戦略と戦術

 

 

 

 今回は、戦略と戦術に関して少し述べて見ようと思う。

 

  一、戦略の必要性

 

 戦略を全く欠き、その時々の戦術のみに心を砕くとするならば、それは展望のない糞づまりの状態を反映しているとしか言いようがないであろう。

 戦略における本質的な敵目標を見極めずに、その時々の現象的な諸敵目標のみに汲々とすることは、直・戦いの行きづまりを物語ることでしかないのである。

 我々は、戦術に対して志操の連帯を説く前に、まずその本質的な敵目標を見極めねばならない。その確認の下で初めて、現在我々が直面している現象的な諸敵目標を狙い撃ちつつ、その本質的なものに迫ってゆかねばならないのである。

 そして、その認識(自覚)に基づいて初めて、その志操の連帯は確固たるものとして生じて来るであろうし、又・その連帯の範囲も一切の万有に及んで来ることになると言わねばならないのである。

 

  二、認識の地位

 

 ところで、人間とは頗る形而上的動物である。

 人間は理念なり思想なりによって己れの行為を律するものであり、たとえそれが影であると自覚することが出来たとしても、それに己れの生命を賭すこともあるのである。

 然しこれに対して、行為の動機としての理念なり思想なりを欠けば、如何に志操の連帯を固めようとしても、結局はその方向性を見失って自滅するしかないであろう。

 従って我々は、志操を連結し行為を律する為には、どうしても認識に訴えざるを得なくなるのである。

 特に現代においては、以前の時代とは異なっており、認識に訴えて社会を変革してゆかねばならない。何故ならば、我々自身、生存そのものが断たれるか否かの切迫した条件の中に置かれているわけでもなく、その直接的な生命の噴出を期待することが出来ないからである。

 即ち、個体の発現を規定する条件としては、統一力(実質的条件)とイデア(形式的条件)とに区別され得、後者は更に性格面と表象能力面とに分けられ得るとしよう。そこでまず、民衆の生存を脅かすほどの強大な力が現出して来る場合には、人々は生存を確保したいという一点において、各自の思想や目的の相違を留保しつつも、共に協力し合ってその敵目標に反撃することにもなるであろう。

 然し、そのような力を持った強大な敵目標が存在せず、その上生存が満たされてしまっている状態では、個々の者は勝手な思想や目的の中で行為を律することになり、共同戦線などほとんど必要なくなることであろう。変革しようとする動きなど、ほとんど生じては来ないと言わねばならない。

 そして同様なことが、強大な敵目標がうまく隠蔽されてしまっている場合にも言えるのである。

 従って、そのような状態では、前述の諸条件の内、性格面(性格を規定する枠で、その枠内で陰性・陽性の波の影響を受けることになる)は生まれつき変わらぬものとして与えられているのである以上、特に他の一方の表象能力面において認識(意識)を高めてゆくことによってでしか、己れの発現を規定し、社会を変革してゆくことは出来なくなるのである。

 ところで、その認識がなされる場合であっても、それが直観の段階に止まるとすれば、たとえそれが個体の行為をその場その場で導きはするとしても、それでは決して普遍的・客観的事業に参加することは出来ず、只・その時々の状況に流され続けることにならざるを得ない。

 又、たとえ推論がなされる場合であっても、その働きが中途半端なもので止まる限り、その働きの中で様々な都合の良い幻影が作り出され、直観内で得られたものを合理化し歪めてしまうことになる。そして、そのような幻を実体と見なしてしまうことから、その相違の為に互いに殺し合ったりすることにもなるのである。

 従って、人間として一度反省的能力を持たされた以上、それを再び捨て元の動物に戻ることは出来ない為、我々に出来ることは、その幻影を打ち砕くほどにまでそれを極度に高めることしかないのである。

 即ち、我々は理性を打ち砕く理性を養うほどにまで己れの認識を高めなければならないのであり、そのことによってでしか、何も普遍的な事業は始まり得ないのである。さもなければ、叡智的世界を現出せんとする努力も、その幻影によって弄ばれるだけに終ってしまうのである。

 さてそこで、理性による構築物が崩れ去った後では、「人生でもっとも苦しいのは夢から醒めて行くべき道がないこと」(魯迅)になり、その為、「夢」が破れ「道」を見失う度ごとに、再び新たな「夢」を描き出し、その新たな「道」を歩んでゆくことにもなってしまうであろう。

