第二部 統一力

 

 

  おお、アルジェナよ!  

  超越者は万有の内奥に座し、

  統一力を持って、

  渦の中に生じている万有を

  廻転せしめつつあり。

 

        −−バガヴァド・ギーター

 

 

 

 第一部では、表象機能を中心にして見て来たのであるが、それからのみでは物質現象として我々に示されて来るこの生成界が、何故現にある通りの内容を実質的に持たされねばならないのかを明らかにすることは出来ないままである。

 その為、ここでは、そのあり方を実質的に規定する働きかけを、そのまま形而上の闇の深淵に放っておくような怠情なことはせず、まず、この生成界につけられる足跡から、その統一力の働きを推測することにしよう。

 たとえありそうな話として止まるにせよ、その形而上の領域に対して入り得る限界の線にまで、反省的な能力によって光を当てねばならないのである。

 そこで設定される統一力も、またその背後に控える統一的一者も、その性質上現象であり、そのもの自体に対応する相対的な〈存在〉として止まることになるのではあるが、然しここでは、その相対的な〈存在〉の中で得られる反省内での認識を伝達することが任務となっているのであり、その認識によって、まず己れ自身の姿を見当づけることが必要となっているのである。

 何故なら、生成界を実質的に規定するその力は、正に己れ自身の内奥にも働いているのであり、その生成界のあり方は、取りも直さず己れ自身の姿を示しているはずであるからである。その為、我々は、己れ自身を知る為にも、その生成界につけられる足跡を辿り、それを詳しく分析しながら、万有の生命力とも言うべきその統一力の働きを調べてみなければならないのである。

 そこでまず、生成界として示されるものから、それを表す際に認められる形式面を抽捨し、そこで残される実質面をその推測の材料としなければならない。

 即ち、第一部の表象機能の所で明らかにされた統一形式及び空間形式が、その形式面の内容となるのであり、その両形式を満たす感覚のあり方が、その実質面の内容となるのである。

 然しながら、感覚が統一力の働きを実質的に跡づけるとしても、それは、表象内に表される一側面上の影としての性質を持たされているのである以上、統一力そのものを表すのではないと言わねばならない。

 つまり、この生成界は、感覚を土台として描き出されるのであるが、その感覚は、統一力の働きそのものではなく、それによって表象内に照し出される一面的な影であり、しかもその上、その働きかけて来るものすべてをありのままに汲み尽くすこともできない粗雑なものでしか過ぎないのである。※(1)

 従って、感覚を土台としているその生成界から、その統一力を反省内で推測するだけでは、未だ充分ではないと言わねばならず、その為、統一力の働きを、反省的な認識以外の仕方で求める必要が次に生じて来るのである。

 即ちそれは、表象能力の高まりの中でその働きを純粋に写し出す仕方においてであり、また、直接その働きそのものを己れの内奥に体現する仕方においてである。

 以上の三通りの仕方で、我々は、闇の深淵から働きかけて来るものを掴まえることが可能なのであり、それぞれの仕方で、統一力の一体如何なるものであるかを求めてゆかねばならないのである。

 

※(1)空想や夢も、感覚とは異なった側面上の影を提供しているのである。その為、被統一面上に表されるそれらの影の全域を調べ、その統一力の働きを反省内で推測することも必要となるであろう。

  

   α イデア(個体の発現形式)

 

 そこでまず、第一番目の仕方、即ち、生成界に認められる実質面を調ペ、その統一力の働きを推測してゆくことから始めるとしよう。

 生成界には、表象機能そのものが持つ諸形式によってでは、決して説明することの出来ない何らかの規則性が認められるであろう。椎の実は、椎の実として発現しようと意欲し、決して他のものとしてではないし、人聞は、人間として発現しようと意欲し、決して他のものとしてではないのである。

