今・人類は何をなすべきか

 

 

 

 現在・我々が直面している地球規模の危機を回避する為、それが一体何に基づくのかをより深く追求して自覚にまで高めなければならない。

 そして次に、その根源を断つ準備を、出来るだけ早く多くの心ある者達に立ててもらうことが必要である。

 そこで、私はここに自身の考えをまとめて提示することにしよう。

 前出の二論文を手がかりとしてまず、何がその根源であるのかを、人類の発現過程の中から探り出し、次にその根源を如何にして狙い撃つかを述べてみようと思う。

 

  一、人類史概観

 

 まず最初に、人類が発現されてゆく過程を扱わねばならないのであるが、その為には、それと、人間個人の発現過程及び民族のそれとを、パラレルに比較して見ることも必要である。そこには一定の類似性が認められるからである。

 即ち、霊性に聞かれている時期が発生後間もなく生じ、次に理性の発達に応じて技術が進歩してゆき、そして物質的な繁栄がもたらされ、最後には、その物質的欲求の下で、すべてが廃退し没落してゆく、といった傾向の過程を前三者とも持つのである。

 そこでここでは、そのことを念頭に置きながら人類史を概観してみることにする。

 

 まず、何の様にして人類が出現するようになるのかが問題となる。その場合、ジャングルの楽園から敵のいる草原への進出の事実に着目せねばならない。そのような事実が何故生じて来るのかを探らねばならない。

 即ちそれは、この段階で人間への準備が着々と進みつつあり、表象能力が発達し出して、外の未知なる世界に対する好奇心が強く発現して来るからにほかならない。

 又・それと対応して、危険に対する賭けも強まって来る。

 草原の中では、敵に対する防禦、そして食物の確保が重大な関心事となるが、その為ますます表象能力は鍛えられ、それは生存の為の不可欠な手段となる。

 即ちそれが、因果的な連結に基づく思考であり、又・概念化の内、一般化の方向に向かう思考である。

 前者においては、道具が加工されて己れの欲している結果が容易に導かれることになり、又・後者においては、その思考の働きによって言葉が発明され、個々の意志が容易に伝達されて集団の作業がより大きなスケールで容易になされることになる。

 そして、その言葉が文字によって記録されるようになり、知識として蓄積されるようになると、人間はその知識を武器にして、己れの意欲を更に強く発現させてゆくことになる。

 そのようにして、この思考能力は、生存的欲求を満たす為に人間に与えられた一つの「キバ」であったのであるが、それが知識の蓄積に基づく技術の発達という意味で、あまりにも強大になると、今度は、その「キバ」を手段として、飽くことなき物質的欲求が発現されて来るようになるのである。

 さてところで、そのような「キバ」を持ちながらも、比較的容易に生存を維持できる所では、その日その日の生活に足るだけのものを狩り、採集するだけで終り、無闇な乱獲・乱取には向かわないであろう。

 従って、貯蓄という考えは全く無意味でしかない。

 そしてそのような生活の中では、表象能力が下位的諸欲求に仕える必要がない為、それは純粋に高まり、精霊達と会話をすることが出来るのである。

 又、きびしい風土の中においても、狩猟・採集で生活を維持しようとする限りは、やはり無闇な乱獲・乱取には向かわないであろう。

 何故なら、その狩猟・採集の対象(自然)は、己れを生かしめてくれる両親や兄弟であり、従って、そのものの死滅は即ち己れ自身の死をも意味することになるからである。

 その為ここでは、前者の場合と比較して、生命の一身共同体性は強まる。

 又・ここでは、貯蓄の考えも発達するであろうが、木の実などの素朴なものに限定されるであろう。

 ところで、そのようなきびしい条件の中で、動植物を支配・管理して、己れの生存を維持しようとする方向が聞かれるであろう。

 それは、狩猟・採集だけでは生存を維持することが不安定な為、生存を確保しようとして、計画的に食料を調達しようとすることになるからである。

 ここにおいて貯蓄の考えが強く発現し出し、将来のことどもに強く想いを致すようになる。

 最初は、狩猟・採集の片手間にやっていたのが、徐々に牧畜・農耕の方に比重が移り、遂には牧畜・農耕だけでやってゆけるほどにまでなる。

 その場合、農耕がまず重大な地位に立つことであろう。

 そして、技術が進み、単純再生産の状態から余剰生産物が生じて来るほどにまで生産力が上がって来ると、今度は、その余剰生産物の蓄積(利潤)を求めて規模を拡大してゆくことになる。生存を確保する為にではなく、その蓄積(力の増加)そのものが目的となってしまうのである。

