年 | 事件・事項 | 注釈(本当は茶々入れ) |
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弘治二年(1556) | 元春夫妻に次男元氏誕生。 | |
弘治三年(1557) | 隆元(35)、父元就の隠退希望に反対する。 |
(三楽堂) よっぽど家督を嗣ぎたくなかったんだね。自分を不器量不才覚とまで言っている。おまけに弟二人にも「パパが隠退するんだったら、ボクも隠退しちゃうんだからな。覚悟しろよ」などと脅かしている。おれ、生徒会長なんてぜぇーったいヤダよ、と駄々をこねている子供みたいだよな。こんな隆元も大内義隆の仇陶晴賢を討つ際には、先頭きって主戦派を演じていたのだ。そのエネルギーの源は、やはり大内への愛か?。 |
元就、三兄弟に対して教訓状を書く。 |
(さかい) 三人の半ば、少しにても、懸子へだても候はゞ、ただゝ三人御滅亡とおぼしめさるべく候 でも、ほうけた親の面倒は御免こうむるとか、なかなか言えない。笑 (矢古女) こないだ、『パタリロ!』で発見した『毛利元就三本の矢の図』。 パタリロが顎鬚はやして毛利元就の役、子供たちは、そう、タマネギ(^^;)(^^;)(^^;) (ぺら) 萩には「毛利元就三矢の教の像」なんちゅう銅像があったのですね。 (矢古女) 萩なんですか?広島じゃなくて? (ぺら) うん、『城と城下町の旅情』(日地出版)という本の萩の頁に、稚児姿も凛々しい三兄弟を前に説教をたれている毛利元就の銅像の写真が載っていました。もう修身の教科書そのものって感じ。萩には輝元くんのお墓もあるのね。 へえ〜、くーちゃん(久坂玄瑞)、すぎすぎ(高杉晋作)、しょーいんセンセ(吉田松蔭)、かつら(桂小五郎)、伊藤博文とかの旧宅も萩にあったのかあ。ご近所さんだったのねえ、と地図を見ながら感心してしまいました。 広島の吉田にある「県立少年自然の家」には「三矢の訓の碑」っていうのがあるそうです。どこに行っても「毛利=三本の矢」のイメージは強いらしい。(笑) (三楽堂) 後世、三矢の訓え、としてひろまった元の話ですな。しかし、この教訓状は元就・隆元の合作というから、父から子へのメッセージというよりも、毛利家の今後の指針といった感じですね。同時に軍法も定めておりますから。そしてこの頃、山陰経略を元春に、山陽経略を隆景に委ねたと推察されます。 (矢古女) 何をどう間違えたか、元就父さん、宛て名を、隆元、隆景、元春の順にした。兄貴から回覧板よろしく回って来た教訓状を見て、元春、いじけたりはしなかっただろうか・・。 ところで、何故、元就は、隆景の名を先にしたのか? (矢古の知っている限り)2通りの説があるみたいです。 1。元就は、隆景の方を頼りにしていた。(これが普通かな) 2。兄弟の結束を乱していたのは、むしろ隆景の方だった。 例として挙げられているのは、隆元兄ちゃんが、「もっと弟たちにも吉田に来て、協力して欲しい」と言い出し、元春や隆景のための宿が造られることとなった。その時、隆景は、宿の場所などについて、「どこじゃなきゃ嫌だ」とか、結構、駄々をこねていたらしい。 (元春は、本家から言われた家屋敷に何の文句も言わなかったという) いずれにせよ、地味な元春くん・・(泣) (三楽堂) 黒沢作品に「乱」ってあるでしょ? あれは、リア王を下敷きにしているんだけど、三本の矢がモチーフにもなっている。主人公の毛利(作品中では一文字)が三人の息子に一本づつ矢を折らせた後、三本まとめて試させる。長男、次男が難渋しているのを見て、一文字が我が意を得たり、とばかりに兄弟の一致団結を説くが、三男が「戦国の世に、そのような甘い考えが通るとお思いか」と膝でおさえつけて三本まとめて折っちゃう。(笑)次男の妻役の原田美枝子が妖しくていいんだ。史実でいくと新庄さんになってしまうんだけど(笑)。 (にゃぐ) かっこえぇなぁ。こういう根性って(笑) たしかに膝で押さえれば折れるわ。たいがい(笑)。野球のバットだって太股使えば折れちゃうもん(笑) |
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永禄二年(1559) |
元就七男天野元政(幼名少輔六郎)誕生。生母は乃美の大方。 | |
永禄三年(1560) | 毛利元就、正親町天皇即位大礼の費用を出し、陸奥守に任ぜられる。同隆元は大膳大夫、元春は駿河守に任官。 |
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安芸興禅寺の竺雲恵心上洛。二月七日、参内し、紫衣を許される。ついで南禅寺の住職となる。 |