 その意欲こそが、あの無としてしか規定し得ない何か或るものの意向なのであり、この生成界における万有の実質的なあり方を規定する統一力なのである。

 その力によって、この生成界の渦の中に投げ込まれている我々万有は、様々な不条理な役を演じさせられながら、己れ自身を発現しようとして苦闘するのである。

 さて、その統一力の持つ規則性に着目して、それを概念的な把握の中で抽出してみなければならない。

 然し、既に一般化の所で体系づけられ、設定された諸概念は、その規則性を持たされているのであり、ここでは、それを内容として持つ諸概念に対応して、統一力の中に、その規則性を持たせる諸イデアを設定しようと思うのである。

 その場合、上述通り、再び注意しなければならないのは、物質現象のみに注意が向けられている限り、そのイデアに持たされる内容は、感覚を土台とする生成界から推測されたものとして、一側面上の延長線に、それも極度に抽象化された形で設定されてしまうということである。

 何故ならば、ここで調べているイデアは、表象の為の諸形式とは異なり、個体の発現の為の形式として、統一力そのものの領域に認められねばならず、その為、そのイデアは、表象の為の諸形式のように、それをそのもの自体として推測するようなことは成され得ず、一側面上に表される影から、そのものの有ることを只推測し、その限定面上にそれを設定することが成され得るに止まるからである。

 以上のことから、そのイデアを設定する際には、単に感覚を土台とした世界ばかりではなく、情意として表されるものや、表象を成立させる表象能力も、その統一力の働きに基づくものである以上、当然重大な手掛かりとなるのでなくてはならない。

 即ち、そのイデアを、単に生成界において同一形態を取って発現させる為の形式、とするだけでは充分ではなく、却って、その形態なるものは、それが置かれている条件次第で容易に変化することから、非本質的なものとして重視せず、それとは別のより本質的なものを、その内容として求めねばならないのである。

 その為にこそ、それを、統一力そのものの直接的な表れとしての情意と、統一力そのものの発現としての表象能力とに求める必要が生じて来るのである。

 そして、表象能力においては、その発達の程度が、また情意においては、性格的なものが、それぞれイデア設定の際の重大な指標となるであろう。

 ここではまず、前者の表象能力の段階的な発達を重層構造の中で把握し、次に、後者の性格的なものをその各層の並列面に配置して、各個体の発現形式としてのイデアをより本質的な面から推測してゆくことにする。

 そのようにして、この生成界の実質的なあり方を規定する統一力の働きに対し充分な推測が成されることによって、初めてここで設定されるイデアも、充分本質的な内容を持たされることになるのである。

 ところで、各個体は、そこで設定されるイデアに従って、己れ自身を発現するものとして把握されることになるのであるが、そのような場合には、今度は、統一力そのものが実質面としてあり、そのイデアが発現形式として、形式面を受け持つことになると言うことが出来るであろう。

 そして、単一性の中にある統一力が、その形式を通じて生成界の持つ数多性の中に、無限の個体という装いを取って発現してゆくと説明し得るであろう。

 その場合、その単一性の中で働きかける統一力に対して、己れに与えられるイデアを通して、己れ自身を数多性の中で発現しようとする個体を、別に魂として把握することも出来るであろう。※(1) 

 

 それでは、その表象能力の程度に基づく、重層的な構造に就いて調べてみることにしよう。

 この場合の表象能力の程度を測る基準は、その全般的な能力に基づき、単に、記憶能力や、論理的な概念操作による思考能力などの、特殊なもののみに基づかせてはならない。

(1)まず、何らの表象能力も備わっていず、闇の中で只無闇な切迫に支配され、従属させられているものが住むべき世界の法則が底辺にあり、それを如実に示しているのが無機物界と言えよう。

(2)次に、感覚の段階※(2)しか備わっていず、その漠然とした刺激によって、己れの必要とする養分や水分を求めようとするものが住むべき世界の法則が前者の上にあり、それを如実に示しているのが植物界と言えよう。

