音楽とは、芸術とは

 

森本 優

2022.1.3


新城島の豊年祭

 今から40年以上も前の経験である。

 7月の下旬ごろ、新城島に住んでいた住民とその子孫たちが、西表島や石垣島などから新城島に集まり、豊年祭を執り行っていた。

 ニライカナイから来訪神を迎えるため、目が落ちた夕暮れの浜辺で西方に向かって祈りを捧げた後、御嶽に来訪神(アカマタ・クロマタ)が現れるらしい。

 その後、アカマタ・クロマタが夜通し各家々を巡り祝福を授けるのだが、その間、村人が二手に分かれて掛け合いでアカマタ・クロマタの登場を待ちわびる歌を歌い続ける。

 アカマタ・クロマタの登場によって、その場の雰囲気は一気に活気づき、歌の内容も、豊かな稔りに感謝し各家々の繁栄を祈願するものとなる。

 人々は、周りの動植物、島、海、大空の星々などの無数の魂たちと交感し合い、つながり合いながら歌い巡る。透明な宇宙全体に溢れ出て溶け込んでゆくような至福の時を共有する。

 白々と明けた浜辺の朝、来訪神の祝福を受けた人々が晴れ晴れとした面持ちで帰りの舟に乗船し合い散ってゆく。

 

 あの経験を踏まえて、音楽とは何か、芸術とは何かについて少し考察してみたい。

 

音楽とは

 「草のそよぎにも、小川のせせらぎにも、耳を傾ければそこに音楽がある」とは英国詩人バイロンの言である。

 ところで旧来からの説では、音楽とは「人声や楽器の音による芸術」とされている。とすればバイロンの言は単なる戯言にしか過ぎなくなってしまうことになる。

 旧来説では、音の連なりは「人声や楽器」によるものとされている。現代では「ノイズ」や自然の音も素材として加工・編集され利用されているが、「人声や楽器」を例示列挙と考えるなら、さまざまな音源が対象となり、それらの音を素材として使ったものもまた、旧来説が定義する「音楽」の範囲内に止まることだろう。

 しかし「草のそよぎ」・「小川のせせらぎ」や、「4分33秒」(ジョン・ケ一ジ)で聞こえてきた周辺の様々な音など、素材として加工され編集されていない生の音の連なりは、「人声や楽器」による人為的な音の連なりとは違い、旧来説からすると「音楽」ではないことになる。

 しかしそれに対する反論は少なくない。

 小川のせせらぎや鳥のさえずり、樹々が水を吸い上げる音、天体が発する周波数(音に変換されうる)などに芸術性を感じる人間は少なからず存在する。彼らにとって自然が発する生の音や変換された音の連なりも、また音楽であり歌なのである。

 

 生命宇宙の中で生成消滅する個々の存在(魂※)は、それぞれの周波数(波動)を持たされてこの世に投げ込まれている。そして楽譜(宇宙の理法)に則ってそれぞれの生の軌跡の中で己の曲を奏で踊り歌い続けている。そして個別の歌(生きざま〉の中にも芸術性を感じ取ることができるのだが、それが他の存在の曲や歌と混じり合い反響しあって全宇宙規模の壮大な音楽、すなわち巨大オーケストラや合唱となっているのである。

 このように考えるなら、人間の知的作業によって生み出される人為的な創作的表現は、さしずめ個別(即全宇宙)が体現している「芸術作品」に対する二次的創作物のようなものとも言えるのである。

 

※「魂」とは、生命宇宙の中で生成・消滅する個別相の「いのち」

それは生命宇宙という大海の表面に現れては消えてゆく無数の波のようなもの

そして意識の中に表われた「世界」とは、波の上に浮かひ漂う泡沫にしか過ぎない

また「いのち」とは、全宇宙を発現させ統一する力

したがって「いのち」は無機物界にも宿っている

天体の運行にも、気高く屹立する山々にも、様々に表情を変える海洋にも

 

「感情」とは、魂の状態の発露

天体や山・海なども感情を現す

無暗に山や森を切り開き海を汚せば、彼らは悲しみそして怒り出すだろう

植物界でも同様に感情を現す

干ばつで枯れかかった草木は、ぐったりとした姿で苦しみを表すが、慈雨に会えば、勢いを盛り返し喜びを全身で表現する

動物界ではその感情が複雑になってくる

人間に至って、芸術に対して感動を覚えることができるようになる

 

