事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
天文六年(1537)十二月、隆元(15)、質子として山口の大内義隆のもとへ赴く。
(三楽堂) 隆元が山口にいる間の消息としては、「毛利隆元山口滞留日記」があります。
(矢古女) 私の記憶に間違いなければ、>「毛利隆元山口滞留日記」というのは、『毛利家文書』の始めの方に載っている、10ページにも満たない記事じゃなかったですかねえ。
(だが、大内・陶を始め、相良とか、青景何とかとか、出てくるという)
(三楽堂) 十二月一日に隆元、山口御宿「ホテル大蔵イン」にチェックイン。大内義隆はさっそく樽折(酒肴のこと)を送った。ホテルは現在の山口市北郊、大蔵山の東麓にあった。今の瑠璃光寺の塔頭のひとつだった。大内義隆のウエルカム・ドリンク、隆元は呑んだでしょうか?
十二月六日「御対面にて候」。つまり、隆元が大内邸まで伺候し、義隆と対面した。両人とも舞い上がり、義隆は自ら縁側まで見送った。町の評判も上々。
十二月七日、陶隆房が樽2折3(具体的な数)を送る。
(三楽堂) 義隆の時には、「御樽折」としか書かれていないのに、陶からの贈り物は具体的な数が。これはきっと、意味があるに違いない。義隆のプレゼントは樽1に折1だったのだと思う。質より量で勝負か、陶隆房。
(ぺら)  一日にもらった大内からの贈物にたいして、それほど詳しく記述していないのは、おそらくこのときは対面もしていないし、特別な感情はまだ生じていなかったのでしょうな。まだ隆元くんはうぶな少年だった、ということなんだろうなあ。しかし、陶からも贈物をもらっていたとはねえ。まさか、陶も隆元にくらくらっとしたのだろうか。それとも、陶は隆元にライバル意識を感じ、牽制するために豪華な贈物を送ったとか・・。
(三楽堂) とはいっても、この「山口滞留日記」は隆元自身が書いたものではなく、近臣の誰かが書いたわけだから、「特別な感情」云々、ということはないと思う。
十二月十二日、隆元、湯田温泉(おそらく一泊)へ。
(三楽堂) 長禄三年(1459)に大内弘世が出した制札に、湯治の人・女人・農人らを除くほか、「夜中」に湯田の湯へ入ることは禁じられていた。したがって、義隆がこの空白の一日を利用して、隆元の入浴を除き見た可能性は低い。
(にゃぐ) なんやー(^^) 下見してたんとちゃうんかぁ(笑)
十二月十八日夜、隆元、元服にそなえて、お座敷での行儀作法を江口殿(大内家臣か?)から習う。「御懇ろに御物語り候」。誰と?
(ぺら)  さて、問題は「誰と?」だな。江口か大内か。
(三楽堂) 一夜漬けか、隆元・・・。隆元(正確には少輔太郎)、明日は元服というので緊張気味。
江口「よろしいか。わたしの言うとおりにしなされよ」
隆元「よろしくお願いいたします」
江口「御屋形様が、こう、あそばされたら・・・」
隆元「あっ」
江口「こう、おいでなされませ」
隆元「ひい」
  ・・・何を言わせるんですか。
(にゃぐ) うっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃヽ(^!^)ノ
輿入れする姫に、おつきの婆が仔細を伝授しているようなものだな。よしよし・・・(^^)
(矢古女) ううむ、人質で男の子たちが来るたび、教育係が指導しているとか・・? いや、吟味係(何、それ(^^;))がいたりして。でも、そーゆーこと、取り仕切ってる人がいたら、大内家で実権握れそうですな。ああ、環境の激変にとまどう隆元お兄ちゃん・・。そのころ弟たちは、無邪気に雪投げしたりして遊んでいるだけだものねえ。
(ぺら)  三楽師匠は「江口による教育」説をとられるわけですな。しかし、私は「大内初物いただき」説をとりたい。元服前の最後の夜になるわけなんでしょ? うーん、そういう貴重な瞬間を大内が家臣にまかせるとは思えないんだなあ。やはりここは「すけべ大内」の名にかけても大内みずからの手で・・。
(にゃぐ) どっちもええでぇ。では、わてが丸くおさめてやろう。江口は下準備をしたんや。(だから何の(;_;))で、本番でいただいたのは、大内や。どや。
十二月十九日、隆元元服。
(三楽堂) この日から、年末まで、挨拶回りで大忙しの隆元。
十二月二十一日、正寿院へ宿泊。ここの坊主は、義隆の御伽衆であった。以後、隆元ここを宿所として寺社見物。
十二月二十六日、義隆、隆元の宿所正寿院へ。
十二月二十七日、隆元、「御礼」のため義隆を大内館に訪ねる。
