事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
天文八年(1539)この頃、BOOKフェチ大内義隆、「大内版」と称する出版活動にハマる。
(矢古女)『吾妻鏡』は、後、吉川家の蔵書となる。(他にもあるかもしれない)

(矢古女) この間、元就は完全に消えてしまってますね。何もしてなかったことはない、と思うのですが。弟たちは雪合戦。子供の頃の雪合戦の図は、じゅうぶんドリーマーになれる(笑)
(ぺら)  矢古女さんがドリーマーになれるという雪合戦のエピソード。
子ども時代、雪合戦で遊ぶとき、少輔次郎(吉川元春)は腕力で戦い、徳寿丸(小早川隆景)は知力で戦ったっていう話なんですが(くわしい解説もしくは訂正があったら頼む(笑))、これって2人が何歳のころのエピソードなんでしょう?
(矢古女) いくつくらいなんでしょう?まあ、少輔次郎(元春)くんが、10才くらいのときかな?
(ぺら)  いや、実は矢古女せんせえって、何歳の男の子を対象にドリーマーにひたっているのか、ちょっと気になったもんで・・。(ま、まさかこれぞショタコン?!(笑))
(矢古女) 純粋に、かあい〜じゃあないですか(笑)
(ぺら)  でも10歳くらいの少年相手にドリーマーって・・、うふっ。(まあ、深く気にしないでくれ。(笑))
(矢古女) 元春くんと隆景くんが、幼い頃、二組に別れて雪合戦をやったときの話。一回戦、元春兄ちゃんは、まっすぐ突き進んで攻め、元春組の勝ち。ニ回戦、隆景くんは、伏勢を置いておいて、隆景組の勝ち。
で、元就パパは、子供たちの様子を見て、元春は北国向き、隆景は海沿い向きだ、と適性を見抜いた、というお話ですね。(いいパパと言おうか、はたメイワクな親、と言おうか・・)
(ぺら)  子どもの適正を見抜いたってことよりも、最終的には負けちゃった兄ちゃんのプライドを傷つけなかったことに感心してしまう。普通さあ、こういう状況だったら、「少輔次郎、おまえ、年上のくせにアホやな〜。」とか、つい口から出てしまうぞ。
(矢古女) このエピソードはどっちかと言うと、隆景くんを誉めてる話ですね。(しかし、このエピソードが取り上げられるとき、結構、少輔次郎にも好意的に書かれているような気がする・・)
話変わって、ちょいと間抜けなお兄ちゃんと言えば、ほら、聖徳太子のエピソード。
太子が子供の頃、弟たちと一緒に庭で騒いでいたら、父(用明帝)が、子供たちを叱り付けようと、出て来た。 それを見て、弟たちは逃げたが、太子は逃げず、言い訳しなかった・・。
というのが、ありましたね。
これは、聖徳太子のえらさを示すエピソードなんですが、いちおう。読みようによっては、「なあんだ、弟たちの方が、すばしこいんだ、こいつ、とろいんじゃない?」とも解釈できる、と。
(三楽堂) 昔話でも、たいてい兄より弟のほうが頭いいしな。ブーフーウー三匹の子豚だってよ、末っ子が一番出来がいいじゃない。サンフレッチェも同じだよ。(長男の諦観)
(矢古女) これ、隆元お兄ちゃんが、二人の戦う様子を、パパと一緒に見ていた、というヴァージョンもあるみたい。
(にゃぐ) あ、これいいな(*^^*)(そういう問題か・・・)やっぱ兄弟はいいっすよ〜。一人でも多い方が楽しめるっすよ〜。何を言っているんだあたしわ
(三楽堂) 合戦は弟たちに任せて、おまえは大人しくしておれ、と?。そりゃ、ますます長男に酷だわ・・・.
