伊達政宗の閨閥


政宗は正室田村氏の間に嗣子忠宗をもうけているのをはじめ、側室も多い。衆道のほうもお相手として菅野勝三郎、青木新太郎といった記録が残っている。
田村氏・愛姫永禄十一年(1568)―承応二年(1653)

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏。天正七年(1579)、十二歳で政宗に嫁ぐ。間もなく政宗による愛姫付きの侍女斬殺事件がおこり、夫婦の仲は一時危機に陥ったと伝わる。しかし、その後、奥羽平定に邁進する政宗によく尽くした。政宗が豊臣・徳川政権に膝を屈する際にも、人質として生涯の大半を京都・大坂・江戸に住した。 政宗との間に五郎八姫(松平忠輝室)、嫡子忠宗(第二代仙台藩主)、宗綱(早世)、竹松丸(早世)をもうける。承応二年、病床に伏せっていた愛姫は、かねて死出の旅路を夫政宗の忌日に、と念願していた。その思いが通じたのか、一時危篤に陥ったが、まさにその日、正月二十四日に他界した。仙台松島の陽徳院に葬る。(左木像は松島瑞巌寺蔵)


飯坂氏・新造の方

政宗側室。飯坂氏。猫御前などと呼ばれる。側室としては、もっとも早く政宗に侍した。庶長子秀宗(宇和島藩祖)、宗清(飯坂家を嗣ぐ)を生む。

塙氏

政宗側室。系図では、塙団右衛門氏となっている。大坂の陣で「夜討の大将」と名を馳せた団右衛門の縁辺と推測されるが、詳細は不明。宗泰を生む。

柴田氏・於山の方

政宗側室。伊達家臣柴田宗義の女。

芝多氏・弘子

政宗側室。伊達家臣芝多常弘の女。政宗の従兄弟伊達成実には跡取りがなく、芝多氏の産んだ子宗実を養子とし、亘理伊達家を相続することになる。

多田氏・勝

政宗側室。多田吉廣の女。政宗との間に十男宗勝(一ノ関領主。寛文事件(伊達騒動)の中心人物)、一女(異母兄伊達宗実室)がある。

村上氏

政宗側室。村上内膳正重の女。政宗との間に一女千菊姫(京極高国室)がある。

香の前?(?)――寛永十七年(1640)

政宗愛妾。京都伏見の地侍高田次郎右衛門の女。お種殿、安楽院。はじめ豊臣秀吉の側室。文禄二年(1593)に政宗家臣茂庭綱元に下賜された。(『伊達世臣家譜』)このことによって政宗と綱元の間に一時疎隔が生じたらしい。そこで綱元は、お種殿を政宗に献上したともいわれている。秀吉の側室時代には子に恵まれなかったお種殿も、仙台へおもむき、懐妊した。彼女の子又四郎は後に亘理家を相続し宗根と名乗ったが、実は政宗の胤であるといわれている。もちろん伊達系図等には載っておらず、記録上は前述の茂庭綱元の第四子とされている。 しかしながら「宗」の偏諱、伊達一門の亘理家相続などを念頭に置くかぎり、政宗愛妾説は否定しきれないものがある。その傍証として、お種殿を拝領したのは政宗自身である、という別の言い伝えもある。これは、秀吉と政宗が賭け碁をした際、「首を賭ける」という政宗に対し、秀吉がたまたま二人の対局を観戦していたお種殿を賞品にした、というものである。むろん、これは秀吉が伊達氏との縁組みを想定してのことだったらしい。お種殿は、晩年は宗根に引き取られ、寛永十七年十二月二日に死去した。

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