(ぺら)  ああ、なんだかこの2人、いっきにのめりこんでいく様子が目に浮かぶ。かたときも離れたくないって感じがひしひしと伝わってきますねえ。
十二月二十九日、陶の物量作戦に対抗して、大内義隆、柳(清酒)5荷のほかに鷹のつがい(義タカとタカ元にかけている?)、折(肴)5つを贈る。(義隆、御歳暮攻撃)
大晦日。義隆の御歳暮攻撃続く。小袖、上下が届けられる。
(にゃぐ) いやもう、義隆の下心ミエミエで、くらくらしてきた(笑)
(三楽堂) 「ゆく年くる年」を見ながら炬燵入っていた隆元、こうして天文六年は暮れてゆく・・・。
(ぺら)  こういうのを読むと妄想がわき出てくる。(というか妄想しか出てこない。)
天文七年(1538)安国寺恵瓊、安芸国守護武田信重の子として生まれる。
一月四日、隆元、築山館表の間にて年始挨拶。
七日、陶五郎、樽酒3荷、折(肴)5合を隆元に贈る。
十二日、隆元、御弓始を見物。

十五日、でえと。
(にゃぐ) わは、わははははは(爆)
十六日、殿中にて宴会。
(三楽堂) きっと、この時は家中の者が邪魔で、ゆっくりできなかったのだね。なぜって、わずか5日後には・・・。
二十一日、大内義隆と隆元、宴会。
二十四日、義隆が隆元の宿所を訪問。
二十五日、隆元、湯田温泉へ行く。
二十七日、義隆、隆元に鯉の折をプレゼント。
(三楽堂) 鯉って、恋・・・?、なんちゃって。
(矢古女) ・・うむむ。片時も、離れたくない、って感じですね。でえとにプレゼント攻勢。(隆元くんの肖像画を見るに、かわいい子供だった、と言われても納得するよ、私は)
二月一日、隆元、殿中へ出仕。
七日、大内義隆、大内の氏神氷見妙見社へ社参。
十三日、隆元、氷見妙見社のおまつり見物。(二月会)童舞、歩射などが催される。
十五日、大内義隆、隆元へ鶴の折を贈る。
二十五日、大内義隆の養子義房、元服。父は一条大納言房家、母は義隆の姉である。
この頃、火事多し。連続放火か?。
二十九日、隆元、例の「江口殿」のもとでレッスン。(乗馬です、乗馬)
(にゃぐ) ふん。乗馬だけじゃないだろう。取りあえず『慣れた』ところで、今度は高度な『技』を教えたに違いない。
ところで、江口殿、何故それだけの技を知っている・・・?
三月二日、大内義隆、隆元に鷹5羽を贈る。
三日、大内義隆、法泉寺へお花見。
四日、築山御殿の門前で火事。
(三楽堂) 大内義隆と隆元への嫉妬か? 犯人は誰?
七日、本町大火。隆元の家来たち、消化活動にあたり、大内義隆からご褒美をもらう。
十一日、能見物。隆元、一条大納言房家(義隆の義兄)と出会う。
(三楽堂)
義隆「大納言殿、今日はひとつ、まろの秘蔵をご披露しよ」
房家「ほうか。それは楽しみじゃ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
口もと覆う扇の陰で、互いに寄せるお歯黒スマイル。
義隆(文化人は・・・)
房家(歯が命・・・)
そうとは知らずに、能に見とれる隆元・・・危うし!。
さて、隆元の運命であるが・・・。なんと、
  (以後、九日分記述なし・・・)
(にゃぐ) えっ。
(三楽堂) 隆元、もしや腰がたたなかったわけじゃないよな。(涙)
(にゃぐ) もしかして、大内と房家との3ピー!?(そのまんまやないかい!(泣))腰がたたなくなるほどだったらよう・・・。
・・・はっはー、江口殿のレッスンは、これのタメか。(っておいおい)
二十日、氷見妙見社にて能見物。隆元、能にハマる。能は数日行われる。
二十三日、大内義隆、氷見へ社参、ご、後逗留・・・。
(三楽堂) 堂々と書いてるものな。ご逗留って。
四月一日、御殿中へ出仕。
二日、一条大納言房家送別パーティー(湯田温泉にて)
(三楽堂) また、十日も記述がない・・・。心配だ。
(にゃぐ) ・・・やっぱな。名残を惜しんで、また3ピー(だから(泣))だ。
そうか。隆元には、3ピーは辛すぎるんだ。それとも、イヤで拗ねたのだろうか。
十二日、能見物。能マニア隆元、初日から鑑賞。
二十日、大内義隆、隆元に鮒十尾を贈る。
二十四日、大内義隆、隆元を魚攻め。鱈五尾贈る。鷹三羽おまけつき。
五月一日、殿中へ出仕。
(三楽堂) どうやら、月はじめに出仕が義務づけられていたようですな。勤務記録表でも 書いていたのかな。
(矢古女)月末にまとめてハンコ押すなんて、しなかったんですね・・。(な、何書いてんだ(^^;;))
四日、青景隆著が隆元へかたびらを持参。
五日、隆元出仕。陶五郎(隆房)、大蔵寺宿所を訪問。犬追物の誘いか?
