事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
天文十六年(1547)元春(18)、吉川興経の養子となる。実際には3年後に城地へ赴く。
(矢古女) ホントは元就の庶弟の領地を受け継いで、分家するはずだった次男坊。ところが、お母さんの実家を相続することになってしまった。果たしてそれは、彼にとって幸せだったのか、どうなのか・・(笑)
元春「だって、ぼくが吉川家を継いだら、母さんが喜んでくれるって(涙)父さんが言ったから・・」(お〜いおいおいおい(^^;) )
元春、熊谷信直の娘(新庄局)を娶る。

吉川元春・吉川史料館蔵
(三楽堂) もう今さら解説するまでもない有名なエピソード。で、容姿も性格も凄かったらしい。
(矢古女) なぜ、元春は、熊谷の娘を見初めたのであろう?(見初めたのか(^^;) ) ひょっとすると、妙玖さんもそのタイプ?(知〜らないっと)
(にゃぐ) 戦国時代の女性って、確かに夫を立てなきゃいけないでしょうけど、でも夫と一緒に身体張って戦えるぐらいの方が良かったのかも。
(矢古女) きっと、侍女や家来にもスパイはいるかもしれないし、実家や夫の兄弟だって、いつ敵味方になるかわからないのでしょうから、相当に気丈でなければならなかったんでしょうね。
『陰徳太平記』などの、元春どのが新庄さんを娶るエピソードは、できすぎ、と考えるのは普通みたいです(笑)
要するに、いわゆる政略結婚だった、と考えられます。しかし、元就パパが熊谷パパに宛てた手紙なんかでは、 「自分は知らなかったが、元春が言い出したことで、面目を失った」云々言っております。ポーズかもしれないけれど、元春の希望、という体裁をとっている訳なんですね。
(にゃぐ) 審美眼のない人って、好きやねん(笑) この面目、というのはどういうこっちゃ(笑) 家格が釣り合わないから? そいとも、あまりにも「ぴー」で、笑いものになるから?オヒオヒ
(矢古女) 何なんでしょうかね、ホントに(笑)
当時の「面目」という語感はわかりませんけど、自分の知らないところで話を進めていた、ってことでしょうか。パパはそう書いていた。家柄は、悪くないと思いますけど、多分。
ただ、元就は、初陣の時、熊谷パパの父親を討ち取ってますんで、ちょっと因縁はあるかも知れませんけど。 (もっとも、そういう個人的な恨み、みたいのにいちいち囚われてはやっていけない世の中だったのかも知れないですね)
で、「少輔次郎は犬の如く幼稚だが、宜しく頼む」と続く訳なんですね。パパはほんとに、知らなかった、とか(笑)
ここで、独断と偏見で、「ヤラセ説」と「ホントに一目惚れ説」とを挙げさせていただくことにしましょう(笑)
まあ、普通に考えれば、元就の命か、あるいは談合したうえで、元春にプロポーズさせ、熊谷パパをしっかり味方につけようとした、ということになるのでしょうけど(笑)
でも、熊谷の家に遊びに行って、そこで会った姫に惚れてしまった、という方が面白いかな、と。醜女の評判高い姫だと、なおさら(^^;)  そして、元就パパたちは、何考えているんだ、こいつは、と頭を抱えたりすると、ますます楽しい・・。(おいおい(^^;) )
(にゃぐ) 「すっげぇすっげぇ、ぴーなんだろうな、どんなかな、わくわく」てな感じで見に行って、結構ノーマルなぴーだったんで、思ってたのよりはよかった、と思っちゃって、そのうち「思ってたのよりはよかった」というのの「思ってたのよりは」ってのが薄れていって「よかった」ってのだけが残ったとか・・。わけわかんねーことを書くのはよそう(笑)
しかし、悪い虫がつかないように、うちの娘はぴーだぴーだ、と言い触らしておいて、実はすんげぇ美人だった、なんちう話はよくあることだけど、戦国時代では、ちょっとあり得ないか・・・・・。
(矢古女) 美人は三日で飽きるけど、××は三日で慣れるとも言いますし・・・(^^;)
天文十七年(1548)元春夫妻に嫡男鶴寿丸誕生。
(矢古女) どうでもいい話だが、元春の長男も、陶隆房の次男も、鶴寿丸、という。
(三楽堂) ということは、陶のほうが「元春クンとこと同じ名前にし〜よお」って、ことになったのかな。それとも偶然子供の名前が一緒だったので、共通の話題が生まれ、元春と陶隆房は仲よくなったのかな?。
(矢古女) 厳島やそのどさくさで陶隆房の次男も死んだ時、5歳ばかりではなかったでしょうか。とすると、

天文二十年(1551)、大内義隆、陶隆房に討たれる。
の頃の生まれ。
(孫って説もあるが、隆房くん、35歳くらいで死んでるだろ(^^;) )
(古代じゃないんだからさあ(^^;) )
吉川さんちの鶴寿丸ちゃん(元長)は、厳島合戦の時は、八つ。
すなわち、
天文十七年(1548)、元春夫妻に嫡男鶴寿丸誕生。八月、元就、隆元、元春、隆景、山口へ下向
天文十八年(1549)、元春(20)、陶隆房とお友達になり、刀と馬をとりかえっこする。

さあ、これらの数字を、よおっく見てみよう!!