(3)そして、更にその上に、悟性の光によって実在的な世界を照し出し、その光の下で食物や性の対象を追い求めるものが住むべき世界の法則があり、それを如実に示しているのが動物界と言えよう。

(4)そして、それらの最上部に、反省的な能力を備え、その表象能力の高さの為、下位に立つもの達が常に持っている渇きを知的な欲求の中で癒し、その上、此の世の一切のものの本質を認識すると同時に、己れ自身の真の姿に気が付くものが住むべき世界の法則があり、それを如実に示すべきであるのが人間界であろう。

 ところが、この重層構造は、各段階とも独立して扱われるべきではなく、上部のものが存立する以上、必ずその下部のものが前提とならねばならないのである。

 人間と成るべく生まれて来るものも、その発現の過程において、その底辺の世界から様々な世界を経て、本来の己れ自身が住むべき世界に至ろうとするのであるが、然し、この生成界の中での様々な確執の為に、本来属すべき世界に属することができず、下位の世界にそのまま止まってしまう場合も少なくないのである。

 即ち、本来人間と成るべく生まれて来るものが、動物界に止まり、食物と性の対象のみを追い回していたり、また、無機物界の中に大きく足を踏み入れたままで、金や権力、そして名声などを追い求めているものがほとんどであろう。彼らは、あの統一力が成す不思議な幻力に騙され、幻影として表されて来るものを、何らかの実体として追い求め続けるのである。

 ところで、以上の重層構造の各段階において支配する統一力の法則は、それぞれの各段階に対応して異なった働きを持つと解すべきであり、その為、たとえ同一であると見なされるものであっても、それが属し、支配される世界の法則に応じて、異なった役割や働きを持たされることになるのである。

 従って、それらの各々異なった法則を持つ上位の世界すべてを、最底辺にある無機物界の世界が持つ法則に還元して、把握しようとすることは無理であると言わねばならない。

 それでは次に、前述の重層構造に対して、並列的な立場に立つ性格的なものに就いて調べてゆくことにしよう。

(1)まず、前出の無機物界を支配する法則の中では、その性格的なものは分化せず、その法則内で働く様々な統一力の状態は、その一身に体現される。緊張・爆発・拡散・収束などの一切の力の状態を、その世界がそのまま体現しているのである。

(2)次に、植物界を支配する法則の中では、その性格的なものが個体同士の間で分化し、個体に持たされるそれぞれの性格に応じて、異なった形態のものとなって発現して来ることになる。

(3)そして、動物界を支配する法則の中では、その分化が著しく、様々な形態において、明確に異なった性格が特徴づけられて来ることになる。

(4)最後に、人間界を支配する法則の中では、たとえ同一形態を持たされ、同程度の表象能力を備えているとしても、その性格的なものの差によって、全く内容の異なった個体が発現されてくることになる。そして、この明確な性格的特徴から、独自の形態を取って発現されて来る植物や動物が持つそれと比較され、それらに喩えられることもなされるのである。

 以上のように、発現形式としてのイデアの内容を縦横から分析して来たが、このようなイデアを通して、統一力は、己れを数多性の中へと投げ込み、個々の魂を発現させることになる。

 その場合、その発現のさせ方は、全く無秩序に投げ込むような乱暴なことはせず、あるものをこの生成界に投げ込み、発現させようとする場合には、予めその準備を整えてから、然る後にそのものを投げ込んで来るのである。

 従って、重層構造に関しては、下位のものが上位のものを準備し、それを支え、また性格的なものに関しても、統一力の何らかの働きかけによって条件が整備されてから、その用意されたものが投げ込まれるとすべきである。

 

 さて、我々万有は、以上のように設定される各自のイデアを通して、己れ自身を発現しようとするのであるが、然し、その反省内で与えられる認識のみからでは、その生成界のあり方を実質的に規定している統一力の働きかけそのものを知ることはないままである。

