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 寛永元年(1624)、江戸城の鬼門として将軍家の菩提寺として寛永寺を建立した、総坪数が36万坪の樹木の茂った静かな森でした。京都の比叡山と同じく年号を寺号とし、東照宮を始め徳川将軍家の霊廟等と共に、東叡山寛永寺は江戸第一の大寺でした。
 また、上野広小路は江戸時代に火除け地として設けられ、広場が無かった市中で賑うようになった。今の大噴水の辺りは竹の台と言われ、根本中堂を中心とした多数の壮麗な堂塔が点在していました。
 慶應4年(1868)の彰義隊の戦いで殆どの堂宇を焼失し、境内の大半は明治6年に公園となりました。また、子院跡地に、明治16年日本鉄道会社の上野・熊谷間が開通し上野駅となった。


上野東照宮
上野東照宮
 元和2年(1616)2月4日、見舞いの為に駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ神君より三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言をされた。そこで藤堂家の屋敷地であるこの上野の山に、寛永4年、1627年に東照宮を造営した。けれど三代将軍家光は、この建物に満足出来ず、慶安4年、江戸の象徴、金色殿として改築した。
開山堂
開山堂
 寛永寺の開山天海僧正を(慈眼大師)を祭る、慈恵大師を併祀しているところから、一般には両大師と言い う。
上野大仏
上野大仏
 関東大震災で倒壊した、大仏の頭部を祀る。
上野黒門
黒門
 元は上野寛永寺の正門であった。上野戦争の時に彰義隊はこの門を本陣として戦った。 円通寺住職が放置されていた戦死者を境内に葬った縁で、明治40年(1907)に現在地に移された。 今も弾痕の跡が多数残っている。
五条天神社
五条天神社
 十二代景行天皇の御代、日本武尊か東夷征伐の為、上野忍ヶ丘を通ったときに、薬祖神2柱の大神にご加護を頂いたことを感謝され、この地に両神を祀ったことに創始する。
 
御祭神は主神が大己貴命、少彦名命、菅原道真公
不忍弁天堂
不忍弁天堂
 上野公園の隣にあり、かつての東京湾の名残です。江戸時代は池の周囲に水茶屋が並び町民の遊び場でした。不忍池弁天堂は寛永寺の境外祠堂で寛永年間(1624〜44)に常陸下館城主水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったのに始まります。現在の堂は昭和33年の再建です。
巖有院霊廟勅額門
巖有院
 四代将軍家綱の霊廟は権現造りの華麗な建物であったが、戦災で焼失し勅額門、水盤舎、宝燈を残すのみです。
清水観音堂
清水観音堂
 清水観音堂は京都清水寺の僧が清水寺に安置されていた千手観音を天海僧正に献じたことに起因し、 寛永8年(1631)清水寺にならい創建されました。

第1回オフ会開催地
テーマ:将軍家の菩提寺
◆開催日:2001年5月27日(日曜日)
◆集合場所:鶯谷駅 根岸笹の雪
◆訪問場所(徒歩3時間程度)
  1. 笹乃雪 豆富料理
    • 上野寛永寺の門主、輪王寺宮がに就く際に同行した、お抱え職人が元禄4年(1691)、音無川沿いに豆腐を出す茶屋を開いた。
  2. ねぎし三平堂前
  3. 谷中霊園
  4. 寛永寺特別拝観
  5. 寛永寺葵の間
    • 徳川慶喜公謹慎の間
  6. 徳川綱吉公墓地
    • 青銅製の宝塔に綱吉公の権勢を感じます
  7. 徳川吉宗公墓地
    • 綱吉公から一変し、享保の改革、倹約政策が伝わります
  8. 輪王寺両大師堂
  9. 寛永寺旧本坊表門
    • 彰義隊の戦争による弾痕の跡を残しています。
  10. 上野東照宮
  11. 清水観音堂
初めて主催したオフ会、特別に寛永寺葵の間を拝見しました。

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