ひょっとすると、すごい発見?
八月、元就、隆元、元春、隆景、山口へ下向し、大内義隆に謁す。大内、大喜び。隆景に一目ぼれ。毛利父子、しばらく滞在す。 (三楽堂) だって、『陰徳記』に書いてあるんだもん。「又四郎隆景ハ容姿甚美ナリシカハ義隆卿男色ノ寵愛浅カラズシテ・・・」と。で、足利義輝に頼んで屋形号をもらってあげたそうじゃ。
(矢古女) 『陰徳太平記』にも書いてあったんだもん。細かい表現は違ったかも知れないけど、隆景くんは容姿端麗で、大内が寵愛した、って書いてあったんだもん(^^;)
(注:教育社の訳本には、載ってない!)
(三楽堂) へえ、教育社のにはないのかあ。「教育」社、のには・・・・。
ちなみに『陰徳記』は吉川家家臣香川正矩が書いたもの。刊本はこのたびマツノ書店から出たものがお初。『陰徳太平記』は正矩の子香川景継の著作。こちらの方が有名です。なお、『陰徳記』にも『安西軍策』というネタ本があり、『安西軍策』→『陰徳記』→『陰徳太平記』という軍記物の系譜が浮かび上がります。
(矢古女) 元春・隆景兄弟の生き方の違いについて、元春は粘り強い山陰、隆景は開明的な山陽にいたから、などと言われますが、実は、若い頃、大内に好かれたかどうか、で影響されたのかも・・(笑)
隆元、大内義隆の養女妙寿(内藤興経娘)と婚約。
天文十八年(1549)元春(20)、陶隆房とお友達になり、刀と馬をとりかえっこする。
(三楽堂) 元春とお友達になった陶隆房は1521年誕生説に則れば、この時、29歳であった。君はボクのことをゴローって呼べよ、と隆房。わかった、それじゃあ、ボクのこともジローって呼んでね、と元春。・・・・・・・
(矢古女) この「てんてん」は何ぞや?
(三楽堂) つい、こんなものを書いている我が身を振り返り・・・・・・・・
(矢古女) プレゼント交換をした二人。元春がもらったのは、黒馬だったっけ。
「気に入ってもらえましたか」
「ええ、とっても」
良い馬をもらって喜ぶ元春に、隆房、満足そう。
「どうです、山口は。お寂しいことは、ない?」
「ええ・・」
元春、馬の背を撫でたりしながら、上の空。
「何でも、欲しいものがあったら、言って下さいね」
「ええ・・」
 生返事をしかけた元春、突然、叫ぶ。
「あ゛!」
「わっ!」
ぎょっとする隆房。
「おみやげ買わなきゃ。頼まれてたんだ、友ちゃん(注:新庄さん)に。ああ、良かった、思い出して。忘れたら、お鶴坊、がっかりするよ」
「みやげ?」
「ええ、子供の・・」
いきなり家庭的な話題になって、隆房、ちょっとしらける。だが、気を取り直し、話しかける。
「お子さん・・男の子なんでしたね。おいくつ?」
「二つ・・。でも、まだ小さくて、泣いてばかりで・・。ああ、もう、大分、大きくなったかなあ・・。父さまのこと、忘れてないかなあ・・」
「お名前は?」
「鶴寿丸」
「そう、それじゃ、あなたも、鶴寿丸と呼ばれていたのですね・・」
隆房、ふと考える。
「それじゃ、今度、私に男の子ができたら、鶴寿丸と名付けることにしましょう。あなたのような、勇敢な武将になるように」
元春、はっとする。
「隆房どの・・」
真剣なまなざしで、隆房を見つめる元春。ムードが盛り上がり、喜ぶ隆房。
「ねえ、元春どの・・いや、次郎・・」
「・・ふぐちょうちん」
「へ?」
なんのことかわからず、目をぱちくりさせる隆房。元春は真顔で尋ねる。
「あの、子供は・・ふぐちょうちんを買っていったら、喜ぶものでしょうか?」
「??」
(にゃぐ) うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ(笑)
超ナイスな天然ボケ振りが、すっごくぷりちーっ!!(*^^*)
(三楽堂) 矢古女せんせえ・・・。湧き出た妄想に、自身、酔ってしまわれましたね?