(矢古女) 隆元お兄ちゃんたら、「元春と隆景は、自分たちばっか仲良くして、私をのけ者にするんですっ、父上っ」と、パパに泣き付いてましたね、そう言えば。
天文九年(1540)隆元(18)、山口より戻る。八月、家督相続。この時、元春11歳、隆景8歳。
(三楽堂) そろそろ物心つきはじめた元春、隆景はびっくらこいたでしょうな。見慣れぬ男が戻ってきて「お兄ちゃんだよ」なんて。寂しかった隆元は弟二人の歓心を買おうと、山口みやげのふぐちょうちんを与える。(隆元はおみやげとか買うのは下手っぽい)意味不明なものを貰って、困惑している元春、隆景・・・・。「アラ、よかったわねえ」と三兄弟揃ったことを喜ぶ妙玖さんの前で煮え切らない返事をする元春。「あはははは、あんたたちにはピッタリだわぁ〜」と言いつつ、自分の分のふぐちょうちんがないのでちょっぴり残念な姉五竜。そんなこと知ってか知らずか、正体不明の物体を両手の中で転がしながらしげしげと眺める探求心旺盛な隆景。
(怪異)  気を使っているらしい、長男隆元・・・。健気じゃねぇかぁ、泣かせるぜっ!(しかし「ふぐちょうちん」というその選択・・隆元、ナイスセンス)
(矢古女)「せっかく、お兄ちゃんがくれたのだから、大事にするのよ」と妙玖さんに言われ、また、訳もわからずふぐちょうちんで遊んでいる弟を見て、少し悩む元春少年。とりあえず、机の上に置いておこう(笑)
(三楽堂) サンフレッチェのネーミングなんだけど、長男隆元は、すけべ大内(だからぁ・・・)の名を一字もらったのでしょう?。烏帽子親だから。次に真ん中を素っ飛ばして、三男隆景も一応そうなのかな。で、最後まで家に残ってた売れ残り(失礼)、いや、秘蔵っ子の次男元春は、元就の六代前の人の名前をいただいてきておりますね。または、兄隆元の偏諱を受けた、とも言われます。それとも惣領となった隆元の名を半分にして二人の弟にそれぞれ相続させたのかな?。

九月、尼子詮久三万の兵にて、郡山城に攻める。
(三楽堂) 元就の代表的な戦いですね。尼子勢は、翌年正月まで布陣を続けるのですが、毛利側も果敢に撃って出て、寄せ手を敗退させています。
(矢古女) 元就たちは、籠城して戦ったのですが・・。籠城するってことは、援軍を待つ、ってことですね。もちろん、大内からの。その間、山口にいた隆元くんが、必死に大内のお屋形に、「パパを助けてよ〜」と、泣き付いていたかどうかは、不明(笑)。さて、大内の援軍を率いて吉田の郡山城にやって来たのは、陶隆房。当時11歳の、元春少年と会ったかどうかも、不明・・。
翌年、元春くんの初陣です(^^)
(にゃぐ) これ、いいっすね(笑)
「パパを助けるも助けないも、お前次第だよ〜ん」なーんてね。
九月十二日、太田口、広修寺縄手、祇園縄手の合戦。
九月二十六日、坂豊島の合戦。
十月十一日、郡山城下にて毛利・尼子方激突。
十二月三日、大内軍(主将陶隆房)、毛利救援のため吉田に着陣。
(ぺら)  で、当然興味は陶隆房と元春くんの出会いなんですがあ。(笑)
尼子軍が退却した後、たぶん戦勝祝賀会(そんなもん、あったのか?)かなんかで、隆房と元春くんって顔を合わせたって記録は残っているのかな?
