりが気持ち良かったりするものです。
それにしても今回ムツゴロウネタなども挿入されて毎度ユーモアに富んだショート
ストーリーを提供して下さり、毎度ディスプレイの前でニヤリとしております。
今後も楽しい企画をどうぞよろしく。


(3006)葵・雑感  投稿者:三楽堂  投稿日:08月14日(月)21時50分33秒

「葵」は毎回見ています。面白い面白くないという以前にわたしは戦国絵巻が見ら
れる(その数は決して多くありません)だけで満足してしまいます。ただ何という
か、それについて他の誰かとワイワイやりたいという気はあまりおきませんね。
大河ドラマって、なんとなく前年暮れからせいぜい初夏ぐらいまで・・・という感
じを毎年抱いています。何となく製作サイドも手を抜いているというか、資金切れ
というか―
忠臣蔵などはちょうどラストに「討ち入り」というビッグイベントがありますが、
「葵」の場合はもう安定に向うだけでしょう。またこのぐらいの時期になると大河
ドラマへの批判も出てきます。それは毎度のことです。

ただ、つまらない、飽きた、だけではいつか時代劇・歴史ドラマもアメリカにおけ
る西部劇のように衰退していってしまうのではないでしょうか・・・
それが心配です。

※あ、石川康勝は籠城してますが、兄の康長はたしか改易されて九州のほうへ預け
られてますよね。大坂の陣から20年近くたって亡くなっています。籠城はしてい
なかったでしょう。


(3005)烏丸少将文麿  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:08月14日(月)16時57分54秒

白蔵主様
>烏丸〜って公家さんが凄い剣の使い手だって聞いたのですが、
>肝心の名前をお父さんがド忘れしててどうしてもわかりません。
>すっごく気になる!
 これって、烏丸少将文麿のことではないでしょうか。実在の人物か
どうかは、私にもわかりません。私の記憶では、テレビ版・映画版の
「柳生一族の陰謀」にでてきて、成田三樹夫さんが演じていました。
 ちなみに三楽堂さんの書き込みにあった「烏丸光広」って画家とし
て有名だったひとです。実在の烏丸光広の剣の腕前のほうがどうだっ
たかは、私はしりません。


(3004)「葵」って見られていないのでしょうか  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:08月14日(月)12時24分52秒

 最近、ここに「葵」関連の書き込みの比率が少なくなってきたように思い
ます。「葵」って、最近の視聴率が余りよくないようですね。みなさん見て
らっしゃらないのでしょうか。面白くないのでしょうか。
 「日刊現代」の5月31日号には、吉川潮さんの「テンポは遅い、物語性
は乏しく人間的魅力もナシ。これは史上最悪の大河ドラマだ」というタイト
ルの記事が掲載されていました。私は、従来の大河ドラマで余り描かれなか
った人物が登場したり、朝廷とのやりとりがでてきたりして、努力している
ように感じるのですが。みなさんはどう思ってらっしゃいますか。


(3003)石川康長  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:08月14日(月)12時11分52秒

 「葵」の大河ドラマストーリーや最近の歴史の雑誌の大坂冬の陣・夏の陣
特集では、石川数正の長男で大名だった石川康長が大坂城の入城したことに
なっています。私がアクセスできる文献では、石川康長の弟石川康勝は大坂
城に入城したことになっているのですが、石川康長は大坂城に入城したとは
かいてありません。石川康長が大坂城に入城したことの書いてある文献をご
存知の方がいらしたら、お教え下さい。


(3002)「功名が辻」  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:08月14日(月)12時03分31秒

 古い話で恐縮です。今年の7月4日から7月28日まで、東京の新橋演舞
場で、司馬遼太郎の「功名が辻」が上演されました。千代は富司純子、山内
一豊は渡辺徹、豊臣秀吉は江守徹が演じました。ご覧になったひといますか。
私は見にいきたかったのですが行けませんでした。


(3001)ノベライズ  投稿者:ウルトラマンガイア  投稿日:08月14日(月)11時55分44秒

 「葵」の小説が、書店の店頭には並んでいるようですね。昔は「独眼竜政宗」
や「春日局」のシナリオが出版されていましたよね。去年の「元禄繚乱」も小説
が出版されていましたよね。最近は、シナリオを出版しないのでしょうか。それ
からシナリオを小説にノベライズしたのは誰なのでしょうか。
 テレビドラマのシナリオを保管する公的機関が、現在の日本にはありません。
これではテレビドラマの研究が進まなくなるのではないでしょうか。卒論で大河
ドラマのシナリオを取り上げたいと思う日本文学科の学生などは、泣く泣く別の
テーマを取り上げざるをえないでしょう。テレビシナリオ研究のためにも、大河
ドラマのシナリオを刊行してほしいなどど思うのは、私だけでしょうか。みなさ
んはどうおもいますか。

さんらく様
 司馬遼太郎の「豊臣家の人々」にも松永貞徳は松永久秀の孫という記述があっ
たように記憶しています。松永貞徳は松永久秀の孫と書いてある本は結構多いよ
うな気がします。


戦国群像top