(矢古女) 酔いは醒めたっす(笑)
元春くんは、陶隆房のアドバイスに従い、ふぐちょうちんは買わなかったと思いますから(笑)(何でだよ(^^;) )
それはともかく(笑)
山口訪問中、元就オヤジどのは、病気で寝込んだんですね。(だからどう、っていうのでもないけれど)
(三楽堂) それって、やっぱり仮病かねえ。
毛利父子、帰国。隆元のみ義隆に引き留められ、山口に残留。
(三楽堂) 隆元残留と前後して、能楽の観世宗是下向。その子に大内義隆のお相手であった三郎がいた。『陰徳記』によれば、とうがたったので、以前のような寵愛も受けられず、恨みを曲に込めて舞ったため、大内の愛が再燃。観世父子も山口滞在。この間、隆元についての記述なし。
(にゃぐ) ほっほう(^O^) こちらも再燃(^^)
大内にとって、ここの辺りは、わくわくほくほくどきどき月間だったのねぇ。
天文十九年(1550)隆景(18)、沼田小早川家を嗣ぎ、両小早川家を統一。この時、小早川正平(故人)の娘を妻(問田の大方)とし、竹原小早川の娘とは形式上離縁。この娘は天野氏に嫁いだ。
(矢古女) これって、これって、隆景くん、竹原小早川の娘と結婚してた、ってことでしょうか?
(三楽堂) まあ、男女のことはともかく名目上の夫婦だったのでしょうね。
(矢古女) 隆景くんの養母(?)の、毛利元就の姪のことじゃなくって?
(三楽堂) これは問田の大方(隆景夫人)の「母親」のことですよ。『陰徳記』巻17には、隆景は、討死にした小早川正平の娘と婚姻の儀を調えた、とあります。その娘には盲目の弟鶴丸(やけに鶴ちゃんが多いなあ)があって、これを擁立しようとした小早川譜代の臣たちは、毛利方に討たれております。この鶴丸の母は、毛利興元の女、おっしゃるとおり元就の姪にあたる。で、隆景にとってはいとこである。隆景の奥さんはそのさらに娘だ。これが、問田の大方ということになるのかな。
ところが、例の儀右衛門じいちゃんの『毛利元就』の小早川隆景夫人の項には、「従って最初に夫人たるべく予定せられた竹原家の興家の女とは、形式上は離縁になって、天野隆重の男木工助に嫁し、隆景は沼田の小早川正平の女と婚を結んだが、この夫人が隆景没後山口にうつり、問田の局問田の大方と称せられた」とあります。出典が載っているところが、この儀右衛門じいちゃんのえらいところだ。

ちょこっと、系図で整理してみますか・・・。

(三楽堂) 一応、18歳の時に三人ともかたづいてますな。それにしても元就が地盤を固めている間に、都合よく陶の謀反がおこってますね。三兄弟については、やはり手元において育てた弟二人のほうが評判いいのは、厳父元就と慈愛深き妙玖に育まれたせいでしょうか。バランス感覚、というか(笑)。そこいくと、山口行った隆元は、妙なことばかり(だからっ)教わって、肝心なことは知らなかった、という感じ。きっと、人質という状況下で神経的にも圧迫された日々だったかもしれないけど。
元春(21)、吉川家に入った直後、養父興経殺害される。
(矢古女) いや〜、以前、どっかで、元春くんが、「吉川興経の女(養女とか、親戚だったかも)と結婚してた」みたいな文を読んで、ぶったまげたことがあったっけ。(論文とか、そんな奴だったぞ)だっけどー、興経の養子になってすぐ、新庄さんと結婚してるじゃないかー。(ついでに、すぐ子供ができてるじゃないかー)
もしかすると、元春の吉川家相続の条件を話し合っていた時、そんな案が出されたことがあったのかも知れませんね。
(にゃぐ) 元春様んちの家紋? 九曜紋なのかぁ。