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山中鹿介(16)、初陣。山名家の豪傑菊地音八を討ち取る。 |
(三楽堂) この間に、鹿介は初陣を遂げるんですが、その相手が講談などでは、菊地音八という豪傑。で、故・柴田練三郎の小説だと、鹿介は素っ裸になって、相手に挑んで行くの。意表を突く戦法なのだろうけど、いかにも「してください」みたいに菊地の前へ。太刀打ちからはじまって、おきまりの「組み打ち」。当然ながら(?)、鹿介は押し倒されちゃって。で、結局は油断した菊地音八が鎧通しを手にした鹿介に討ち取られてしまう、という・・・。 (にゃぐ) ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ(^O^) 自分のカラダを餌にするとは、鹿ちゃん、やるでねぇか!!(笑) (三楽堂) これはもちろん、柴練のつくり・・・。 (ぺら) ふ〜ん、元春どのもそうだったけれど、初陣にからんで押し倒されちゃう人ってけっこういるんですね〜。(笑) (矢古女) これこれ(笑) (三楽堂) だから、これは柴練の創作だってば。 (にゃぐ) いいぞう!ヽ(^!^)ノヽ(^!^)ノヽ(^!^)ノヽ(^!^)ノ 5252・・・ 鹿ちゃんは、美男、というより美丈夫だったっていう話だよねぇ(^^) (三楽堂) ひ、人の話を聞けぇっ。 まあ、ハダカになったのは、柴田氏の創作と思う(氏はけっこう、意表をつかせるために主人公たちをハダカにさせる)が、『雲陽軍実記』なんかではどうなってるのかなあ。 毛利側の史料である『陰徳記』では、登場は尼子晴久没後、義久の代になり、永禄六年、白鹿城攻防戦において。義久の近習、とある。たしかに永禄六年十月には尼子十旗の随一といわれた白鹿城を毛利方が攻め、城将松田誠保が逃亡し、開城する事件がおこっています。初陣はたぶん、これ以前のことでしょうが。 | |
元就八男末次元康(少輔七郎)誕生。幼名生母は三吉氏 |
(三楽堂) 乃美の大方VS三吉氏の子づくり合戦が続きます。 (にゃぐ) ほんとだ。どっちも一年差で産み合っているぞ(笑) (三楽堂) そうですね。まとめると、 四男:穂井田元清(母乃美の大方)少輔四郎、1551生。 五男:富田元秋(母三吉氏)少輔「十郎」、1552年生。 六男:出羽元倶(母三吉氏)孫四郎、1555年生、早世。 七男:天野元政(母乃美の大方)少輔六郎、1559年生。 八男:末次元康(母三吉氏)少輔七郎、1560年生 ・・・となります。 エー、このほかに毛利元就には隠し子が一人います。(歴史的にわかっているという意味で) 順番からいえば、四男元清の前。 二宮就辰(母矢田元通女)、幼名虎法丸。この人は通常の系図には載っていない。いわば隠し子ですな。1545年と1548年の生年説あり。となると、この人が4男? (矢古女) 詳しくは知らないけど、井上の一族が粛清されたとき、確か元就の妹婿のところは井上一族でも助かっているんだけど、その他、山陰方面に逃れた者(後で戻ったのかな、多分)もいて、彼の母も、元就のお手つきだった、ということを聞いたことがあるような気がします。 要するに、元就の隠し子だったから、助けられたという訳。 ところで、山陰に、ってことで、逃がしたのは元春みたいなんですな。二宮も、吉川の家臣の家柄ですね。 とゆーわけで、私は、元春がオヤジの隠し子担当だったのでは、という妄想に取り付かれたことがある・・。 (にゃぐ) 元気なオッサンや>元就。 (三楽堂) さらに三吉氏は乃美の大方が四男元清を産む前に女の子(上原元将室)を出産しています。さらに驚いたことには、元就の子づくりはまだ終わらないのだ! (矢古女) みょーなとこ、マメなオヤジだよな・・。生ませる方も、生ませる方だ。 (三楽堂) 妙玖亡き後の、三吉VS乃美VS中の丸の側室三国志は見ものかも。 中の丸さんには子供がいなかったけど、非常に出来た人で筆もたつ。元就の秘書みたいな役割だったらしく、元就の養母杉の大方を彷彿とさせる。 (ぺら) どうでもいいことだが、元就の七男、元政は少輔六郎と呼ばれ、八男の末次元康が、少輔七郎なのね・・。数字がひとつ、ずれてるような気もするけど(笑) (三楽堂) わたしの推測(というより妄想)では、6男出羽元倶が死んだ時点で、あとの弟どもが「系図上」では一個ずつ繰り上がった。その時、系図を操作して「穂井田元清が少輔四郎だから、富田元秋一人をおいて、次は(天野元政が)少輔六郎だ」と。 系図というのは、「間違い」というよりは、作為だらけだからねえ。 あるいは、側室三吉氏は当初はあまり重要な存在ではなかったのかもしれない。で、比較的重んじられた乃美の方の産んだ子は少輔×太郎、とつけられた。一方、三吉氏のほうは、別の名前をつけられたり、いきなり飛ばして少輔「十郎」などとつけられた。