『山霧』の表現を借りれば「まだ前髪立ちの鉢巻き姿は、凛々しいというより可憐であった」元春くんをはじめて見た隆房が、どのような感想を持ったのか、想像すると、くっくっく、楽しいぞ。
「をををっ! 元春のほう隆元よりが上玉だ!」という、世間(大内?)の評価からかけ離れた感想を持った隆房とか・・。(笑)それとも、元服前の武者姿、というのに隆房はくらっときたのだろうか?コスチュームに弱かったとか・・。今でいうところの軍服フェチってヤツ。(笑)
(矢古女) それってかなり、アブナイような気もする・・(笑)隆房、ってそーゆー奴だったのね・・。(おいおい(^^;))
天文十年(1541) 一月十一日、大内軍、本営を天神山に移動させる。
一月十三日、宮崎長尾・青山三塚山合戦。尼子軍大敗し、石見へ撤退す。
(三楽堂) サンフレッチェのトップをきって次男少輔次郎元春(12)、元服前に初陣。
元春「父上、ぼくも出たいよお」
元就「ええい。うっとうしいやつ」
元春「いいでしょう、ねえ?」
元就「だ、ダメじゃ。こ、この次、この次」
元春「この間もダメだって言った時、この次って約束したじゃないか」
元就「この次は・・・、今度のこの次じゃ」
元春「いつまでたってもこの次じゃないか。ねえ、父上。ねえ、ねえ、ねえったら〜」
元就「これ、裾をはなせ。あっ、敵がそこまで来ておるではないか」
元春「出たい、出たい、出たいっ、出たいったら出たーい!」
元就「は、はなさんか。コラ。河内(井上河内)、少輔次郎をあっちへ連れて行け」
井上「若、ささっ、参りましょう」
元春「やだよお〜」
  元春、父の裾をつかんだまま、井上河内に引きずられていく。
元就「河内、河内。わしまで引きずってどうする? 二郎、離さんか」
井上「若。大きくなったらきっと頼もしい大将になられますぞ。ここは我慢いたして下さりませ」
元就「そうじゃ、子供はあっちへ行っておれ」
元春「ぼく、もう子供じゃないもん」
  元春、ちょっと頬を赤らめつつ、父元就の耳元で何事か囁く。元就、井上河内絶句。
元春「ウフッ。ね、ね、ね。いいでしょう?」
相当、父元就にねだったようですね。元就もうるさくつきまとわれて、「まあ、いいか」という気になったのだろうか。(笑)
(にゃぐ) わはははははは(爆)なんだか、目に浮かぶようだわ!! 可愛いっ!(爆)
(ぺら)  「武士が初陣に出るのをなぜ止めるっ!」とか言って、井上河内元兼を斬りつけようとしたっていう話は読んだことあります。あと、止めようとした元兼に羽交い締めにされてもそれでもジタバタしていた、っていうのも。別の意味でも初陣だったのか・・。
(矢古女)  ああ、せっかくの初陣の話が
シーンその1:元兼、元春少年を羽交い締めにして引きずっていく。
シーンその2:元春少年、刀を振りまわして抵抗する。
うう・・(涙)(勝手に想像して、泣いてしまった(笑))
(ぺら)  勇気があるとかいうよりも、やんちゃなガキやなあ、というのが率直な感想だったりして・・。いや、本当なら、たくさんの尼子勢に囲まれて、「自分も戦わなくては」とけなげに立ち上がった少年、と解釈すべきなんだろうけれども。(笑)
それよりも、元春くんがはにかみながら何を囁いたのか、ぜひ、くわしく知りたいぞ。(笑)
(にゃぐ)  ぺら姉上に同じく!私も何を囁いたんだか知りたい!いろいろ妄想してみると、楽しかったりもするけど(笑)
(矢古女) おやおや・・(^^;) 何考えてんだか、一体(^^;)
しかーし、戦を終えておうちに帰って来た元春くん、緊張がゆるんでひっくり返ったりしなかったかしら、とちょっと心配だったりもする・・。