(矢古女) 江戸時代は九曜紋みたい。しかし、元春殿の兜は、三つ引き両紋がついているような気がする・・。
(三楽堂) 九曜紋だらけだぞう、岩国は。九曜紋の電話ボックス、九曜紋の街頭、九曜紋の交番、九曜紋の花壇・・・
(矢古女) わたしも最初、あれって思ったんだよね。あれは細川氏の紋でしょ。
(三楽堂) と、調べたら、もらったんだと。吉川広家が細川忠興から。だから元春は一字三星紋(別名おそなえ団子)なのだね。
(矢古女) そうですか、もらったんですか・・。簡単に贈答できるものだったのですね。
(怪異)  何げなく読んでいて、その、『一字三星紋』というのが、とってもよく判ったというところが、なんか、その『別名おそなえ団子』って、言い得て妙。妙なところで感動してすまんです。
元就、井上元兼一族を誅殺。その経緯を隆元夫人妙寿の父内藤興盛に伝える。
(矢古女) 井上一族粛正について、元就、「40年もの長いあいだ、耐えて来たのだ。どれほど口惜しかったか」なんて、言ってますわね。
(ぺら)  やはり、ここまで言わせるからには、一人で親子二代制覇くらいのすごいことをしていたんじゃないだろーか。井上一族粛正のときの中心は元兼だったようだし、どうやら、一人で親子二代制覇が有力になってきたかな?(笑)
しかし、問題はなぜ1550年にもなってから元兼への復讐を遂行したのか、ということだな。
可愛い息子の元春少年が犠牲(元春少年が初陣の際に羽交い締めした)になったことに、昔の苦い体験を思い出して怒りに燃えたから、とするならばなにも1550年まで待つことはないような気もしますよね。
元春くんが元兼の毒牙にかかった尼子晴久との郡山城での籠城戦に、カタがついた段階で粛正してもよかったんじゃないかな。
(にゃぐ) そうだよな・・・。こういう疑問点が出ると、成立させられないよな。
(ぺら)  元春くんが(実際に)吉川氏の城に入ったのと、井上一族の誅殺は同じ年1550年の出来事だったんですねえ。ってことは、元就父さん、息子の目が届かなくなってから、ようやく復讐を遂げる決心をつけたってことなんじゃないだろうか・・。つまり、元兼の死に、元春くんが悲しむのを見るのは忍びなかった、というわけでは・・。(おいおい、それでは元春くんは元兼に惚れていたっちゅうことかい?(笑))
(にゃぐ) おおおおーーーーーーーーーーっ!!(笑)それなら無理なく、辻褄があうぞ!(笑)
ということは、親子二代制覇されたことを深く恨んでいたのは、父の元就の方だけで、息子の元春くんの方は「制覇された」という感覚はなかったということか。むしろ、初めての男に愛を感じいていたと(笑)
そんな息子を見ていて、父も長いこと葛藤していたんだな。「元兼は憎い。しかし可愛い息子が愛している男でもある。殺したい、しかし息子が悲しむ。ああ。どうしたらいいんだ」とか思っているうちに、1550年がやってきたのね(笑)
(矢古女) あっあっあっ! あ〜、いつのまにか、しっかり「犠牲に」なってるっ!
よく言われているのは、ずーっと前から、元就は、大内に井上一族の処分についてうかがいを立てていたのだけど、戦争などで忙しかったりして、やる暇がなかった、と。でも、大内家を子供たちと訪問したときに、あちらも家臣にいいようにされている様子を見て、これじゃいけない、と思って決行した、って訳ですね。だから〜、元春くんが吉川のお城に入ったのも、山口訪問して、後押ししてもらってからなんだってばっ(笑)
かえってまずい振り方をしたかな?