ところが、ころころ子供を産むので、三吉氏の地位も上がり、ようやく末次元康にいたって順番どおり(ほんとは一個ずつずれているのだけれども)少輔七郎の名前を貰った、というのはどうでしょう。 あ。・・・少輔五郎もいないね。 (矢古女) うん、何となく納得。 少輔次郎など、幼名にしては、なんか、重たいような気がするんですね。子供の名前としたら、徳寿丸(隆景)とか、鶴法師(元倶)とか、才菊丸(秀包)とかの方が、カワイイ(おいおい(^^;))ような。(確かに、少輔太郎が元服して、隆元になったみたいではあるが) 元春なんて、元服して嫁さんもらう頃まで、「少輔次郎」と呼ばれてるんじゃ、ないかな。(で、すぐ、吉川の家督を継いで、治部少輔なのね) (ぺら) 元就についてはマメという意見も出てるが別の見方もあるぞ。 自分のかみさんが妊娠していて、いろいろと無茶できない(なんの?)ときに、よその女に手を出すっちうのは、ありがちだ。(これを源頼朝×亀の前パターンと呼ぶ) つまり、三吉氏はだったのではないか? でも、妙玖さんとの関係を振り返ってみると、元就ってスペアー女を必要とするような体質ではないような気もするから、やっぱり、マメなんだろうなあ。(笑) (にゃぐ) 年とってから、そういう体質になった、つまり、じじいになってから、そっちに目覚めてきた、ってのはどうだ!!ごめんよ〜(泣)>元就ファン (矢古女) 乃美大方が、秀包を懐妊したとき、さすがに元就は喜ばず、「適当に処分せよ」って言ったとか、言わないとか・・。 (にゃぐ) 贅沢な(笑)。男の子をたくさん持っているから、こういうことも言えるんだな(笑)猿が聞いたら泣くぞ。 (三楽堂) 実際、秀吉は非常にうらやましがっている。これが養子送り込み作戦の遠因かな。 (矢古女) 「スペアー女説(?)」も出た三吉氏。あの辺の、豪族の娘、らしいけど、妙玖さんの侍女説もあるようです。穂井田元清(乃美の大方の長男)より先に、女の子を生んでいるのでは、と言われますね。 ますます訳わからなくなってきた(^^;) (ぺら) ふと、思ったのですが、もし、少輔五郎という子も実際にいて(生まれた直後に早世してしまったとかいった理由で、記録に残っていないとかさ)、で、母親は乃美の方だったとして、さらに、その生まれた年は1554年だったとしたらばさあ、(以下の内容はすべて仮説だからね〜) 4男:穂井田元清(母乃美の方)少輔四郎、1551生。これはよい。 5男:富田元秋(母三吉氏)少輔「十郎」、1552年生。 ??(母乃美の方) | |
十二月、尼子晴久病没(47) |
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永禄四年(1561) | 元春嫡男元長(14)、隆元の加冠により元服。 |
(矢古女) 多分、一月のこと。長男の元服を、元春夫妻は大喜びしたんでしょうね。ちなみに、同年十一月一日、三男広家(才寿丸)誕生。(広家、キミは元服祝いだったのね(泣笑)) (なんのこっちゃ(^^;) ) (にゃぐ) わっはっはっはっはっはっはっは!!(爆)元春さまの子作り思考って、すっげぇわかりやすくて、いいわ〜!(爆) (矢古女) 永禄四年の吉川鶴寿丸(元長)元服は、一月二十八日、恐らく。 「永禄四年一月二十八日 毛利隆元加冠状」と言うのを見つけ、実際の資料にあたってみよう・・と思ったら、借り出されていたのか、見当たらず(;_;) |
永禄五年(1562) | 夏、元春(33)、一ヶ月ばかり寝込む。 |
(矢古女) それを知った元就、「医者に見せるもの良いが、神仏に祈れ、灸を据えろ」と言い出す。「元春も厄年だから、用心せねばならん」と。(ホントに灸を据えられたかどうかは、不明らしい(笑)) 矢古のひとりごと: 男の33歳って、厄年って言うのね・・? 女の場合かと思ってた。 (にゃぐ) 現代では、男の厄は42歳、女の厄が33歳と19歳ですよね。昔とは違ってきているのかぁ! これって結構な発見かも!! (矢古女) 元春どのが寝込んだとき、隆元お兄ちゃんから、「川獺の塩漬け」なるものをもらっている。(なんなのだ?) |
三月、元就・隆元、隆景居城雄高山を訪問、「太平記」読書会、連歌、蹴鞠大会などを催す。 | ||
十二月、元就、尼子氏の居城富田城を包囲。 |
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十二月二十一日、隆元、厳島神社に願文を奉納。 |
(三楽堂) まるで自らの死を予言するかのように、父元就の身体強健寿命延長を祈願し、もし父の身上に病難があれば、身をもってこれに替わるべし、という内容のものだった。 | |
第7章へつづく |