 然し、「夢」から醒め「道」が跡絶え消え去ってしまうかの如く思われるのは、我々自身が表象内に表される幻影を実体と見なしているからにほかならず、そこで表される「夢」に頼っているからにほかならないのである。

 その「道」は表象内に表された夢の又夢、決して宇宙の理法としての道ではないと言わねばならない。

 道は、それ自体では決して消え失せたり、跡絶えてしまったりすることはなく、此の全宇宙の万有は常に、この道に従って己れ自身を発現しようと苦闘しているのである。

 我々は、「道」を見失った時初めて、本来の道を己れの内奥に辿って探し求めることが出来る切っ掛けを持つことであろう。

 「夢」を次々と生み出して「道」を歩んでゆくのではなく、己れの内奥に辿って宇宙の理法としての道を体得してゆかねばならない。その道を歩んでゆかねばならないのである。そして、その道を体現してゆくことによって初めて、表された影としての「夢」にではなく、風としての夢に酔い痴れることになると言わねばならないのである。

 正にこの道において、右か左か、上か下か、保守か革新か、などと言う弁別は超克されることになるのである。

 「道絶えたときに必要なのは、むしろ夢なのであります。だが、将来の夢を見てはなりません。私はこう考えます。道がない場合に必要なのは夢だが、それは現在の夢なのであると」(魯迅)

 

 さてところで、以上のように、一切の構築物が崩れ去った中から、今まで無視され有害視されていた本質的なものに対する認識が育ってゆかねばならない。その認識の下で、一体何がなされねばならないのかが、個々の者の内で問われ始めねばならないのである。

 特に現代の状況においては、権力による管理・支配の状態を見抜くことの出来る高度な認識と同時に、己れ自身が一体何を求めているのか(宇宙の理法)を知ることが必要となって来るであろう。そのような認識がまず己れを動かし、変革を推し進めてゆかねばならないのである。

 さもなければ、この管理された檻の中で眠り続けることになるであろうし、又・直観的に何かをなさねばならないと感じ取っていても、それでは何をなしたら良いのか分からないまま、無闇に力を消耗させるだけに終ることになるのである。

 さてそのようにして、様々な理念なり思想なりを統一し止揚し得るような行為原理としての認識を詰めてゆき、明確で普遍的な道をすべての者達に指し示してやることが、今・差し迫って必要なことなのである。

 我々は、普遍的な認識に至って初めて、己れの星に自覚しつつ従うことが出来るのである。己れの環境・資質に従いながらも、その認識の下で常に自覚しつつ、混沌とした道を歩んでゆくことが出来るのである。

 

 以上のことがなされ得るには、まず初めに、様々な理念や思想を対決させ、高度なものに鍛え上げてゆく場が必要となるであろう。

 そして次に、その中で明確に本質的な敵目標を浮かび上がらせ、それを元にして今度は、様々な個人や組織が、様々なやり方で、様々な役割を果たしつつ、その敵目標を狙い撃たねばならないのである。

 まず、どうしても思想戦を活性化してゆく必要がある。そして、その中で鍛えられた認識の下で、それぞれの立場を認め合いながら実践に移さねばならない。

 単に結合・運動の手段なり支柱なりを担ぎ出し、それに忠誠を誓うような志操の連帯(強制)では決して何も生まれることはないであろう。

 志操の連帯は、各個人が、その共通の意志(宇宙の理法に基づき己れ自身を真正に発現せんとする)とその自覚の下で、それぞれの闘いを闘い抜くことによってでしか普遍性を帯びては来ないのである。

 

  三、虚空への道

 

 さて以上のようにして得られた認識の下では、究極・依拠すべきは、己れ自身を真正に発現しようとする意志、即ち、より正確に言えば、宇宙の理法でなければならなくなるであろう。

 そしてその場合、その意欲は、単に人間のものだけではなく、万有の持つそれぞれ自性に適ったものも含まれると言わねばならない。

 その意欲の下で、「悠久の風と水の呂律」は実現されることになる。

 風・地・火・水などや、花を開き実を結ばんとしている一草木に至るまで、すべての魂は、己の自性に従いつつ常に己れ自身を発現させよう、開花させようとすることになるのである。