(ぺら)   大内までからんでいたとは(笑)
そうかあ、男色にふけっている大内の姿と自分の息子の将来が重なって不安になっちゃったんだね。>元就
だから、傷口が大きく広がる前に、元兼と元春くんの間を引き裂いてしまったということなのか。ぼうっとしていたように見える元春くんにも、悲恋はあったんだねえ。(涙)
天文二十年(1551)大内義隆、陶隆房に討たれる。
(さかい) 宮島の歴史民俗資料館の厳島合戦の絵では、大内義隆は、学問、謡、管弦、能楽におぼれ、家臣の陶晴賢に乗じられたと。確かに、道楽三昧の上司ば、亡きものにしても・・・オイオイ。
元就四男穂井田元清(幼名少輔四郎)誕生。生母は乃美の大方(乃美弾正弘平女)
天文二十一年(1552) 元就五男富田元秋(幼名少輔十郎)誕生。生母は三吉氏。
(三楽堂) 五男なのにいきなり少輔「十」郎ですね。どうしたのかな。
天文二十二年(1553) 結婚五年目、隆元(31)に嫡男幸鶴丸誕生。のちの毛利輝元である。
(ぺら)  天文二十二年に隆元のところには長男・輝元が生まれているんですね。ひょっとして隆元くん、育児で悩んでいたのかな?(おいおい)
 ん?
天文二十年には大内義隆は陶隆房に攻められて死んでいるのね。う〜〜〜ん、隆元くんって大内の死後にようやく子供を作ったのかあ・・。
(三楽堂) 愛人の形見、というわけですか。
安国寺恵瓊(16。キャッ)、竺雲恵心の弟子となる。
(矢古女) キャッ、というのが、何とも・・(笑)
天文二十三年(1554)三月、隆元(32)、恵心に書状を送る。
(三楽堂) ボクって、パパと違って才能ないんだ・・・的な内容の手紙。ちなみに隆元は遺書も遺していて、恵心に預けてあった。隆元の死後、恵心から遺書を見せられた弟隆景は、「兄貴はこんなに悩んでいたのか」とショックを受けた。
十一月、尼子晴久、新宮党を滅ぼす。

(三楽堂) 有名な「新宮党誅殺事件」です。これは、裏で元就が糸をひいていた、と言われています。新宮党というのは、新宮谷に居住したためにこう呼ばれるのですが、尼子国久(晴久の叔父)を領袖として、尼子氏の武力の中核を担っていました。
この時、尼子晴久によって国久、誠久、敬久らが殺害され、尼子氏の戦力は大きく減退したのです。新宮党のうち、尼子誠久の子孫四郎は小川重遠らによって助けられ、京都東福寺に預けられました。のちに山中鹿介らが担ぐ尼子勝久がこの人ですね。
(矢古女) この時代、東福寺の住持は、まだ彭叔守仙。そう、「元就」の名を考えた、と言われる人ですね。
(ぺら)  彭叔守仙・竺雲恵心・安国寺惠瓊、そうそうたるメンバーが揃っている東福寺へ勝久くんは入れられたのですねえ。(ああ、狼の群に投げ込まれた子羊ちゃんみたい・・。)
たしかに東福寺は大きいお寺だったかもしれません。しかし、少年坊主だった勝久くんと安国寺たちが、そこで出会った可能性は否定できないでしょう。
師匠の恵心を受けるだけじゃあつまんな〜い、と、安国寺が年下の小坊主を物色しているときに、目に止まった勝久くん・・。このとき孫四郎ちゃん(後の勝久くん)は数えでまだ2歳。すでにこのころから山中鹿介は勝久くんに愛情を感じていたらしい。(笑)
以前、矢古女せんせえが紹介してくれたとおり、池波正太郎大先生も『英雄にっぽん』の中で、勝久くんの身を案じる鹿介の様子をばっちり描写してくれています。それにしても、ここ(角川文庫版『英雄にっぽん』32ページ)、何度読んでもすごい・・。
(三楽堂) ちょうどこの頃、元就は陶晴賢を討ち、防長二州を平定しようという時期だったから、尼子氏に背後を衝かれることを心配して、尼子内部にゴタゴタをおこさせようとしたのかも。
(矢古女) この天文二十三年ですが、あの隆元お兄ちゃんが、竺雲恵心に、「おれはオヤジにはかなわないんだ」とか、いろいろ書いている奴、この年のものなんですねえ。始め、もっと後、つまり、厳島合戦の後に、大きくなった毛利家の当主になるプレッシャーを感じていたのか、みたいな印象があったので、ちょっとびっくり。
弘治元年(1555)毛利元就、陶晴賢を討つ。(厳島の合戦)
(麻鳥)  毛利軍4000人に対し淘軍20000人と戦い勝ってしまった。これは5人に対し1人ということになりますね。これには村上水軍の力が多いにあると言っていました。またこの厳島というところは天然の港として貿易港として栄えていてそこを抑えなければ天下が取れないとお互いが思っていたのですね。
(怪異)  天然の港だったのか・・・。やっぱり平清盛って目の付け所が違うよな!そんだけ!
