ペン画 1994年度作 

 

 

 

編集委員制度発足に際しての抱負 

        森本 優    

 

 編集委員制度が第五集から発足しました。この新しいシステムの中で私が一番大切にしたいことは、「誰でもが気楽に参加できる場作りに心がける」ことです。

 野に生える一本のユリの花を百人が見れば、百人が百人、それぞれ多少なりとも違った印象なり思いをもって見るのが本当なのです。「百姓天国」に何を見るか、それぞれ、それに触れ合った個々人によって当然異なってくるはずです。それでよろしいのです。

 仲間を見出す人もいるでしょう。敵を見出す人もいるでしょう。エネルギーの浪費と見る人もいるでしょう。世直し運動と見る人もいるでしょう。たんなる浮ついたものの自己満足と見る人もいるでしょう。まったく関係ないと言う人もいるでしょう。

 でも、もし少しでも「百姓天国」が気になる存在であるとしたら・・。たとえあなた自身のそれに対する評価がネガティブであったとしても、ここに参加して、この場を変えてゆくこともできるのです。そのような機会を私達は誰にでも保証しながら、この雑誌を発刊し続けています。

 この場では、一定の枠にはまった見方を強要することはありませんし、特定の見方を排除するものでもありません。参加する個々人すべてが、それぞれ違った見方をしていると言ったほうがいいのかもしれません。

 「百姓」をどう定義するか、「天国」とは何か、それは参加する個々人の内にのみ答があるのではないでしょうか。

 確かに、個々人の見方は独断と偏見に満ちているかもしれませんが、そこから出立しなければならないのが人間の性(さが)というものです。しかしそこに止まらないのも人間なのです。

 自身を、色んな個性がぶつかり練磨し合う場に置くなら、そこから得られるものははかりしれません。今、このような場を確保することが最も重大な課題となっています。

 当ネットワークがある特定の運動体にならないよう努めているのには、深い理由があってのことなのです。主義の主張及ぴ運動は、個々人の立場で自由に主張し実践してもらっています。

 どの主張なり実践がメジャーになるか、又はマイノリティーに止まろうとしているのかは問題ではないのです。「百姓天国」はそれぞれの踏み台になれればよろしいのです。

 「百姓」や若い「半百姓」の意見・アイディアが公に共有され、その結果として社会そのものが根底から徐々に変わっていけたら素敵だと思います。そのような場を「百姓天国」に確保していきたいものです。

 

「百姓天国」編集局ニュースNO.6 1993.2.28発行より

  

つづく

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