 ところで、その開花も、我々万有すべてが、それぞれ関係を持たされ一つの全体として生命を持たされている以上、個々のものを、他のものと全く切り離したままで、開花させることは決して出来ないと言わねばならない。

 常にある者の開花は、他の者達によって支えられているのである。

 従って我々は、己れ自身のみの開花を目的とすべきではなく、もし己れ自身が花開かんとするならば、まず、回りの者達(人間のみでなく、すべての魂達)を支え、それらの自性を発現させてやらねばならない。

 そのことによって初めて、我々は此の世をより歓喜溢れたものにしてゆくことが出来るのであり、同時に、己れ自身も自ずから花開いてゆくことになるのである。

 以上のことから、我々が革命を遂行せんとするならば、その依拠すべきは、まず生存が危ぶまれている者達に対しては、その生存を確保しようとする意欲に、次に純粋に相手を恋し求めている者達に対しては、その性的な意欲に、又・創作に強く打ち込もうとしている者達及び打ち込んでいる者達に対しては、その知的な意欲と彼自身の天空に、そして更に己れを打ち滅ぼして彼の虚空に至り普遍的一者と合一せんとする者達に対しては、その神的な意欲に、それぞれ求めねばならないのである。

 従って確かに、生存を確保しようとしている者達も、その理法を実現せんとしている点では革命を遂行していると言えるであろうが、然し革命は単にそれのみに限られることはなく、その欲求が満たされるなら、更に上位の革命を実践してゆかねばならない。己れの生命を革め、より上位のものへと生命を開花させてゆかねばならないのである。

 単に支配者層と被支配者層との位置を入れ換えるだけのことでは、決して生命は革まらないのである。

 

 まず初めに、一人一人の人間から始めること。一人一人の人間の心に認識の光を燈してゆくことから始めねばならない。

 たとえ初めは微々たる運動であっても、やがて反応し始めるなら、それは強大なものとなるであろう。核分裂は、分裂し始めが大切で、分裂し始めたなら連鎖反応は加速度的に早まり、その効力は量り知れぬほど厖大なものとなるのである。

 「大衆路線」という政治的配慮の中で、一人の人間を一(票)の力と見て、「多数の力を集めれば革命が成される」などと考えているようでは話にならないであろう。

 このようなリアリズムでは、我々の生命は決して花開くことなくそのまま踏み躙られてしまうことになる。

 単に魂を有用な力(量)としてしか見ないのであれば、終に、その魂の持つ有効な質を発現させ得ないまま、それを踏み躙ってしまうことになる。そして、常に多数の力が「絶対的」な真理の基準となり下がってしまうのである。

 然し、此の世に叡智的世界を現出せんとするなら、多数の力を背景にした「革命」ではなく、個々の魂の内に、それぞれ己れ自身を開花させてゆく革命がなされてゆかねばならないであろう。

 それが宇宙の理法に適った唯一の道、即ち惟神の道だからである。

 

  四、戦略下での戦術

 

 さて最後に、戦略と現時点における戦術を提案することにする。

 現代の人間界の状況を鑑みるに、まず、資本の侵略によって支配され管理されている者達、特に東南アジア・中南米・アフリカ等の経済的(軍事的)に劣った国々の人民の力をその侵略に対して向けさせ、そしてその一方、経済的(軍事的)に優位に立っている国々の人民に関しては、支配・管理の根源としての物欲を否定させ、虚空への道を歩ませることが必要となるであろう。

 即ち、その諸悪の根源である物欲を打ち砕くには、まず生存的欲求の下で生存を確保せんとする強大な力を外に、そして虚空へ至らんとする(捨てる)力を内に、連動させることが必要である。

 そして最終的には、その物欲の下で歪められている一切の魂を、それぞれの自性に従って開花させてゆかねばならないのである。

 

 以上が大局的な方向であるが、現時点においては、それを目標として大きな祭りの準備をせねばならない。

 それが国家(権力・体制)の主導の下でなされるのか、それとも、個々の民衆の手で、神的な大小無数の混沌とした渦の中で遂行されるのかは、その準備を今・如何に周到になすかによるのである。

 そして、その第一歩として、今・我々は、思想戦を活性化してゆかねばならないのである。

 

 

戦略と戦術ーーおわり

 

 

つづく

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