(矢古女) 主力軍は、夜、暴風雨をついて渡航し、上陸してからは山に登って、待機していた、と。一方、小早川軍は、別ルートで、宮尾城(厳島の毛利方の城)に篭っていた部隊と合流していた。で、夜明けとともに、陶軍を挟撃したんですね。
それで、厳島に渡航するなり、陶軍が脱出できないように海を封鎖するなり、水軍の力が必要だった訳ですが、毛利直属の水軍や、小早川配下の水軍では、まだ不足。そこで、援軍を頼まなければならなかったんですね。
因島の村上氏は、早くから毛利方に加担していたのですが、親族の能島・来島の動向が、なかなかはっきりしない。小早川隆景が、家臣の乃美宗勝を遣わして、説得に当たってました。この時、元就が、「もう、来島衆を待っていられないから、隆景も早く宮尾城を救援するように」と、手紙を送ってます。(翌日、「何ぐずぐずしてるんだ、はよ、来ぬか!」とグレードアップ)
結局、村上水軍は、毛利方に味方しました。その時のエピソードで、次のようなものがあります。
来島通康に援軍を依頼したのは、毛利だけでなく、陶も同様だった。しかし、陶方は、ただ、船を貸して欲しい、と言ったのに対し、元就は、「一日だけ貸してもらいたい。宮島に渡ったらすぐにお返しする。戦いに勝ちさえすれば、もちろん船はいらなくなるのだから」と申し入れたので、通康は、元就の意気に感じて、援軍を決意した、という。
(麻鳥)  厳島の合戦での村上水軍の動きによって戦況が変わってたかもしれないのですね。村上水軍も元就の心意気に惚れたのでしょう。
(三楽堂) 村上水軍の来援は事実ではない、という説もあるそうです。史学界では、なおも肯定説・否定説が提出されています。具合の悪いことに、最初に否定説を唱えたのは、官撰(つまり、萩藩の手になる)の『新裁軍記』が最初で、こちらも相当古い。
しかし、決定的なのは、合戦の目撃証言(厳島神社神主棚守房顕の覚書)が残っていることで、一応、史実ととらえてよろしいようです。
(矢古女) まさか、「村上水軍の助力によって、やっと勝てた、なんて、体裁が悪いから」と言うんで、否定説が出たんじゃ、ないですよね・・。(そんなことないか・・(^^;))
これについて、「来嶋扶持をもって隆元我ら頸をつぎたる」云々、元就おじさん、どっかで、言ってましたよね。
(怪異)  厳島って神社じゃないですか。で、戦いが終わったあと、血の染み込んだ土を海へ捨てさせ、きちんと清めたっていう話、すごく好きなんですよね(^^)
(矢古女) この時(合戦の時)元春さん、神殿が燃えないように、消火活動していたのだと思った。
「弘中隆兼を逃がしても構わないから、火を消せ」って。
元就六男出羽元倶(幼名孫四郎)誕生。生母は三吉氏
元春、陶を失った穴を新庄局で埋めようと、家庭サービスに励む。
(三楽堂) ううむ、オヤジに負けてたまるか、と思ったのかな。それとも新庄さんに抑え込まれたか?そして、翌年めでたく・・・
第6章へつづく


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