(三楽堂)
五郎「やあ、ボクはスエゴロー。ドッグレース大好き少年さ」
隆元「ドッグレース?」
五郎「そうさッ、サムライのスポーツ、ドッグレースさ! 青い空ッ、白い砂ッ、かけまわるワン公たちッ。能なんかメじゃないゼッ」
隆元「面白そう・・・」
隆元、両眼をキラキラッ。陶五郎、両眼をギラギラッ、生唾ゴックン。
(矢古女) 陶五郎は、時折、チェックしてますねえ。どんな目で見てたのかなあ、陶は、隆元くんのこと。
「そーか、そーか、これが、毛利の、な〜るほど、ふう〜ん・・」
最初に会ったときなんか、隆元くん、居たたまれなくなったろうなあ。(他のとこ行っても、同様だろうしなあ・・)
(にゃぐ) この二人って、恋敵同志だよね?
(三楽堂) そうそう。どちらも大内の相手。
(矢古女) 前々から不思議だったのだけど。
大内って、お相手たちに、ことごとく裏切られているんですよね。陶五郎の例もあるけど、陶が謀反して、追い詰められていったとき、大内が最後まで安否を気遣っていたという、寵童君なんて、よりによって、内藤隆世(最期まで陶隆房に従ってましたね。なお、隆元くんの奥さんの甥です)と浮気していて、結局隆世を頼って逃げた、というではないですか。
なのに、隆元くんだけが、大内のことを思って・・。(ホント?(^^;))
(ぺら)  陶ってけっこう隆元くんに色目を使っていたのですね。いやあ、知らなんだ。ひょっとしてさあ、隆元くん、陶にひどい目に合わされた、とか・・。で、けっこうそれを恨みに思っていたりして・・。大内への愛と、陶への恨みが重なって、後年の闘う隆元につながっていくとか。(陶にしたら、気持ちいいことをしてあげたつもりなのに、隆元くんにとっては苦痛だったとか)ってことは大内のは気持ちよかったってことなんだな・・。やはり、とてつもない技を持っていたらしい。>すけべ大内
(にゃぐ) 陶・・・。攻めの才能も技も、なかったんだな。きっと・・・。
(怪異)  ちうことは、大内はモテる、ということなんでしょうねぇ(笑)
(にゃぐ) 大内。困ったヤツだ。が、我々にとっては有り難いヤツだ・・・。
(ぺら)  でも、大内くん、けっきょく最後には裏切られているってパターンが多そう だしなあ。やっぱり、ただの助平ではダメなんでしょうなあ。(笑)
(矢古女) 何がいけないんでしょうねえ(笑)(そして、どうして隆元くんだけ・・)
(ぺら)  もしかしたらすけべ大内って、つきあいが長くなるとだんだんにあらが見えてくるタイプの人だったのかな?
隆元くんだけは早めに実家へ帰っちゃったから、はじめての体験の美しい思い出だけが残った、ということなのかも・・。
(にゃぐ) あらが見えないうちに別れてしまったのね。なるほど。あーんど。最初のオトコはなかなか忘れられないという心理も・・・。
(矢古女) 厳島合戦あたりでは、吉見正頼なんか、大内派ですよね。マジな話(笑)
(にゃぐ) しかし、大内の趣味は、まだつかめないなあ。美形だったらなんでも手当たり次第、って感じなのかしらん。
(ぺら) 大内の場合は、男女問わず自分の趣味にこだわらず探求心のおもむくままに、手当たりしだい手をつけていた?(尼さんまでものにしていた、っていう話だしぃ・・。)
(三楽堂) 誰か、この連中に何とか言ってやってくれい(笑)。
十六日、陶殿へ御犬追物御見物に候。 (三楽堂) 陶隆房主催のドッグレースに隆元が誘われたことを知った大内、怒る。
義隆「う〜、陶め。犬で隆元を釣りおって。ようし、こうなったらこっちも・・・わが秘蔵のハグロキャイーンを出走させよ」
十八日、御殿中へ御犬追物御見物に候。隆元、犬追物にハマる。
(三楽堂) 隆元は、かぶれやすい質らしい。一方、隆元の心をつなぎとめようと、大内も陶もワンちゃんをエサに必死です。
六月一日、御殿中へ出仕。律儀だねえ。
十二日、大内義隆、隆元にくらげをプレゼント。
(三楽堂)
隆元「おや、このクラゲは書状を携えておるぞ・・・。どれどれ」
義隆(の声)「お〜い、犬追物またやるぞお」
十四日、大内義隆、桟敷席にて祇園会見物。
十六日、御殿中へ御犬追物御見物に候。義隆の家臣麻生殿、隆元を誘うが、断られる。
(にゃぐ) やっぱ、3ピーは・・・。
(にゃぐ) 愛のらぶらぶ年代記だなぁ。あまりにも、露骨だわ。
『離れていたくないっ!!』ってのがにじみ出ている・・・。
(矢古女) この山口滞在で、隆元くんは、すっかり人が変わってしまった、と言われてるんですよね。(しみじみ・・)
(三楽堂) 隆元はなお数年、山口に滞在することになります。今回、隆元を射止められなかった陶五郎隆房は、「犬がだめなら馬で」と、後年、山口へやってきた隆元の弟元春に名馬近江黒を贈って兄弟の契りを結ぶことになります。
第4章へつづく


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