五月十三日、元就、武田氏居城佐東銀山城を攻略。武田信重自刃。
十一月十三日、尼子経久没(84)。
安国寺恵瓊(4)、出家す。
天文十一年(1542)一月十一日、大内義隆、出雲へ出兵。
(三楽堂) 大内の行動は明らかに前年の尼子経久の死につけこんだもの(痛い目にあうとも知らずに)。毛利元就も参陣し、3月下旬には石見出羽二ツ山に着陣します。
天文十二年(1543)元春(14)、隆元の偏諱を受ける。
天文十三年(1544)隆景(12)、竹原小早川家を嗣ぐ。
天文十四年(1545)四月、大内義隆、奢侈を禁じ、尚武の壁書を出す。
六月八日、杉の大方没。
(三楽堂) 天文十四年六月八日没、法号順徳妙孝大姉。
杉の大方のエピソードは、そのほか例の「ニワトリ事件」がありましたな。墓は明らかではありませんが、吉田郡山城山麓にある祇園社(清神社)の境内末社に椙若社という小さな祠があり、祭神には「毛利元就公母儀杉の大方之霊」と書かれていたそうです。現在は、祠はなく、本殿に合祀されているそうです。
(矢古女) この年の、11月末、妙玖さんも世を去るんですね。杉さんには、エピソードがあるんですが、妙玖さんが出てくるエピソード、って、ないですよねえ。
八月、山中鹿介、富田城付近の新宮谷で生まれる。幼名甚次郎。
(三楽堂) 山中鹿介幸盛。表記は「鹿介」ですね。これで「しかのすけ」と読む。「鹿之助」は立川文庫や講談の表記のようです。これは尼子十勇士を別名「尼子十介」ともいう。この十人については有名な真田十勇士のようにメンバーが一定しておらず、また、実在が不明な人物もいるらしい。十人というのは、真田にしろ尼子にしろ、講釈師の創作のような気がしますね。
年配の方には、「七難八苦をわれにあたえたまえ」と三日月に祈る姿がおなじみでしょうね。兜の前立ても、三日月。別姓亀井。亀井鹿介という名前で書状が遺っていますが、動物を二匹もしょってると、ちょっと間がぬけてますね。亀井鶴之介だったら、もっと笑ってしまう。これは一時、亀井氏の養子になっていたからみたいです。その関係でのちに亀井家を嗣いだ湯永綱(ゆ・ながつな)の子、新十郎(津和野藩祖・亀井茲矩)を弟分に連れて各地を転戦することになります。
(ぺら)  じゃあ、新十郎と鹿介の関係って、三国志の孫策と周瑜みたいなものになるのかあ。でも、なんだか粒の大きさが違うような・・。(笑)
(三楽堂) 鹿介の奥さんも亀井秀綱の長女。で、秀綱の次女が新十郎と結婚(鹿介の娘と結婚という説もあり)。二人は兄弟になるのですね。
父は山中三河守満幸。母は立原佐渡守綱重の娘なみ。兄一人。甚太郎。
(矢古女) おっかさんは、賢母だったらしいです。鹿ちゃんて、肖像画、きれいだよね。
(ぺら)  切れ長の目もとも涼しげなヤツですね!
あれは美しいですね〜。やっぱりこれも「こんなお小姓を侍らせてみたい」って感じのお顔だね。(笑)
(三楽堂) 鹿介の生誕地は、のちに、一族根こそぎ誅殺される新宮党の発祥地と同じですね。新宮党の生き残り尼子勝久を担ぐことに抵抗を覚えなかったのも道理。別の理由かもしらんが。
(矢古女) ところで、別の理由、って??(と、聞いてみよう(笑))
(ぺら)  安国寺惠瓊が後の東福寺213世住持・竺雲恵心と出会ったのが天文二十二年(1553年)、このとき惠瓊は恵心に見いだされ、恵心とともに上京。(おお、新宮党事件の前年!)
天文二十二年に隆元のところには長男・輝元が生まれているんですね。ひょっとして隆元くん、育児で悩んでいたのかな?(おいおい)
 ん?