 そのようにして生産力が向上して人口が増加するにつれ、自給自足の経済は崩壊し出し、様々な職業の分担が行われるようになる。

 そして交換・貨幣経済が成立し出すと、新たな様々な欲求の対象が、人間の物質的欲求を掻き立てることになる。

 即ちこれに対応して、今まで楽園で暮らしていた者達は、その様々な交換物や貨幣を求め出し、その為に己れの楽園を荒らすことになる。又・父母なる天地に抱かれていた者達も、その物質的欲求の為に自然を売り渡してしまう。その欲求の下で乱獲・乱取がなされることになり、その結末として、自然の死滅と同時に、己れらもその母なる大地から離れざるを得なくなるのである。

 このように、技術的進歩から生産力が向上すると、人間の内に物質的欲求が強烈に発現し出し、一切の魂を己れの有用なものと見なし奴隷化してしまう運動が展開し出すことになる。

 以前では、生存的欲求が満たされるなら、その余力は芸術的な方面に向けられ、表象能力は純粋に高まり、全宇宙の様々な囁きを聞き取っていたのであるが、このように物質的欲求が激しく発現し出して来ると、もはやその囁きは途断えてしまい、世界(自然)は、己れの物質的欲求を反映した支配・征服の対象としてしか表されて来なくなるのである。

 ところで、このような閉塞されてしまった社会の中において人間は、全宇宙(神)との交感の場をどうしても持たずにはいられない。

 その支配・従属的な連鎖の中につながれている己れ自身の生命を解き放ち、己れ自身本来の姿(全宇宙)を取り戻そうとする。その運動こそが本来の供犠であり、祭りなのである。そしてこの場合、供物は己れ自身である。

 然しながらこの運動が、我々の意欲を反映した「神」の創出と共に、宗教的な形式に堕し儀式化してしまうと、今度は、我々を外から支配する者としての「神」に対して供物を捧げ、「神」から注がれる恵みによって新たな奴隷化の為の生命力を受け取ろうとすることになるであろう。

 ところが前述通り。供犠が統一力の波の中で生命力を新たにする為のターニングポイントであり、そしてその生命力は各個人己れの内に持つものである以上、そのような奴隷化・管理化の為の囚われた意欲や「神」が打ち砕かれ、新たな何らの囚われもない真正な生命力が吹き上がることこそ、本来の供犠であると言えるのである。

 さて、そのように技術の発達によって生産力が増大し人口が増加すると、その物質的欲求の下で強大な国家権力が出来上がり、地球上の全生命、更には他の天体に対してまでその支配・管理がなされるようになるであろう。

 そしてそのような状態では、本来魂の持つべき真正な発現はその欲求の下でねじ曲げられ、歪められてしまうことになる。

 最底辺における無闇な切迫のみが支配的となり、この地球を塗り潰すことになる。 やがてその解放されなかった全生命は腐り出し、それと同時に支配・管理の主体をも腐蝕させることになる。

 このようにして人類は、一度も解放されることなく、物質的欲求というブラックホールの中に閉じ込められ、腐り果ててゆくことになるのである。

 

  二、何をなすべきか

 

 以上、人類史を概観して来たのであるが、現代は正にその破滅の道を確実に辿りつつあると言わねばならない。物質的な繁栄のみが求められ、己れ自身が本来求めているものが見失われているのが現状である。否・却ってそのようなものを見捨て、飽くことなき欲求に囚われて様々な影を追い回し、己れ以外の生命を無に等しいものとして扱っている。

 このような現状において一体我々は何をなすべきか。もしこの閉塞された状態を解放することが出来るとすれば、それは一体如何なる道であるのか。

 我々はその解放への道をここで探り出さねばならない。

 まず、その道を見極める為には、この現代の地獄図が発現されて来る本質的な根拠をはっきりと認識することから始めねばならないであろう。そして前述の所からそれを、人間が持つに至る物質的欲求に求めることが出来るのである。