 ところが、我々には、それを表象能力の高まりの中で写し出し、また実際に、己れの内奥に直接その働きかけを体現することが出来るのである。

 そして、その統一力そのものの体現によって、初めて、反省内での認識なり、純粋観照の中で写し出されるものなりは、具体的な内容を与えられるようになるのであると言わねばならない。

 

※(1)被統一面から、そこで認められる規則性の根拠を二つの別な領域に設定し、表象の際におけるものと、発現の際におけるものとを区別する(図を参照)。

ところで統一面には、常に統一形式が認められるであろう。従って発現においても、万有は常に統一の先端で、生命を持たされ続けることになるのである。

 また、統一力と魂は、同質な力を便宜上言い換えたに過ぎない。

※(2)ここでの感覚は、知性の光によって直覚の段階にまで引き上げられることはないままであり、従って、我々が意識するような〈存在〉など表されることはない。そこでの感覚は、刺激として直接魂に働きかけ、魂の発現を調節し、助けることになるのである。

  

   β 純粋観照

 

 人間の場合、その表象能力の高度な発達の為、感覚を土台として照し出される実在的な世界から、その背後で働いている統一力を純粋に観照し、写し出すことが出来るのである。

 然しながら、そこで得られる表象も、やはり影としての性質を持つ。

 その影を切っ掛けとして、やがて己れ自身にも発現されて来るであろうその統一力に対して不安を覚えることにもなるのであるが、それは、内奥におけるその力の直接的な体現とは異なるのである。

 子供が抱く無垢な不安は、その時期における表象能力の高まりの中で、やがて己れ自身にも発現されて来るであろう様々な統一力の働きを純粋な目で写し出し、それに対して不安を覚えることによるのである。

  

   γ 統一力の体現

 

 ところで、全宇宙への飛翔が表象能力の高まりによる表象であるのなら、全宇宙の体現は、内奥における体験である。

 我々は、その統一力の持つ一切の働きかけを己れの内奥において体現することによって、初めて、全宇宙を同じ場所において体現することが出来るのである。

 裏返して言えば、如何に空間の中を果てから果てまで駆け回ろうとも、限られた狭い統一力の中に踏み止まる限り、何も体現することはなく、何も知ることはない。

 正にその内奥における統一力の体現の質的な深さに従って、反省内での認識の程度は規定されることになり、また純粋に観照されたものも、その具体的な内容を、己れの内奥において与えられることになるのである。

 その統一力の体現の際には、統一主体は、その働きかけを情意として主客合一の中で覚えるが、それは、単に知的な光の戯れとして止まることはなく、己れの内奥から働きかけて来る統一力そのものの直接的な表れとしてあり、我々は、その情意を直接内的に持つことが出来ることによって、初めて、感覚を土台として照し出されて来る世界から、その背後にある統一力、即ち魂の状態までをも察知することが出来るようになるのである。

 もしそうでなければ、その照し出されて来る感覚的な世界は、単なる知的な光の戯れとして点滅されてゆく、全くの幻影のようなものとして止まらざるを得ず、万有の持つ苦しみ・悲しみ・怒り・喜びなどは、決して知られることはないままであろう。

 然し、我々人間は、その統一力の働きを己れの内奥に体現し、しかも、それを情意として表し、その上、その状態を材料として、反省内でその統一力の働きを推測することも出来るのである。

 従って、その統一力の一切の働きを極限にまで体現し、全宇宙を知ることによって、生成界において己れを発現しようとしている個々の魂の一切の状態を、己れ自身の内に辿って察知することが出来るようになるのであり、その上、その統一力の働きを、反省的な認識の光の下で正確に規定することもできるようになるのである。

 そして、その体現の極点において、今まで統一力に支配され、その幻力に欺かれていた統一主体は、その軛から解放され、その内奥に控えている己れ自身の真の姿に目覚めることにもなるであろう。

 

 

第二部 統一力 ーーおわり

 

つづく

目次

ホームページに戻る