天文二十年には大内義隆は陶隆房に攻められて死んでいるのね。う〜〜〜ん、隆元くんって大内の死後にようやく子供を作ったのかあ・・。
十一月、妙玖没。
(三楽堂) 隆元は、亡くなった母のために毎晩、念仏三百回唱えたという。永井路子氏の『山霧』はちょうどここまでで終わってますね。
天文十五年(1546)元就(61)、愛妻を亡くして張り合いを失ったか、突如「隠退したいよ」と志道広良らを前に胸中を語る。





















小早川隆景・米山寺蔵
(麻鳥)  元就と息子隆元、元春、隆景は軍略の為に妻を娶り、御妾さんは囲いいれずに一生涯を過ごしたことが書かれていましたが本当なのでしょうか。天下をとる男がそんなことありえないとおもうのだが・・・
(ぺら)  今までに歴史館で考えられた、毛利一族のおとなしい女性関係の理由は・・

元就:井上元兼にヘンなことされて、色恋沙汰にウンザリしていた
隆元:大内義隆を愛してた
元春:井上元兼を愛してた or ゲテモノ好きだった(正確には少し違うらしい)
隆景:兄の元春を愛してた

ひ、ひでえ・・。
よく、女性との噂がない芸能人なんかは、いろいろと話のタネにされているけれども、ほとんどそれと同じノリやんけ。(笑)
(にゃぐ) おお、次々と新発見事実が出てきたな(笑)この中で、一番不幸というより、哀れなのは・・・。元春さまだろう・・・。境遇が哀れなのではなく、その性格が(笑)うう・・(涙)
(矢古女) 責任の一端は、私にあるのかも知れないが、あまりにあまりだ(涙)でも、隆景くんの、
「妻には、肩衣・袴を着け、客人に対するように接していた」
というのは、やっぱりヘンだ(おいおい(^^;))
(ぺら)  うんうん、絶対ヘンですね、これは!
(三楽堂) ほんと、ヘンだなあ。今だったら、夫が妻に「お客をもてなす時は、おれの背広を着るんだぞ」といったところかな。お客もびっくりするぞ。
(ぺら)  元春どのが器量の悪い娘をわざわざ妻に望んだ、これだけならば、まだいい。しかし、その弟まで不審な行動をとっているんだもん、やっぱり、これは一族揃ってなにかヘンだったと考えていしまうじゃないですか。(笑)
(矢古女) ちょっと待て。「醜女の奥さん」を貰った人は、全国に例はある。やっぱり、「肩衣・袴」の方が、もっとヘン・・というか、何か、妄想を呼ぶものがある(おいおい(^^;))。方向性は、見えてるよな(笑)
(ぺら)  でも、醜女だということを知りながら(実物を見ても気づかないで?)、よろこんで貰った人ってなると、かなり減るんじゃないかい?(笑)
(矢古女) うーむ。やっぱり、一族揃ってヘンかも・・(^^;) 小早川隆景も、結構、不幸な目にあっているよね(笑)
(ぺら)  「妻には、肩衣・袴を着け、客人に対するように接していた」っていう部分でかなり自業自得というか・・。(笑)(しかし、小早川隆景ファンってけっこういそうだよな。隆景ファンをみんな敵に回しているんだろうか、私ら。(笑))
でも本当のところは、女性も大事にするというのは毛利さんところの家風だったみたいですね。
男子がいない家でも女子が婿養子をとって跡目相続することが許されていたし、さらにその2人が離婚したならば所領は女子のものとなったとか。もっとも、これは毛利ばかりではなかったようですが。それに、元就自身の考え方も女性の人格っていうのを尊重していたようですね。
嫁いだ娘のことを気にかけたり、息子や孫の嫁に手紙を出してみたり。(普通、今の時代でも、嫁に手紙を出す舅って少ないぞ〜。)毛利氏はとくに女性には優しかったようですが、女性の地位ががくんと低くなったのは江戸時代になってからだという話は聞きますね。
(矢古女) はい、説明感謝です(^^)>学級委員長。「内をば母親が治め、外をば父親が治める」と、考えていたんですよね。
(三楽堂) そうそう、元就って筆まめだけれど、女性へ書き送った手紙も多いんですよ。男から女へ送った手紙(あるいはその逆。あまり残ってないけど)って、内容も生活臭の濃いものだから、戦国の人々がぐっと身近に感じられてしまうんですよね。
第5章へつづく


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