二次的創作物と芸術性

 ところで人間は、知性を発達させ感覚的な世界から物事を抽象化し、概念化して言葉という道具を使うようになった。

 言葉は概念の乗りものなのだから、言葉で感情を表すといっても、その時々の魂の状態の表れである感情を直接示すのは、言葉ではなく、言葉として発せられた音声や表情・動作などの身体的表現である。

 人生という舞台では、そのような身体的表現(生きざまそのもの)が芸術性を帯ぴるのだが、人間が言葉(詩)によって、また音声や楽器などによる音楽によって人々に感動を与えるのは、そのような直接的な感情の露出によってではない。

 人為的な二次的創作物としての詩や音楽とは、一言でいえば、魂(いのち)が持つに至ったさまざまな階層の感情を写し出し、それを言葉や音の旋律によって表現したものである、と私は考えている。

 

 人生行路の過程において子供の頃は、諸欲が未だ強く発現し出していない状態でありながら、知性は比較的早い段階で準備されるため、表象能力(感受性)の高まりの中で物事の本質を写し出し、絵画や歌など感覚的な領域で芸術性を発揮する場合が数多く見受けられる。

 大人になると、様々な欲求が強く発現してくるため、一般的にはそのような芸術性を発揮する場面は少なくなるが、表象能力が高い芸術家の場合、その感情の渦を、さらには深海からのメッセ一ジを、透明な鏡となって写し出し何らかの形にして表現することにもなる。強力な場の力が働くのだが、同時に芸術家にとって昇華のきっかけともなり、創作活動に向かうことになるのである。

 不可思議な力が憑依するという点で、芸術家はシヤ一マン的な要素を多分に持つ存在なのである。

 

 私たち人間が芸術性を感受できるのは、感情の渦から逃れ出て透明な世界から眺めているとき。

 あらゆる場面で立ち現れてくる欲から解き放たれ、知性が高まる時、人は純粋な鏡となってその場や世界、さらには宇宙そのものの実相を写し出すことができるし、想像を膨らませることにもなる。

 

 音楽は感情を素材とした表現であるといえ、概念を素材とした詩や思想・哲学とは異なり直接的で分かりやすいので、古代より音楽による管理・統治がなされてきた。現代においても、大衆への働きかけ効果が絶大なため、商業的利益や戦争遂行などの様々な目的のために音楽は利用されている。

 しかしそのような目的はきっかけにしか過きず、目的・動機の如何によって創作的に表現されたものの芸術性を否定することはできない。

 

 あらゆる時代において、世界各地で、人種・民族を超えて、形式を異にしながらも、人を感動させ得る無数の芸術性を帯びた表現が立ち表われ、そして消えてゆく。それらは人知れず野に咲き誇る大小さまざまな尽きることのない花々であり、それらを写し出した人為的な無数の創作的表現でもある。それらは価値付けられたエトセトラの世界とは無縁なのである。

 

 この豊年祭の歌をはじめとした南西諸島の民謡も、島々の自然と住民の生活そのものを写し出し歌い継がれてきたものが多い。これらは確かに著名な芸術家が作詞・作曲したような高度に洗練されたものとは言えないかもしれない。しかし、だからこそ、島々の清々しい自然とそれに抱かれ生活を営む人々の心情がストレートに伝わってきて、その感動が今でも私の心の底に強く印象付けられているのである。

 

おわりに 

 今、尖閣諸島の防衛と「台湾有事」に備えて、八重山地方を含む南西諸島に自衛隊によるミサイル基地が配備されつつあるらしい。米・中がこの地で衝突すれば住民が犠牲になることは明々白々である。衝突の度が深ければ日本列島全体が矢面に立たされることになってしまうだろう。

 主権国家として日本は、両国から一定の距離を保ち、独自の外交を展開して紛争を回避すべきではないのか。一方の側に付いて相手国を煽るのは慎み、国民の生命・自由を第一に考え行動するのが政治家の務めである。.※

 二度と沖縄戦のような悲劇を繰り返してはならない。

 

多極化世界での国家戦略」(17/5/25)参照


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