 それを肉食や牧畜・農耕に求める説も確かに的を外してはいないであろう。

 然しそれは因果的な把握内でのことで、それでは、何故その肉食なり牧畜なり農耕なりが発現されて来るのかが依然として不明なままなのである。

 そこでは原因ではなく根拠が求められねばならない。そしてその肉食なり牧畜・農耕なりが何故生じて来るのかに関して、二つの区別され得る根拠が認められるであろう。即ち、生存的欲求と物質的欲求である。

 ところで、前者における肉食や牧畜・農耕は、人間に何らの責もないと言わねばならないであろう。

 この段階では、他の動物と同様、生きんが為に必要であるからこそ肉を食い、或は牧畜・農耕をするのであり、それは、植物が生きんが為に無機物を、そして動物が生きんが為に植物を利用し食うのと同じことだからである。そして生きんが為に、人間に本来備わっている能力を使うことも又当然なことであり、決して責められるべきことではない。

 然しその表象能力が、物質的欲求を発現させる切っ掛けとなり、その手段となるに至って我々人問は、彼の「原罪」を背負うことになるのである。

 後者における肉食や牧畜・農耕では、正に一切の魂が有用性の規定の下で奴隷化されてしまうことになり、その奴隷化は前者のものと異なって、飽くことなき欲求の下で常に鎖につながれたものとされてしまう。

 即ち、生存的欲求の下では、それが満たされるならその奴隷化は止むのに、ここでは、その飽くことなき欲求の下で、快い感覚に溺れ美味を追い回し続けたり、又・己れの利得の為に動物や植物を有用な物として扱い、常に隷属させようとする。

 そして、そのような奴隷化は一切の魂に及び、生命無きものとしてその働きを搾取することになるのである。

 さてこのような場合、「医学」も「教育」も、己れの物質的欲求を満たす為の手段となり下がり、本来それらがあるべき姿、即ち魂を療し、魂が己れ自身を真正に発現しようとしているのを助けることは出来なくなってしまう。すべては取り引きの対象に引き下げられてしまうことになる。

 この切迫の中では、支配され・管理されている魂は勿論のこと、当の支配・管理の主体も、その囚われた意欲の為、決して己れを真正に発現させることは出来ないのである。

 以上から、この閉塞された現代の状態は、正に人間において発現されて来る、物質的欲求によることが明らかとなったのである。

 その為、その本質的な敵目標として我々自身の物質的欲求を狙い撃たねばならず、まずそのことがはっきりと自覚(認識)されねばならない。

 そしてその欲求の下で支配され・管理されている魂を解放する長い道程の第一歩として、まず己れ自身の解放から始まらねばならない。人間革命が個々の人間の内で成されてゆかねばならないのである。

 さもなければ、如何に動物や植物そして無機物を「解放」しても、その物質的欲求が人類の中に依然として残り続ける限り、やがては同様な支配・管理の状態が生じて来ると言わねばならないのである。

 

 さて以上のように本質的な敵目標が確認されたのであるが、それでは何の様にしてそれを打ち倒すかが次の問題となるであろう。

 そこで一つの提案を出すことにする。

 まず中心点となるのは、すべての魂が、宇宙の理法の中で、己れの本性に従い存立し合うことである。

 その為、人間が諸悪の根源となるにせよ、それが宇宙の生命の中の魂である以上、それを抹殺するのではなく、その本性に従って真正に発現させねばならない。

 その本性とは、物質的欲求(存在の為の)を最底辺として、生存的欲求・性的欲求・知的欲求がその上に積み重なってゆき、頂点には神(虚空)ヘの欲求があるということである。

 従って、人間となるべく生まれて来る魂は、決して物質的欲求のみによってでは満たされるはずはなく、常に己れの本性に従い上昇しよう、神に近づこうとする意志が認められるのである。そしてそれに従い己れ自身を、エロースなりムーサなり、そしてアガペーなりへと開花させてゆくならば、それこそ宇宙の理法に適うのであり、そうであれば、無闇な切迫の中で他の魂達を支配・管理して、その真正な発現を否定し歪めることも必ずなくなることであろう。

 又、統一力そのものの持つ確執の為に魂の発現が阻止されるとしても、己れを真正に発現しようとしている魂同士においては、それは決して咎められることはないであろう。

 以上のことからここでは、何の様にしてその物質的欲求の最底辺を水平に展開する運動から、それを垂直に上昇し虚空に至らんとする運動に転換させてゆくかが具体的な問題となるのである。

