稙宗・晴宗の時代

天文二十二年(1553)、晴宗は家中四百名に知行判物を与える。晴宗が奥州探題に任命されると、桑折宗貞、牧野宗仲の二人が守護代となった。
牧野宗興
桑折宗貞
桑折景長
牧野宗仲
白石実綱
中野宗時
牧野久仲

輝宗の時代

伊達輝宗が当主について後、家中随一の権勢を誇った中野宗時・牧野久仲父子は、輝宗によって相馬領へ追放される(元亀の乱)。かわって執政の座についたのが、中野氏の家臣であった遠藤基信であった。
遠藤基信
鬼庭良直
伊達実元
石川昭光
泉田重光
亘理元宗
小梁川盛実
小梁川盛宗
桑折点了斎

政宗の時代

政宗を支えた三名臣
片倉景綱弘治三年(1557)―元和元年(1615)


小十郎、備中。米沢八幡神社神主の子に生まれる。十九歳の折、伊達輝宗にその器量を見出され、梵天丸の近侍となる。政宗が家督を嗣いだ後は、軍事・外交に才能を発揮し、懐刀となった。天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣するよう政宗を説いた。のち、政宗より白石城を預けられた。一国一城令の後も、仙台城のほかに白石城のみ認められている。元和元年十月四日没。法名俊翁常英傑山寺。
伊達成実永禄十一年(1568)―正保三年(1646)


伊達実元の子。時宗丸、藤五郎、安房守。父実元は輝宗の叔父、母は輝宗の妹という関係で、政宗にとっては叔父であると同時に従兄弟でもある。伊達軍団一の勇将として幾多の合戦に参加。毛虫の前立ては、後ろへひかない、葉(刃)を食う、という意味が込められている。政宗とは気心知れた仲であるゆえに衝突もあったらしく、朝鮮の役後、伊達家を出奔し、その居城角田城が攻められるという事件が起こる。後に帰参し、政宗の子宗実を養子とする。これにより亘理伊達氏の祖となり、席次は一門中の第二位を占めるにいたった。正保三年六月四日没。法名久山天昌雄山寺殿。著書に『成実記』がある。
茂庭綱元天文十八年(1549)―寛永十七年(1640)

延元、石見、了庵。鬼庭良直(左月斎)の子。父左月の仇を許し家来に加えたことや、謎に満ちた香の前のエピソードで知られる。秀吉の命で鬼庭から旧姓の茂庭に復した。朝鮮の役の折、兵站を担当し、伊達軍は一人の餓死者も出さなかったといわれる。政宗の庶長子秀宗の宇和島入封時は、特別に派遣されて藩政指導にあたるなど政宗の信任が厚かった。政宗誕生からその死までを見つめ続けた唯一の家臣である。寛永十七年五月二十四日没、主君の政宗の命日であった。

家格代表的な氏族備考
一門亘理伊達氏、涌谷伊達氏、石川氏、白石氏、亘理氏、留守氏、岩城氏、白河氏、三沢氏一門は、「伊達世臣家譜」によれば、十一氏がある。このうち半数は政宗によって取りたてられた者たちで、伊達氏血族が圧倒的である。
一家片倉氏、泉田氏、仙台藩二代忠宗の時に、片倉氏は一門に昇格。
準一家松前氏、福原氏、猪苗代氏、芦名氏、伊達家に従属した他家の領主級の氏族が連なる。待遇は一家に準ずるが、家格としての位置づけは比較的後年のことであった。
一族石母田氏、坂氏、上郡山氏、増田氏、国分氏、飯田氏、石田氏、砂金氏、大内氏、片平氏、中島氏、「伊達世臣家譜」によれば、二十二氏。
宿老遠藤氏、後藤氏、原田氏、富塚氏、津田氏戦国期には十数氏があったが、一家への昇格・断絶なでにより、「伊達世臣家譜」によれば、三氏が代々宿老として存続している。
着坐政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、二十八氏。
太刀上政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、十氏。
召出政宗以後に成立。「伊達世臣家譜」によれば、一番坐三十八氏、二番坐五十一氏。
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白石宗実
白石宗直
鮎貝宗信
茂庭延元
片倉景綱
留守政景
伊達成実
鈴木元信
原田宗時
亘理重元
後藤信康
桜田元親
桑折宗長
桑折政長
冨塚宗綱
保土原江南斎
伊藤重信
瀬上景康
国分盛重
石母田景頼
柴田朝意
中島宗求
大内定綱
片平親綱
支倉常長
菅野勝三郎
高屋松庵
<政宗の小姓たち>
成田頼次 蟻坂善兵衛 石田織部 湯村勘左衛門 和田主水 毛利九右衛門 浜田半兵衛 上郡山右衛門尉 青木掃部 今村喜平次 佐々若狭 磯野右近 只野作十郎
<その他>
相田康安
虎哉宗乙
康甫
ルイス・ソテロ
猪苗代兼与