 まず第一に、何よりも自覚が必要である。

 この地獄図を現出させている力の本質・虚しさ知ること。そして次に、その自覚をはっきりと認識にまで高めること。

 そのことによって物質的欲求は残存し得なくなり、徐々にそれは崩れ去ってゆくことになるであろう。

 第二に、食律によってある程度まで欲求の種類を変えること。

 穀菜食(玄米・麦飯等)によって心身を壮健に保ち、表象能力を高めさせること。肉食は血を濁らせて表象能力の高まりを抑えてしまい、下位的な諸欲求を増大させてしまうことから、極力避けるべきであろう。

 そのようにして高められた力は、今度は芸術的創造行為に向かわねばならない。そしてその場合、その行為は文芸のみに限られず、人生における生き様そのものを指すのでなければならない。

 このように、閉塞された現状を解放するには、この物質的欲求の持つ莫大な力を虚空へと差し向けること、エネルギー保存の法則から、無闇に諦観を主張するのではなく、その最底辺で水平に運動している行き詰まったカを、垂直に差し向け、創造的なカに転換してゆくことが、今・差し迫って最も必要なことなのである。

 それがはたして人類的規模で出来るか否かは別として、我々人類に残された唯一の道である以上、それに賭けねばならない。

 単に最底辺の中でベクトルを統合するだけでは何も変わり得ないであろう。そのベクトルを底辺から解き放ち、虚空へと上昇させてゆくことによってしか何も変わり得ないのである。

 ところで、本来の宗教は、正にこのように、魂が己れ自身を真正に発現しようとすることから生じて来るのであり、従って宗教を単なる祈り・信仰にではなく、その宇宙の理法の体現、即ち虚空への道に求めてゆかねばならないのである。

 己れの物質的欲求が強く反映されている「宗教」は、己れの意欲の合理化でしかなく、それでは決して虚空へ至ることはないであろう。

 それは、却ってその道を妨げることしか出来はしないのである。

 

  三、ニヒリズム(認識)革命

 

 最後に、ニヒリズムに関して一言述べておくことにする。

 前述通り、その物質的欲求に囚われている魂(人間)は、己れの表象内に表される自然を単なる知的な光の戯れとして扱い、生命無きものとして破壊し利用してゆく。

 そして、己れこそが一切であり他のものは無であるが如く見なすこのエゴイズムは、現代のような管理された社会の中で己れの意欲が充分満たされなくなると、己れの肥大した魂を養うことが出来ず、それを腐らせてしまう。

 そして、依然として物質的欲求を引き摺り続けながら行き詰まった切迫の中で、他のものを無と見なすだけでなく、今度は己れ自身をも無と見なすに至る。

 然し、その場合の「ニヒリズム」は、エゴイズムの延長線上にあるもので、物質的欲求によってもたらされる一現象であることに注意せねばならない。

 従って、そのような場合の「ニヒリズム」は、ニヒリスティックなエゴイズムとでも言い表すべきものなのである。

 ところで、その囚われた意欲が打ち砕かれ、初めて魂を解放した者は、その意欲の本質を知り、己れを含め一切が無であることを自覚することになるであろう。

 そしてその場合、初めてエゴイズムは崩れ去り、本来の意味でのニヒリズムに目覚めることになる。

 然し、そうではなくても、純粋にその意欲の本質を写し出し、虚しさを覚える場合でも、そのニヒリズムの萌芽が認められるのである。そして、その感じ取っていたものを認識にまで高めるなら、以下のようになるであろう。

 即ち、意欲に基づいて表される世界の影としての性質……無。

 そして、意欲そのものの断えざる変化・泡沫としての性質・…無。

 更には、全宇宙が持つ運動の無意味性・無常性……無。

 従ってニヒリズムは万有において内包されているのであって、歴史の過程において生じて来るものでは決してない。只・それは自覚の問題でしかない。

 そして、キリストにせよ仏陀にせよ、偉大なる宗教家は必ず、そのことに目覚めているはずなのである。  

 ところで、現代の状況から万有を解放するには、正に我々人類が、このニヒリズムに一度徹底的に洗礼されねばならないであろう。

 何故なら、己れの囚われた意欲が打ち砕かれて初めて、今まですべてであると思われていたものが全くの無であり、無としてしか思われなかったものこそがすべてであることに目覚めるからである。

 そしてそれからは、その虚空を掴まえようとして、己れ自身を真正に発現させてゆくことになるからである。

 

 

今・人類は何をなすべきかーーおわり

 

 

つづく

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